#小説 空飛ぶクジラ
第一話
一ノ瀬めぐるは、窓の外をぼんやり見ていた。
雨だった。
高速道路を走る車の窓を、水滴が流れていく。
「転校先、どんなところかな」
母が明るく言った。
「知らないよ」
めぐるはぶっきらぼうに返す。
中学二年生。
友達とも別れたばかりだった。
父の仕事の都合で、遠くの町へ引っ越す。
それだけでも最悪なのに、雨まで降っている。
「また友達できるって」
父が笑った。
「簡単に言うなよ……」
そう言いかけた瞬間だった。
前方。
トラック。
横滑り。
クラクション。
母の悲鳴。
世界が回転した。
ガラスの砕ける音。
身体が浮いた。
白。
白。
白――。
◆
目を開けると、空が青かった。
いや。
青すぎた。
「……ここ、どこ?」
めぐるはゆっくり身体を起こした。
見知らぬ歩道。
見知らぬ町。
遠くにはビル。
電車の音。
信号機。
普通の街だった。
だが――。
「え……?」
空に、鯨がいた。
巨大な鯨が、雲の間を泳いでいる。
ゆっくりと。
悠然と。
海を泳ぐみたいに。
その後ろを、小さなイルカたちが跳ねていく。
「は……?」
夢かと思った。
でも風は冷たいし、アスファルトの感触もある。
通行人たちは誰も驚いていない。
スーツ姿の男も、
買い物袋を持ったおばさんも、
自転車の高校生も。
誰も空を見ない。
まるでそれが当たり前みたいに。
「……なんなんだよ」
めぐるは立ち上がる。
頭が痛かった。
事故。
車。
父と母。
「……母さん?」
返事はない。
「父さん……?」
誰もいない。
胸の奥が冷えていく。
ポケットを探る。
スマホはあった。
だが圏外。
地図アプリも開かない。
知らない町なのに、奇妙な既視感だけがあった。
道路。
コンビニ。
自販機。
全部見覚えがある。
なのに違う。
決定的に。
「空と海が……逆?」
めぐるは気付く。
空の青は、海の青だった。
深く、ゆらめいている。
雲だと思っていた白いものは、泡みたいに流れている。
そして地上の海。
遠くに見える港。
そこにある海は、空みたいに澄んでいた。
まるで上下が入れ替わった世界。
「……死んだのか、俺」
ぽつりと呟く。
「まだ生きてるよ」
後ろから声がした。
振り向く。
同じくらいの年齢の少女が立っていた。
白いパーカー。
短い黒髪。
どこか眠そうな目。
「え?」
「その顔、新しく来た人だ」
「新しく……?」
少女は空を見上げる。
その頭上を、巨大な鯨が横切った。
影が街を飲み込む。
「ここ、たまに落ちてくるから」
「落ちてくる?」
「別の世界から」
めぐるは言葉を失った。
少女は当たり前みたいに続ける。
「みんな最初は同じこと言うんだよ。“夢だ”とか、“死んだ”とか」
「……違うのか?」
「さあ」
少女は少し笑った。
「でも、戻った人もいる」
めぐるの心臓が跳ねる。
「本当か!?」
「うん。でも少ない」
「どうやって?」
「空飛ぶクジラに聞くんだって」
「……は?」
少女は真顔だった。
「この世界のクジラ、時々、人の願いを飲み込むから」
その瞬間。
空で、鯨が鳴いた。
低く。
深く。
まるで海の底から響くみたいな声。
めぐるはなぜか涙が出そうになった。
懐かしかった。
一度も聞いたことがないはずなのに。
「名前は?」
少女が聞く。
「……一ノ瀬めぐる」
「私は凪」
彼女は少しだけ笑った。
「じゃあ、めぐる。空を見に行こう」
「空を?」
「この世界で一番、海に近い場所」
凪は歩き出す。
めぐるは迷った。
でも、立ち止まっても何も変わらない。
空では、巨大な鯨たちが静かに泳いでいた。
まるで、
世界そのものが呼吸しているみたいに。

