#小説 第9話 空飛ぶクジラ
第九話 クジラの海
冷たかった。
いや。
冷たいはずなのに、不思議と苦しくない。
めぐるはゆっくり目を開けた。
青。
どこまでも青かった。
空の海。
そこは本当に海だった。
無数の泡が漂い、
巨大なクジラたちが静かに泳いでいる。
声はない。
ただ深い静寂だけがあった。
「……ここ」
自分の声すら、水の中みたいに遠い。
身体は浮いている。
だが溺れない。
呼吸もできる。
めぐるの周囲を、小さなイルカが横切った。
その身体は半透明で、星空みたいな光を内側に抱えている。
まるで魂の生き物だった。
すると。
遠くから巨大な影が近づいてきた。
白鯨。
あのクジラだった。
近くで見ると、街より大きい。
瞳の中に星が渦巻いている。
――恐れるな。
声ではない。
感情が直接流れ込んでくる。
「……ここはどこなんだ」
――境界の深海。
「境界……」
――すべての世界が沈む場所。
めぐるは息を呑む。
周囲を見る。
青い海の底。
そこには大量の“残骸”が沈んでいた。
電車。
観覧車。
家。
信号機。
いろんな世界の欠片。
「……なんだよこれ」
――帰れなかった世界たちだ。
胸が締めつけられる。
世界が消える。
反転する。
それは単なる現象じゃなかった。
帰る場所を失ったものたちが、ここへ沈んでくるのだ。
「じゃあ……あの王は」
――最後に取り残された者。
白鯨がゆっくり泳ぐ。
――最初に世界を失った存在。
遠く。
深海の暗闇。
巨大な“王”が横たわっている。
近づくほど、その大きさがわからなくなる。
山より大きい。
大陸みたいだった。
その瞳だけが、深い青で光っている。
そして。
泣いていた。
静かに。
永遠みたいな時間を。
「……お前、帰りたいのか」
めぐるが呟く。
すると王の瞳が揺れた。
感情が流れ込む。
孤独。
喪失。
終わり。
そして。
誰かを待ち続ける気持ち。
めぐるは胸を押さえる。
痛いほどわかった。
自分も同じだから。
事故の日から、
ずっと“元の日常”を探している。
でももう、
完全には戻れない。
両親はいない。
事故は消えない。
それでも帰りたいと思ってしまう。
「……なあ」
めぐるは王を見る。
「帰れないなら、どうすればいいんだよ」
王は答えない。
ただ静かに涙のような光を流している。
そのときだった。
海が揺れる。
ゴォォォォ――――!!
クジラたちが一斉に鳴いた。
めぐるは振り向く。
遠くの海面。
そこに“裂け目”が開いていた。
赤黒い光。
不穏な波。
そして。
大量の黒い影が入ってくる。
「……なんだ、あれ」
白鯨の感情が一瞬で緊張する。
――外側だ。
「外側?」
――世界の終わりを喰らう者たち。
黒い影が近づく。
魚のようで違う。
骨だけの巨大生物。
空間を齧りながら進んでくる。
触れた場所から、海そのものが崩れていた。
王が低く鳴く。
怒り。
恐怖。
そして決意。
めぐるは理解する。
この存在は、ただ世界を壊していたわけじゃない。
守っていたのだ。
外側から来る“何か”から。
――境界の子よ。
白鯨の声。
――お前に問う。
クジラたちが一斉にめぐるを見る。
――帰るか。
裂け目の向こう。
病院の世界。
陽菜。
学校。
現実。
そして。
――残るか。
凪の顔が浮かぶ。
反転街。
空飛ぶクジラ。
孤独な王。
めぐるは震える。
どちらかしか選べない。
そのとき。
遠くから、確かに声が聞こえた。
「……めぐる!!」
凪だった。
つづく・・・
