「せめて君だけは思い出さないで」
【あらすじ】
目覚めた時、僕には記憶がなかった。
自分の名前も、今いる場所も、僕と言う存在を確立させるありとあらゆる情報が跡形もなく消え去っていた。
記憶をなくした『僕』、森谷健一が目覚めたのは古い民家で、そこには自分と同じように記憶を失った少年少女がいた。彼らの名前は竜崎、如月、石黒、添島。全員記憶がなく、なぜここにいるかもわからない。戸惑いながらも共同生活を開始し、徐々に民家の謎に気づく。
畳の下に隠された死体。犯人は誰なのか。記憶を失った僕らの中に犯人がいるのか。
そして記憶をなくした『僕』の視点で描かれる現在と、幼い頃の『ぼく』の視点で描かれる過去の物語の物語が交差した時に、隠されていた真実が明らかになる。
プロローグ
身体中が返り血で真っ赤に染まっても、すでに振り下ろす先の物体が生物からただの肉の塊に変わっていても、それでもそいつは手に持った灰皿を振り下ろすことをやめなかった。腕を小刻みに振るわせながら、何度も何度も殴りつける。
見開かれた目は赤く血走っていた。不規則な呼吸を続けながら、壊れたおもちゃのように単純な動作を繰り返す。
「お前さえいなければ幸せになれたんだ」
そいつの憎しみが、怒りが、悔しさが、ありとあらゆる負の感情が身体の中で破裂した。
「家族に戻るんだ。幸せになるんだ」
疲れ切ったそいつの手から灰皿が落ちる。握るべきものをなくした手がその役目を終えたかのように地面に力なく落ちる。
そいつは自分の手をまるで部屋に転がっているゴミの固まりを見るみたいに冷たく見下ろした。
そいつのあえぐような呼吸音だけが空気を震わせている。
ふいにそいつは泣き出した。目から大粒の涙を流しながら、頭を抱え、喉から潰れるような叫び声を漏らした。
「守るんだ。大切なものを」
どれくらいそうしていただろうか。涙の枯れた目でそいつは肉の塊を呆然と見下ろしていた。涙と一緒に感情も流れ落ちたかのようだ。
そいつは肉の塊と化したそれを古びた民家の中を引きずり隠した。家の中に残った血の後を綺麗に掃除する。
「ああ。これで大丈夫だ」
そいつはゆっくりと息を吸い込む。
「ここから新しく始まるんだ」
そいつは小さく口の端を上げた。
第一章
瞼を開けたら太陽の光が視界を白く染めた。部屋で舞う埃が窓から差し込む光を反射している。ゆっくりと瞬きを繰り返す。ぼやけていた視界が徐々に鮮明になっていく。焦点が合っていきシミがある天井が見えた。ぼーと木目の模様を眺めていたら少しずつ頭がすっきりしてくる。
視線を動かす。木の柱に古びたタンス、自分が寝ている布団を見る。日に干したあとのような柔らかい匂い。右手を持ち上げて顔の前に持ってくる。
掌を見た後、裏返して手の甲も見た。
そこで、自分の中にある強烈な違和感を自覚した。
なんだ。これは。
思考がはっきりとしてきているのに、自分がなぜここにいるのかわからない。それどころか今がいつだか思い出せない。
身体を起こす。自分の全身を見る。
考える。必死に思い出そうとする。けれどもわからない。
「僕は、誰だ?」
自分が何者かということもわからなかった。
立ち上がる。半袖と短パンの自分の服を見る。自分の身体だという確信はもてるし、身体を動かすことに違和感もないのに、どうしても自分の名前と存在が思い出せない。
昨日という概念は理解できるのに、自分が昨日どこにいて何をしたのかさっぱりわからない。それどころか二日前、三日前、どんなに日にちを遡ってもいっこうに記憶をつかむことができない。気温はそれほど高くないのにじっとりと全身が汗ばんできた。
「なんだよ、これ」
立ち上がり、四畳半ほどの部屋の中をぐるぐると回る。フローリングを踏むたびに震えるような軋む音が響く。
ここは自分の部屋なのだろうか。それにしては物が少なすぎるし、何よりこの部屋には人が日常的に生活している様子がなかった。
古びたタンスを開けてみる。古い木の香りが漂う。中にシャツや下着やら洋服が詰まっていたが、それ以外に物が存在していなかった。机もなければ本棚も、趣味と呼べるような雑貨も何一つない。
民宿か、もしくは誰かの家の部屋か、それとも他の何かの施設か。
視界の中に映り込んだ異物に目がいき顔をしかめる。
布団の脇には小さな瓶が置かれていた。その中には大量の薬が詰め込まれている。窓から差し込む光が白い錠剤に不気味に反射している。
それはなにかを終わらせたようでもあり、かつなにかを始めるような、そんな存在感を放っていた。
警戒心が全身に伝わる。身体の中に取り込んではいけないと細胞が叫んでいるようだった。けれど、その原因を思い出すことはできない。かぶりを振り、逃げるように視線を瓶から外す。
カーテンのない窓から外を見る。少し離れたところにある背の高い木々が視界を遮っていて、遠くを見渡すことができない。けれどここが住宅が所狭しと建ち並ぶ都会ではないことは理解できた。風が吹くと樹木が葉を揺らし、窓が少し震える。
窓を開ける。風が部屋の中に流れ込み、髪を揺らし、頬を撫でた。深く息を吸い込むと、澄んだ空気が身体に満ちていく。意識がはっきりしていくほどに、得体のしれない不気味さが身体の奥底から広がっていく。
窓を閉める。そこでガラスに映るおぼろげな自分の姿を見た。
目を凝らしてみるが鏡ではないので上手く映らない。
顔を見れば何かを思い出すかもしれない。自分の顔を確認したくなり僕は洗面所を探そうと部屋を出ようとした。ドアノブに手を伸ばしたが外の気配に気づいて止まる。
誰かいる。
息を潜めてこちらの様子を窺っている気配がした。
誰か他の人がいるのか。同じ家にいるということは家族なのだろうか。そもそもここは僕の家なのか。
もし仮に今現在僕が犯罪に巻き込まれているとしたらどうだろう。
誘拐。監禁。
扉の向こうにいるのが僕をこの場所に拘束している犯人だとしたら。
そうだとするなら今扉を開けるのは得策ではないだろう。むしろ、布団に戻り相手が扉の向こうから去ったあとに状況を確認したほうがいいんじゃないか。
いや、そうだとするならこの部屋で自由に動き回れることに説明がつかない。窓にも鍵が掛けられていないし、窓から見える風景からここが一階であることはわかるから逃げようと思えば簡単に逃げられる。この室内も誰かを監禁するような造りになっていない。
とするなら、扉の向こうにいる人物は顔見知りだろうか。それならなぜ向こうから扉を開けないんだ。まるで、こちらの出方を窺っているようだ。
疑問が渦巻く。身体が緊張から解かれない。
扉を開けることを躊躇していたら、ドアノブがゆっくりと回りだした。
身体が固まる。心臓が大きく鼓動する。嫌な汗が背中を流れる。
ドアノブが回る軋む音が鼓膜を撫でる。
視線を動かすことができない。
おずおずとしたように扉が引かれて開けられた。反射的に扉を閉めたい欲求に駆られるが、強張った身体は動かない。ゆっくりと、けれど確実に部屋と外を繋ぐ空間が広がっていく。
視界の中に人が映った。予想してた強面の男ではなく、他人を害するなんてことが到底できなさそうな少女だった。少女の姿に驚きつつ、なぜか同時に懐かしさを覚える。僕は目の前の彼女のことを知っているのだろうか。
視線が合う。互いを認識したことに戸惑い、緊張、そして期待が湧き上がる。
何を言えばいいのかわからなくて黙っていたら、彼女も言うべき言葉を探しているのか口を開けたり閉じたりしている。
肩より下に伸びる黒髪に、幼い印象を与える柔らかい顔立ち。白い肌に大きな瞳、薄いピンク色の唇。僕の肩ほどの身長で、ゆったりとしたシャツとスカートを着ている。可愛い。自分の名前はわからなくても彼女が異性の目を引く容姿をしていることは瞬時に理解した。
彼女を見たら段々と気持ちが落ち着いてくる。自分以外の存在と出会うことでなにかしらの安心感を得られたのだろうか。
彼女は僕のことを知っているのか。
「あの」僕が口を開くと彼女は大げさに驚いた。
「は、はい」緊張したのか直立の姿勢になっている。
「えっと、ここってどこですか?」
まずは自分がいる場所の情報が知りたい。一番知りたい情報は自分が何者かだということだが、初対面の相手にいきなり自分は誰ですかと質問することがおかしいという認識は頭の中に残っていた。
すぐに答えてくれるものと思っていたのだが、予想に反して彼女は眉をひそめて斜め下を向く。
「わたしもわからないんです」
彼女は幼さの残る声で言った。
「わからないっていうのは?」
「さっき起きたら、いきなりここにいて」彼女の声には動揺が滲んでいる。
「ここがどこかわからないんですか?」
彼女の答えに僕も戸惑った。
見たところここは古い一戸建てに見える。全体として色がくすんでいるところがあるし、吸い込む空気にはどこかカビ臭さがある。
もしも客観的に今の状況を見るならどうだろうか。若い男女が別々の部屋で目覚める。家族で一緒に住んでいたのか、それとも友達同士で遠出してここに泊まったのか。もしくは見知らぬ者同士でルームシェアをしているのか。
「いや、そもそも」彼女はちょっと躊躇する仕草を見せて指で髪をいじった。「自分が誰だってことすら、なんか、よく、わからなくて」徐々に声がか細くなっていく。
驚いた。彼女も記憶を失っているのか。
どういうことなんだ。
ここはどこで、なにが起こっているんだ。
「それはつまり、えっと、どこまでわからないんですか?」僕は詰まりながら、記憶が抜け落ちた脳を必死に動かした。
どこまで。つまり僕は程度の確認をした。僕は自分が誰かわからない。自分の名前もどこで生まれたとか、どういう性格だったとか、家族構成はどうだったとか、自分に関係する記憶が誰かにフォルダ分けされて消去されたかのように頭の中に残っていない。けれど、それでいてここが一戸建てであること、身体を動かすためにはどうすればいいかとかはわかる。おそらく外に出てある程度の情報を得ればここがどこでどういう場所なのかも予想がつくはずだ。
いや、それにしても頭がすっきりしない。考えるときに綺麗に思考が繋がっていかずに、ぶつ切りなっているコードをなんとか繋ぎ合わせて接続しているような違和感。眠気や疲れはない。頭は働いているのに重要ななにかが欠けてしまっている。
「それはなにを覚えているかってことですか?」
彼女の問いに僕は首肯する。
彼女はうつむいて眉をひそめる。
「なにもわからないんです」彼女は身体の前で不安そうに手を組み合わせた。「自分が誰か。ここがどこなのか」
同じだ。どういうことなんだ。なんで記憶をなくした者同士がこんなところで向き合っているんだ。記憶障害がある人を集めているのだろうか。いやここは医療関係の施設には見えない。しかもそれなら誰かが僕らを管理していないとおかしい。
だめだ。頭の中を誰かに無理やり乱雑に搔きまわされたかのように思考がまとまらない。
思考の影響が身体に現れ、軽い目眩がした。
とにかく自分の顔を見るんだ。
「ちょっとごめん」僕は彼女との会話を中断して洗面所に向かった。顔を見れば何かが変わる。そんな希望に動かされた。家の中でだいたいどの位置に洗面所が存在しているかも身体が覚えていてすぐに目的の場所は見つかった。
自分の顔を鏡で見る。短髪、黒髪、二重だけどあまり大きくはない目。適度に日焼けした肌。手で頬に触れてみる。自分の顔だ。確信を持ってそう言える。安心感に似たものが身体に広がる。
そうだ。僕はこういう顔をしていた。
じゃあ数年前。もっと小さかった頃の自分の顔を思い出せるだろうか。鏡の中の自分を凝視して必死に思考を働かせるが、頭にはもやがかかったままで、なんの映像も浮かんでこない。かぶりを振って思考を中断する。
視線を前に向ける。洗面台には女性ものと思われる洗顔剤が置かれている。鏡が扉になっていて開けると中には髭剃りやら封の開けられていない固形洗剤が並べられていた。必要最低限のものが置かれているだけで、やはり誰かがこの家で生活しているようには見えなかった。
不意に忘れていた寝起き特有の不快感が襲ってきた。
まずは寝てる間に溜まった汚れを落として、無理やりにでも頭を目覚めさせよう。
使い捨ての安っぽい歯ブラシが大量に詰められていたので、その一本を取って歯を磨いた。
顔を水で洗うが、さっぱりした気持ちが広がっても相変わらず記憶は戻ってこない。
手を伸ばして鏡の中にいる自分に触れてみる。
「お前は、誰なんだ?」
手についていた水が鏡に触れて涙のように流れた。
「えっと」
背後から声がして振り返ると先ほど出会った彼女が何かを言いたそうに立っている。すぐに彼女の気持ちを悟った僕は鏡の前から離れた。
「どうぞ」
彼女は軽く会釈して鏡で顔を確認する。一瞬驚いたように目を大きく見開くが、すぐに納得するように何度も頷き、僕と同じように手で顔に触れた。
「わたしだ」
彼女も僕と同じように歯を磨いて顔を洗った。なんだか居心地が悪くなって、けれどもその場から立ち去ることもできずに、僕は辺りを見回した。
洗面所の奥には小さな窓があり、そこから見える樹木は葉の色を茶に変えている。今は秋なのだろうか。
同じ色のタオルやバスタオルが窓の下の棚に丁寧に積まれている。洗濯機の脇に置かれた洗剤は使われている痕跡があった。
誰かの家にいるというよりは、ホテルや民宿にいるような感覚。
彼女はタオルで顔を拭って、視線を鏡から移して僕を見た。僕もじっと見返す。
幼さの残る顔に濡れた前髪が張り付いている。
自分の姿を鏡で見たのと同じような感覚が広がる。抜け落ちていった記憶の中に何度も登場して、自分の顔よりも彼女の顔のほうが見慣れている気がする。けれど蘇ってくるのは漠然とした感覚だけで、形となる記憶は見つけられない。
ずっと長い間一緒にいた気がする。
そうだ。彼女と僕は近い関係にあったんだ。けれど近い関係というのが家族なのか、友達なのか、それとも異性の間のそれなのかさっぱり思い出せない。
僕はそっと彼女に手を伸ばした。彼女に触れたらなにか思い出せる気がした。
けれど彼女は僕の右手が近づいているのを察すると目を見開いた。慌てて手を引く。
「あっ、えっと」動揺で視線が揺れる。洗面所の奥にある小窓から、風でケヤキの葉が揺れたのが見えた。なにか言葉を発しなければ気まずい空気になると思い慌てて言葉を続ける。「庭にケヤキがあるんだね」
彼女の頭の中で何かが割れた気がした。
「い、いや!」
彼女はそう叫んだ。僕を見ながら徐々に血の気が失せていく。彼女はできる限り僕から離れるように後ずさりし、それでいて身体を支える力がなくなったのか膝が折れ、身体が地面に倒れる。小刻みに震えだした自分の体躯を必死に押さえるように自分で自分を抱きしめ、彼女はその場でうずくまってしまった。
「ごめん!」
慌てて両手を挙げて彼女と距離をとった。それでも彼女の震えはとまらない。
どうすればいいかわからない。僕の行動が彼女を怖がらせたことはわかる。でも、どうすれば彼女を落ち着かせることができるのかわからない。
僕が近づいたらきっとまた彼女を怖がらせることになる。かといってこのまま彼女の視界から消えて遠くに行くことも心配でできない。とるべき行動が思いつかずにおろおろしていたら怒りをはらんだ少女の声がとんできた。
「なにしてんのよ!」
見るとそこには化粧の濃いギャルがいた。色が抜け落ちて白に近い金色となった髪と眉。濃い化粧。日焼けした肌。身体にぴったりとしたシャツとスキニージーンズの少女が怒りで床を踏み抜くんじゃないかという勢いで駆けてきた。
怒りの形相でギャルは僕に怒鳴った。
「女の子の悲鳴が聞こえたんだけど、ここでいったいなにやってんの!?」
ギャルは両手を挙げている僕を押し退けて洗面所に入った。怯える彼女を見て驚き、それから怒りと侮蔑の混じった視線を僕に刺した。
「なにしたの?」低い声。
僕は首を横に振った。
「なにもしてないです」彼女が疑うような行為は何一つしていない。ただ手を伸ばしただけだ。彼女を怖がらせたことは悪かったと思っている。無造作に距離をつめすぎた。
ギャルは震える彼女の手を取って包み込むように抱きしめる。
「だいじょーぶ。だいじょうぶだから」
僕に向けた声音とは真逆で優しくて温かい。彼女はすがりつくようにギャルに身体を預ける。浅く速かった呼吸がしだいに落ち着いてきた。
ギャルは彼女をゆっくりと立たせると、視線で僕をどけた。
「女に手出すとか、おまえ最低だな」
この状況で何を言っても信じてはもらえないだろうと僕は反論を諦めた。
でも、彼女を怖がらせる気なんて本当になかったんだ。
「なに?」
ギャルが出てきた部屋から男が顔を出して訊ねた。この家には他にも人がいたんだ。そいつと目が合う。ぼさぼさの髪に黒縁眼鏡。気だるそうな声でそいつは僕を一瞥した後に顔を引っ込めた。
ギャルは彼女を支えながら、僕に刺すような視線を向けながら部屋に入った。
どうすることもできずにただ立ち尽くす。部屋から話し声が聞こえる。拳を強く握る。どういうことだよ。僕はなにもわからなかっただけだ。記憶がないんだからしょうがないじゃないか。知ってることがあるなら教えてよ。
その時に、ぼさぼさの髪の男が部屋から出てきた。視線が合う。なにか身体に緊張感が走った。「とりあえず入りなよ」男の声に促されて、僕は強張った身体を引きずりながら部屋に足を踏み入れる。
そこはダイニングのようだ。フローリングの床。そして中央におかれたテーブルに六脚の椅子。部屋の隅にはテレビが置かれていて、壁の一面は庭に通じる大きな窓だった。外には手入れの行き届いた庭が広がっている。草木や花が多いが、緑から茶へと変化している植物が多かった。
景色を見ても感情は動かない。ただ、頭の中に情報が増えただけ。
男が引いた椅子の音で我に返る。テーブルを囲む椅子にはもう一人、大人しそうな少女がいた。短い髪に緩めのウェーブをかけている。華奢な印象で無表情にテーブルの中央を見据えている。
僕は男の隣に腰を下ろした。
髪がぼさぼさの男にギャルの女、やっと落ち着いてきたやわらかい印象の少女に、裕福な家庭で育ったような雰囲気の少女。僕を含めて五人。見た目だけだと共通点はないように思う。
いや、ひとつあった。僕を含めて全員同年代に見える。そこにこの状況に対するヒントが隠されているのだろうか。
今出会った三人には記憶があるのか。切り出す言葉が思いつかずに黙って周囲を見回していたらギャルが口を開いた。「全員に記憶がないんだって」
そうか。驚きと言うより納得した。なんとなくそうではないかと思っていた。
「じゃあみんな名前もここがどこかもわからないんですか?」僕は全員を見回しながら訊いた。
「ああ、そうだよ」男が答えた。
全員の年齢は近いように思う。中学の後半か高校の前半くらいだろうか。
「それで、僕たちは」
「なんにも覚えてなくて、なにも感じてないのか?」
男が僕の言葉を遮って告げる。その声は記憶がないと言う割にはなにか暗い感情が宿っていた。自然と身体が強張るのを感じる。
「どういう意味?」絞り出すように訊ねる。
男はじっと僕を見る。「いや、なんでもない」そして視線を下に落とした。
長い沈黙が空気を重くする。居心地が悪い。僕もテーブルの上をただ見る。記憶がない。不安だ。同じ状況の同年代の子がいると少しは安心できるかと思ったのに、ただただこの場から離れたかった。呼吸をすることすら何かの拍子に怒られるんじゃないか。そんな緊張感が漂っていた。
僕のせいなのだろうか。僕が彼女を怖がらせてしまったから、みんなの警戒心が強まってしまったんだろうか。
ギャルがわざとらしく大きくため息を吐く。
「やばいでしょ。誰も何もわからないって」
一泊置いて空気がまた固まらないように声を発する人物がいた。
「何かしら、記憶が消えるようなことを私たちが一緒にしてしまったんでしょうか?」大人しそうな髪にウェーブがかかった子が答える。
「それってなに? 例えば全員で記憶がなくなるほどお酒を飲んだとか?」
二人の会話が続く。
「お酒」大人しそうな子は少し首を傾げる。「私たちがお酒を飲める年齢なのかはわかりませんが、見たところそういった物も置いてなさそうですけど」そう言って視線を巡らせる。「お酒の缶とか瓶とか置いてないですし」
「それじゃあみんな同時に頭でも打ったとか?」呆れたようにギャルが小さく笑う。「それこそやばいでしょ」
「もしくは、元々記憶に障害がある人たちが集められた可能性もあるかもしれません」
「集めれた? それなら集めた人がここにいなきゃおかしいでしょ? 集めただけで、そのあとは放置してるってこと? というか、記憶に障害があるって意味わかんないし」
「すいません」大人しそうな子が肩をすぼめる。「思いついたことをただ言ってしまいました」
ギャルが顔をしかめる。「いや、ごめん。あたしも怒ってるわけじゃないんだけど」
また誰も言葉を発せられない時間が続く。
外から、風が木の葉を揺らす音だけが奇妙なほどに大きく聞こえる。
僕は恐る恐る全員の様子を窺う。頭に靄がかかった感覚が身体を支配している。
何が起こってるんだ。異常なことが起こっているのはわかる。一見すると普通の民家なのに、その中に記憶が消えている五人。誰もその理由を知らず、説明してくれる人もいない。
「警察に行こう」ギャルが立ち上がっていった。「ここでじっとしてたってしょうがない」
誰も反応しない。言葉の意味は理解しても、自分たちが警察を呼ばなければいけない状況にいるという実感がない。危険な状況にいるとも思えないし、これからなにか危険なことが起こるとも感じられない。
「警察に言ってなんて説明するの?」僕は重い口を開いた。ギャルが僕を睨む。途端に心臓の辺りが締めつけられるように痛くなる。
「ち、違うの」幼い印象の残る彼女がゆっくりと呼吸をしながら言った。「ごめんなさい。あの。なにもされてない。ただ、朝起きて出会っただけ。それなのに、急にわたしが」彼女は口元をそっと押さえる。「自分でもわかんないんだけど、急に怖くて不安になって」顔色はさっきよりだいぶ落ち着いているが、まだ少し生気が戻っていないし、汗をかいた気配が額に残っている。「なにもされてないの。ごめんなさい」そう言って僕とギャルに頭を下げた。
ギャルは怪訝な顔をつくるが、小さく息を吐いた後にまだ警戒心の残る顔を僕に向ける。
「そういうことなら、あたしも言い過ぎたよ。ごめん」
「いや、大丈夫。わかってもらえたら」小さく頷きながら僕は返す。
ギャルは長く息を吐いた。「別に警察じゃなくたっていい。病院だって、消防署だって。とにかく誰かに連絡しなきゃ始まらないでしょ。説明ったって、この状況をそのまま言うしかないでしょ」
なぜだろう。言われたことは正しいことのように思えるし、他に解決策があるようにも思えないのに、見ず知らずの人にこの状況を伝えることはためらわれた。ただ、他に方法がないようにも思える。
「警察に今の状況を伝えても怒られないよきっと」幼い印象の残る彼女は言った。「だってわたしたちはなにか悪いことをしたわけじゃないし」そこで彼女ははっとした顔になる。「あの、記憶がないから。きっと悪いことはしてないだろうってことだけど」そこで急に焦ったように早口になる。「でもでも、仮に悪いことをしちゃってたならなおさら警察には言った方がいいと思う」
「まあ、そうだよね」僕も納得する。
「ただ」と彼女は僕の言葉を挟んで言葉を続ける。「なにか思い出せそうな気もするの。さっきも頭の中に一瞬だけだけどなにかの映像が映った気がして」彼女の声は尻すぼみに小さくなる。「多分。だけど」
少し間を置いてギャルが口を開く。
「記憶がないのは一時的な可能性もあるってことか」
しばらく誰も言葉を発しない。どうすればいいのか、どうしたほうがいいのかもわからない。自分がどうしたいのかすらわからないのだから。
「じゃあ、とりあえず明日警察に行くのはどうかな?」僕はみんなの反応を見ながら言った。「もしかしたら寝て起きたら記憶が戻ってるかもしれないし、もしかしたらこうしているうちにだんだんと思い出せるかもしれない。もしも思い出せなかったら明日警察でも病院でも、とにかく話してみるのはどうかな」
自分の提案を通したかったわけではない。けれどこれ以上この空気の中にいることが耐えられなかった。この場をなんとか終わらせたかった。
息苦しい時間が続く。
「まっ、それでいいんじゃない」ギャルが言った。「今日行ったって、明日行ったってそんなには変わらないと思うし」
大人しそうな女の子も、僕が傷つけてしまった女の子も頷いた。
黒縁眼鏡の男がぼそぼそと言葉を吐いた後に、「それでいいなら、どうぞ」と投げやりな口調で言った。
僕にしか聞こえなかったかもしれない。けれど、確かに男は「全員が善人なら明日でもいいんだろうけど」と呟いていた。
違和感。そして依然として残るぎこちなさ。
僕らはそれから最小限の会話だけをした。キッチンには冷蔵庫の中を含めて食材が保管されていたので、それぞれが勝手に食事をとる。
時間が流れる速さが遅い。僕は黙ってカップラーメンを手に取り、誰とも視線が合わないように窓の外を眺めながら食事をした。麺をすする音すら空気を不必要に震わせているように感じて、なるだけ気配を消して箸を動かした。
ふと視界の中にある違和感に気づく。あれはなんだ。目を細める。庭へと続く窓の一部が割れていた。ちょうど鍵の近くに何かをぶつけられて砕けた跡がある。サランラップとセロテープで補修されているが、それはまるで外から無理やり中に侵入するために壊されたように見えた。顔をしかめる。
台風で石でも飛んできたのだろうか。でも、そうとは思えない感覚が自分の中に残っている。
やはりこの家には、そして僕たちには何か秘密が隠されている気がする。けれど頭を捻ってもその答えを見つけることはできない。
日が傾く。家の中に差し込む光が色を変えていく。
突然鈍い音が響く。見るとギャルがテーブルを叩きつけて立ち上がっていた。
「誰かこの中で記憶が戻った人はいるの?」ギャルは視線を移しながら苛立ったように言った。僕は目線が合わないように下を向く。ギャルの声が続く。「じゃあ、記憶が戻りそうな感覚があるやつはいるのかよ」
誰も答えない。
何も思い出せない。自分の名前も、昨日までどこでどうやって生きてきたのかも。何かを見ても、それが何なのかの知識は残っていても、それと関係する記憶がない。どうやってその単語を覚えたのかしら理解できない。なぜ僕はカップラーメンがカップラーメンであることは知っているのに、それを食べた記憶も、それを見た記憶も頭の中に存在しないんだ。
「こんなの。一度寝たってそれで記憶が戻るとは思えない。こんなヤバい状態なら、明日起きたらまた記憶が消えてるかもしれないよね」ギャルの語気が強まる。「今から警察に電話する。この家に来てもらう。誰か異論がある人はいる?」
有無を言わせぬ口調にみんな押し黙る。
先ほどは明日まで待つことに同意したはずなのに、もう意見を変えている。けれど、そのことを論議する気にはなれない。
ギャルはそれを無言の肯定と受け取ったのか、リビングから出ていこうとした。
と、それまで黙っていた黒縁眼鏡で髪がぼさぼさの男がゆっくりと口を開いた。
「ちょっと待って」
ギャルが振り向く。
「なに? 文句でもあるわけ?」攻撃的な姿勢は変わらない。
「いや。警察に行きたいなら行けばいいと思うし、救急車を呼びたいならそうすればいい。帰りたい人がいるならこの家から出ていけばいいだけだ。けど、その前に全員に見てもらいたい映像があるんだ」
全員にと言いながらその視線は僕に向けられていた。
「映像ってなに?」ギャルが戻ってきて男に詰め寄る。
男はギャルを一瞥した後にテーブルの上にタブレットを置いた。「さっき見つけて中を見たんだ」
ギャルはひったくるように奪った。
「どれ?」
「ひとりで見るなよ」男が言って手を伸ばすが、ギャルは聞き耳を持たずにタブレットを胸に近づけて操作を続ける。
「なによこれ」ギャルがじっと画面を見る。その目が見開いていく。
「動画を再生してくれ」男が促そうとする。
少しの間を置いた後、呟くようにギャルが言った。「全員の名前が書いてある」
その言葉に一泊の間を置いた後僕らの身体は反応した。
全員がギャルのそばに集まる。ギャルはタブレットをテーブルに置いた。見ると僕ら五人が映し出されていた。今の姿とそんなに変わらない、最近撮った写真に見える。
心臓が高鳴っていく。僕の。僕らの写真だ。
どこか一戸建ての庭で撮られた写真。僕らは横一列に並んでいて、笑顔でこちらを見ている。いや、その中で黒縁眼鏡の男だけは不満そうに斜め下を向いている。
それぞれの顔からタブレットで線が引かれ、その先に名前が書かれていた。僕はいち早く自分の名前を確認する。
森谷健一。
思い出すと言うよりも、新しい情報として僕の身体に染み込んでいく。
そして、黒縁眼鏡で髪がぼさぼさの男の名前は竜崎拓也。
僕が手を伸ばして怯えてしまった子は如月朋子。
ギャルの子が石黒菜月。
最後に物静かでお嬢様風情の子は添島栞だった。
僕は全員の名前を確認した後に視線をもたげる。当たり前だけど全員に名前があった。それぞれが自分の名前を噛みしめているように見える。
「これ、どこにあったの?」ギャルの石黒菜月が黒縁眼鏡の竜崎拓也に訊く。
「そこのテレビラックの中にあった」竜崎は答える。
「もう一個の動画にはなにが映ってるの」そう言って石黒は人差し指をタブレットの上に載せた。
大きな声が室内に響く。
「だから、絶対に大丈夫だって! 僕を信じてよ」
聞き覚えのある声になぜか緊張感が走る。みんなの視線が僕に移る。
「この薬を飲めば絶対にみんなが幸せになれる。疑いとか、そういう過去が終わるんだ! これが僕らを傷つけるなんて、不幸にするなんてことは絶対にありえない。だから、みんな一緒に飲もう! 毎日飲んだっていいくらいだ。誰の言葉を信じればいいかは明白じゃないか」深く息を吸い込むことができない。汗が背中に滲む。「とにかく。今からみんなでこの薬を飲もう! 絶対に大丈夫だ」
僕は視界の端でタブレットの画面を見た。
僕の顔だ。
森谷健一が不気味なほどの確信に満ちた笑顔で、大声で石黒たちに語っていた。
「この薬ってなんだよ」石黒が僕に質問する。
「知らない。わからないよ」首を振って答える。「薬なんて、そんな」あっ、とそこで言葉が漏れた。今朝起きた時の映像が頭に浮かぶ。そうだ僕の部屋に。
布団の脇に置かれていた錠剤の入った瓶。
「なに?」石黒が近づいてくる。
「いや。起きた時に部屋になにかあったんだ」
取ってきてと言われて、僕は一度部屋に戻ったあとに瓶を手にみんなの前に立った。
「どういうこと? もしかして、その薬とあたしたちの記憶がないことが関係してるってこと?」石黒の言葉は鋭さを増していく。
「少し見させていただいてもいいですか?」お嬢様のような雰囲気の添島栞がそう言ったので僕は手渡した。「三百粒ほど入っているみたいですね。形状を見ただけではどんな効果があるかわかりませんね。瓶にも説明書きもなにも貼られていないですし」
「わたしたちはこの薬を飲んだから記憶がなくなったのかな」僕が怯えさせてしまった如月朋子が眉間にしわを寄せる。
「いや。ちょっと待ってよ」僕は慌てて彼女たちの予想を中断させる。「そもそもこの中に入っているのが記憶を失わせる薬だなんて、そんな突拍子もないことがあるわけないよ。だいたい記憶がなくなるなら、それを僕がみんなに飲むように勧める理由がない」冗談じゃない。僕がこの状況の犯人なわけないじゃないか。
「全部忘れる薬なのかはわからないけど」石黒は口を開く。「何かしらの薬の副作用で昔のことが、名前も思い出せなくなったのかもしれないだろ」
「ありえないよ」言葉を絞り出す。「どうしてみんなの記憶が消えるものを、消えるかもしれないものをみんなに飲ませなきゃいけないのさ。だいたい、毎日飲んでもいいくらいって」言葉に詰まる。自分を弁護しようと思っても映像を撮った時のことを思い出せない。
自分に向けられる視線が痛い。なんだよ。どうしてこんなことになったんだよ。
「とりあえず、この薬と映像を持って警察に行けばいいだろ」石黒が言う。「どんな薬なのかはその時に判明する」
「待ってよ。絶対になにか勘違い、誤解してるって」
僕の意見に誰も同意しない。沈黙が痛い。すると、如月朋子が何かに気づいたように口を開いた。
「もしかしたら、逆の可能性もあるよ」
「逆って?」石黒が訊ねる。
「わからないけど、記憶を消す薬じゃなくて、忘れてたものを思い出させる薬なのかも」
「どういうこと?」石黒は質問を重ねる。
「だって、毎日飲んでもいい。みんなが幸せになれるってあんなに力強く言うなら」如月は僕を一瞥して続ける。「今のこの状況を解決させる薬だって可能性もあるよね」
みんなが如月の言葉を噛みしめる。
「そ、そうだよ。それが何の錠剤かなんてわからないよ」僕は如月の言葉にすがるように言った。
「ただの栄養剤の可能性もありますしね」添島が小さく呟く。
再び誰もなにも喋れない時間が流れる。
「それで、どうする」竜崎がみんなを眺めながら訊ねる。
「記憶が消える薬じゃないって言うなら、さっきの映像でみんなが幸せになれるって主張してたあんたが今日飲んでみなよ」石黒が僕を見る。「あたしたちはあんたのことを知らない。信じられないけど。あんたはあんたのことを信じられるでしょ?」
視線が僕に集中する。添島が薬剤の入った瓶を僕に握らせる。
飲んでやろうかという気になってくる。飲めばみんなが納得して、それでこの状況が解決できるならそれでもいいと思った。まさか死ぬような薬ではないだろうし。
「でも、万が一わたしたちが記憶に障害がある人たちで、その薬を飲んでないから毎日記憶がリセットされちゃうんだったら、飲まないことで明日全部また忘れてる可能性もあるよ」如月は一言一言考えながら言った。
その言葉に石黒の表情が変わる。
「それじゃあ、万が一あんただけが記憶が残った場合、あたしたちに何されるかわかったもんじゃない」
苦虫を嚙み潰したような顔で僕を睨む。
不確定要素が多すぎて、なにが正しい選択になるのかは誰にもわからない。
「もういい」石黒はリビングから出ていく。
「どこいくんだよ?」竜崎が訊く。
「警察に連絡する。それが一番早いでしょ?」石黒は肩越しに振り返って答える。
焦る。この状況をつくった責任を負わされるのだろうか。何も覚えてないんだ。僕のせいなわけがない。警察だってわかってくれる。そう自分に言い聞かせるが目線が定まらない。無意識に手が身体の至る所に触れる。
如月朋子が石黒と僕を交互に見るが、なにか打開策を言うことはできない。
石黒はそのまま玄関の近くに置かれていた固定電話を手に取る。どこかに電話をかける気配がする。
相手の声は聞こえないが、石黒が自分の名前、そして記憶がないこと、さらにそれが誰かのせいによるものだということを伝えていた。
心臓の鼓動が早まる。
聞こえてくる石黒の声がなぜか徐々に焦りを帯びてきた。
「だから! 悪戯なわけないでしょ!? あたしたちは記憶がなくて……え? いや、だからそれも覚えてなくて」
なにを話しているんだろう。
しばらくすると不機嫌そうな顔で石黒が戻ってきた。
如月が近づく。「警察がここにくるの?」
石黒は舌打ちして椅子にどかりと腰を下ろした。「来ないって」
「え? なんで?」僕は訊く。
石黒は髪をくしゃくしゃと掻いた。「知るか。何度も同じ電話で悪戯電話するなって言われた」
どういうことだ。悪戯電話。記憶がなくなる前に何度も電話していたんだろうか。悪戯ってことは、僕たちの今の状態はそこまで真剣に考えるべきものじゃなくて、もっと軽いものだったのだろうか。記憶がなくなる前、一番最初に警察に電話したときは必ず警察もこの状況を操作したはずだ。それでなにもなかった。けれど、それでも記憶をなくした僕らが何度も電話を繰り返したから今の状態になったのだろうか。
沈黙が流れる。次にどうするべきか、なにを言えばいいか全員が悩んでいたら如月朋子がその静寂を破った。
「わかった。わたしが飲んでみるよ」
視線が如月に集まる。
「だって、わたしが飲んでみればこの薬がどんな効果があるのかわかるんでしょ? もしも記憶が残ってたらみんなにそのこと知らせるし、もしもわたしが忘れちゃってたらみんなが助けてくれるでしょ?」そう如月は小さく笑った。
「いやいや」石黒が立ち上がる。「それは危ないよ。あいつに飲ませればいいじゃん」そう僕を指さす。
「でも、一人飲めば大丈夫でしょ?」如月と僕の視線が合う。
「わかったよ。僕が飲む。それでいいでしょ」
僕の言葉に石黒が不機嫌そうに頷く。
「わたしも一緒に飲むから、それなら、ほら、二人と三人でちょうどいいでしょ」如月は先に僕と自分を指出した後に、石黒たちに指先を向けた。
石黒が頭をぐしゃぐしゃと何度も両手で掻く。
「ああ。もう。それでいいよ。明日になれば色々とわかる」石黒は立ち上がって部屋へと帰ってしまった。
「どうすればいいのかわからないのですが、明日が今日よりもよくなっているといいです」添島もリビングを出ていこうとする。「それと薬は効果がわからないので、最低の一錠にしておいたほうがいいと思います。それでは、今日はとても疲れたので先に休みます」そう深々として階段を昇って行った。
竜崎は何も言わずに出ていく。竜崎はリビングから去るときに、如月に悲しげな眼差しを向けた。そこにどんな感情が隠されているか、この時の僕はわからなかった。
二人だけ残された。
如月が部屋に入ろうとした。僕はそれを呼び止める。如月は小首を傾げた。
「どうしたの?」
「あの、朝のことはごめん。その、洗面所でさ」
もしかしたら明日になればお互い忘れてしまうかもしれない。けど、だからこそいま謝っておきたかった。如月が納得するように笑った。
「こっちこそ驚かせちゃってごめんね。よくわかんないんだけど、なんか、すっごい怖くなっちゃったんだよね」
如月はなにかを思い出すように小さく身体を震わせた。
「考えても考えてもなんであんなに怖かったのかわからないんだ」
もしかしたら過去の記憶を消したことと関係があるのだろうか。僕らが過去を忘れてしまったのは、思い出したくない消してしまいたい過去があるからなのだろうか。
記憶を消したとしても身体に何かが残っているのかもしれない。なにかの感情が、恐怖が身体の奥底にこびりついているのかもしれない。
「まあ、大丈夫大丈夫。明日には忘れてるかもしれないし」あははと如月は笑った。如月は瓶から薬を一錠取り出し、それを躊躇せずに飲み込んで、それじゃあまたねと如月は去っていった。
なぜ如月は僕を庇うような発言をしたのだろう。なぜ自分も薬を飲むなんて言ったのだろう。初めて会って、僕が信頼に足る人物かどうかなんてわからないはずなのに。この言動は記憶が消えても残っていた如月の自己なのだろうか。それとも、なにか、僕に対して何かがあるのだろうか。
錠剤を見る。どうして飲めるんだ。僕はこの薬を飲むことに今だ躊躇している。今なら誰も僕を見ていない。それなら、如月がもうすでに飲んだのなら、一人で十分なんじゃないか。
僕はひとり考える。いや、でも仮にこの薬が記憶を蘇らせるものならば、明日になれば如月の記憶は戻って、僕は記憶を失っている。薬を飲まなかった事実が判明すれば僕に対する如月の信頼は消えるだろう。
どちらにせよ飲むしかないのか。それなら。せめて大切なことは思い出せるようにしておこう。明日記憶をなくすことになったとしても如月はまた男の人が伸ばした手を怖がるだろう。それなら、その情報を僕は覚えておきたい。そうすれば記憶をなくしたあとでも如月の嫌がる行動をとることはない。
そう思い至って僕はなにかメモを取れるものを探した。そこでふと気づく。
「あれ? そういえばタブレットがなくなっている」
さっきまでは確かにここにあったはずなのに。誰かが部屋に持って行ってしまったんだろうか。持って行ったとしたらなんのために。思考を巡らせてみるが思い出せない。
と、視界の隅でマジックペンを見つけた。とにかく今は如月のことをメモに残しておこう。ペンと薬の入った瓶を持って朝目が覚めた部屋に戻った。
さて、どこに書こうか。
壁とか床に書こうか。いや、それだと気づけない危険がある。それなら身体のどこかに書くのがいいかもしれない。他の人に見られたら訝しがられるかもしれないから、僕だけが見えるところ、そう思って僕はシャツをめくって自分の腹部を見た。
息が止まりそうになった。
誰かに直に心臓を握られたような感覚。
そこにはマジックでいくつもの文字が書かれていた。なんだ。誰が書いたんだ。いや、きっと僕が書いたのだ。その文字は自分自身で読めるように逆さになっている。でも、この文字の意味はどういうことなんだ。
ケヤキの木の下。
血の臭い。
誰かが操作している。
犯人は誰だ。
殴り書きのようにそれらの文字が乱暴に腹部に刻まれている。身体中の血が激流のように暴れた。
どういうことだ。なにを伝えたいんだ。ケヤキの木の下になにがあるんだ。
そこで今朝の如月とのことを思い出す。彼女は僕が近づいたのを見て怯えたのかと思った。けれども、もしかしたら僕が発したケヤキという言葉に反応したんじゃないだろうか。如月が失った記憶の中に、ケヤキの木の下にあるものに関係するものがあり、それは不安や恐怖を掻き立てるものなんじゃないか。
みんなにこのことを伝えなければ。誰かの記憶がまたなくなる前に言わなければ。そう思い部屋から出ようとするがドアノブを掴む手が止まる。
誰かが操作している。
この言葉が身体の動きを止めた。誰か。もしかしたら僕たち五人の中の誰かが今のこの状況を作り出しているのだろうか。そうだとしたら誰が。
そこでふと思い至る。さっき石黒が警察に電話をかけたと言った。けれど本当に警察に電話をしたのだろうか。悪戯電話だとは思われたとしても、確認のために家に来たりしないのだろうか。そんなに簡単にこちらの電話を軽視したりするだろうか。もしかして、電話をかけたふりをしていた可能性はないか。
添島だってそうだ。薬を一錠飲むといいと言った。あれはこの薬がどんな効果があって、どんな分量で飲めばいいかわかっていたからじゃないのか。
竜崎だって、ずっと僕らのことを観察しているようだったし、ところどころで僕らを誘導しようとしていなかったか。
誰もかれもが怪しく思える。
けど、その中で、如月朋子だけは信じられる気がした。彼女は記憶を失っていたはずだ。彼女になら今のこの状況を伝えられる。
そう思って部屋を出ようとしたら、急に向こう側から扉が開けられた。
驚きで身体が固まる。
「な、なに?」
そいつは僕の問いに答えない。視線を僕の身体に這わせて何かに気づいたように床に置かれていた瓶を手に取った。僕の肩を突き飛ばして倒れさせ、そのまま馬乗りになって無理やり僕の口の中に錠剤を押し込んだ。
「や、やめ」抵抗しようとするが、無理やり水を飲まされて飲み込まされた。
そいつの力は強くない。今から抵抗しようとすれば容易だった。けれどすでに薬を飲み込まされた僕にその気力は残されていなかった。
なんだよ。どういうことだよ。お前がこの状態を作り出していたのか。なんでそんなことをするんだ。僕がなにをしたっていうんだ。
徐々に意識がまどろんできた。思考が急速に働きを停止していく。
いったい過去に何があったんだ。
そいつは僕の意識が薄れているのを確認した後、手を僕の口から離して僕の身体の上に硬いものを置いた。なにかを言っている。けれど音が脳にまで届かない。
そいつはマジックで僕の腕になにかを書いた。なにも抵抗できない。
焦燥感も意識が薄れていくにつれて一緒に溶けてなくなった。
第二章
瞼を通して刺さる太陽の光が眩しくて身体を起こした。目をこする。視線を巡らせる。
脳が徐々に活動を始めるのに、ここがどこで自分が誰だかわからない。混乱する頭を抱えていると視界に自分の腕が入った。
如月朋子。
なんだろう。
太ももの上にタブレットが置かれている。もしかして昨日使いながら眠ってしまったのだろうか。
頭がぼんやりする。昨日のことを考える。何をして、誰と会って、何を食べたのか。
「あれ?」
なにも思い出せない。昨日のことだけじゃない。その前の日も、何カ月も前のことも、何年も前のことも、なにも思い出せない。
頭の中にぽっかりとある空洞を、記憶の欠如をなんとかして埋めたい焦燥感に襲われる。タブレットを起動させてみた。情報が欲しい。Wi-Fiが飛んでなかったのでインターネットには接続できなかった。連絡先もなにも入っていない。アプリも初期状態のままだ。
写真を開いてみる。写真が一枚と映像がひとつ保存されていた。
写真を見てみると五人の高校生ぐらいの人物が並んで写っていて、それぞれの顔から線が引かれて名前と思われる文字が書かれていた。そこで自分の腕に書かれたものと同じ名前を見つける。如月朋子。女の子。色白で幼そうな顔立ち。無邪気に笑っている。この写真が撮られたのはどこだろう。窓から外を見てみる。この場所とも違うようだけど。
この写真の中に僕もいるのだろうか。触れてみるが自分の顔が思い出せない。部屋から出ようとして外で気配がするのを感じた。それも一人ではない。何人かの足音がする。
ここはどこだ。僕は誰だ。この場所でなにをして、なぜ記憶がないんだ。髪の毛をくしゃりと握ってみるが何も思い出すことができない。
部屋から出てみようかと思うが、外にいる人間が安全な人とは限らない。
とにかく保存されているもう一つの映像を見ようと再生ボタンを押した。先ほどの写真で森谷健一と示された人が語気を強めて語っていた。
「この薬を飲めば絶対にみんなが幸せになれる。疑いとか、そういう過去が終わるんだ! これが僕らを傷つけるなんて、不幸にするなんてことは絶対にありえない。だから、みんな一緒に飲もう! 毎日飲んだっていいくらいだ。誰の言葉を信じればいいかは明白じゃないか。とにかく。今からみんなでこの薬を飲もう! 絶対に大丈夫だ」
どういうことだ。その時床に転がっている瓶に目がいった。中に白い錠剤が入っているのが見える。記憶がない。薬を飲むように勧めた人間。そしてここにある錠剤。森谷健一が記憶を消す薬をみんなで飲もうと言ったのだろうか。
「森谷健一は」窓ガラスに薄っすらと映る自分の姿を見た。「もしかして僕なのか?」
タブレットのカメラを起動し、前面カメラで自分の顔を確認する。
心臓が鼓動を早める。強くかぶりを振った。
「起きたばっかりでおかしくなってるのかな」自分に言い聞かせるように言葉を吐いた。
目をつぶって一度大きく深呼吸する。空っぽだった記憶にいきなり意味不明の情報を押し込まれて処理できない。
さっき映像に映っていたのは僕だった。映像では僕が確信に満ちた顔で他の四人に語っていた。
何カ月も髪を切っていないような黒縁眼鏡の男が竜崎拓也。
金髪の化粧の濃い子が石黒菜月。
ショートボブで緩めのウェーブがかかった大人しそうな子が添島栞。
そして、肩より下に伸びる黒髪に、色が白く、幼い顔立ちの如月朋子。
部屋の外に存在する気配は彼らのものだろうか。僕の部屋に入ってくるだろうか。そう不安を覚えてドアの鍵を閉めようとするが、そもそも鍵がついていなかった。
ここから出る前に考えを整理していく必要がある。
他の人たちは記憶があるのだろうか。僕一人だけがなにも思い出せない状態なのだろうか。タブレットを僕が持ってたのはどうしてだ。如月朋子の名前を書いたのはどうしてだ。
考える。考える。けど、いくら考えても答えは出なかった。
とにかくここから出てみよう。もしかしたらなんの危険もないかもしれない。ただ念のためタブレットと錠剤の入った瓶は布団の下に隠した。
恐る恐るドアを開ける。視線を巡らせる。古い民家に見える。階段があり二階も存在していることがわかった。足音が響かないように歩く。
洗面所があった。入って鏡を見てみると、やはり自分の顔はタブレットの中にあった写真の森谷健一と同じだった。腕に書かれた文字も水で洗って消した。
そして、気配がする方に進む。扉があったのでそっと開けて中を覗き見る。
人がいた。男の人が一人と女の人が三人。写真の中に映っていた人たちだ。
と、その中の一人の子と視線が合った。その子の表情が変わったので、周りにいた人物も何事かとこちらを見る。
ゆっくりと扉を開けて中に入った。
「あ、あの」僕が何を言えばいいのか戸惑っていたら、
「ここ空いてるよ」と、確か如月朋子という名前の少女が促してくれた。
ダイニングの中央におかれたテーブルに六脚の椅子。僕はその中の空いている一つに腰かけた。俯きながら上目遣いに様子を窺う。竜崎拓也、石黒菜月、添島栞。写真に僕と一緒に写ってた子たちだ。
誰も何も喋らない。居心地の悪い時間が流れる。沈黙が痛くて、なにかを言わなければという気持ちになってくる。
「あの。如月朋子さん、ですよね」僕は隣に座っている彼女に訊ねた。その瞬間彼女の表情が変わっていく。しまった。言わなければよかった。後悔するがもう遅かった。
「わたしのこと知ってるの? もしかして覚えてるの?」如月が前のめりになって質問する。
如月の反応を見てわかった。彼女も記憶がないんだ。覚えてないんだ。不用意な一言を言ってしまった。
「なんであたしたちは昨日のことなにも覚えてないんだよ。なにかあったのか?」金髪で化粧の濃い石黒がテーブルに身を乗り出して訊いてきた。
「いや。僕もなにも覚えてないんだよ」慌てて顔の前で手を振る。
「嘘つくなよ。いまこの子の名前言ってたじゃん」石黒がなおも詰め寄る。
訝しむような視線が向けられる。どうしよう。暑くなったわけでもないのに、体温が上がっていくのを感じる。
タブレットの写真のことを正直に言うべきだろうか。あの写真を見てみんなの名前がわかったって。いや、そうすると動画も見せることになってしまう。あの動画はまるで僕が今の状況を作り出したかのような誤解を与えてしまう。動画だけを消して見せればいいのか。だめだ。もしかしたらあの動画には大切な情報が収められているのかもしれない。記憶がない状態で過去のことを教えてくれる映像を削除するのにはリスクが大きすぎる。なんて言えばいいんだ。もっと考えてから言葉を発した方がよかった。
「大丈夫?」如月が心配そうにこちらの様子を窺う。「もしかして体調悪いの? 顔色悪いよ」
息がしにくい。いや、だめだ。落ち着け。自分に必死に言い聞かせる。ここで変な態度をとったらどんどん怪しまれてしまう。僕が何かをしたわけじゃないんだ。平然としていよう。
「僕も覚えてない。記憶が全くないんだ。昨日のことも、ここがどこなのかも、君たちとどんな関係なのかもさっぱりわからない」
「でも、さっき如月朋子かって訊いてたよね?」石黒が強い口調で言う。
「名前だけは憶えてたんだ」それから僕は順番に指さしながらそれぞれの名前を告げる。「最後に僕が森谷健一。なぜだかわからないけど、名前だけは知っている」
嘘をついてしまった。けれど余計な疑いを向けられないためにはしょうがなかった。
「名前だけって」石黒の顔が険しくなる。「そんなことありえるのか? なら、どうしてあたしたちは名前もなにもかも覚えてない?」
緊張があたりの空気に広がっていく。不審な目を向けられていることがわかる。なんて返せばいいんだ。だいたい僕だってなにも知らないんだ。僕に訊いたってしょうがないのに。
と、思考が不意に発せられた音に遮られた。
空腹を知らせる音。視線がその人物に移る。
「あ、ははは」
申し訳なさそうに如月朋子が自分のお腹を押さえながら小さく笑った。
途端に張りつめていた空気が弛緩するのを感じる。最初に石黒が戸惑ったように笑って、その笑みはすぐに全員に伝染した。
強制的に張っていた筋肉をようやく緩めることができる。
「ごめんなさい。鳴らないように頑張ってたんだけど」
笑っていいのだろうか。周りの様子を窺いながらの探り合いが続く。目が覚めた時から戸惑いと緊張と恐怖に身体が支配されていた。なんで今の状態になってるのか誰にもわからないんだ。それなら、僕は少し笑いたかった。僅かでも互いに対する警戒心を下げたかった。
そう思えたのはタブレットで写真を見た時に、記憶をなくす前から僕らが知り合いだったことを知ったからかもしれない。
石黒が長くて深い息を吐いた。
「なんか食べようか」石黒の顔から警戒の色が少し減る。
「そうしましょう」
添島栞も同意して立ち上がる。
その時に、リビングに充満していた空気の色が変わった。
「なにか美味しいものが食べれるといいね」如月朋子は笑みを僕に向けながら立ち上がった。
「ああ。うん」つられて立ち上がる。
あのまま質問攻めにされずによかったと胸をなでおろすが、同時に緊張感がなくなったことで嘘を言ってしまったことに胸が痛む。
何か食べられるものはあるのだろうか。全員でキッチンへと移動する。冷蔵庫の脇に段ボールが積まれていて、インスタントラーメンや缶詰が保管されていた。こういった食材も記憶をなくす前に自分たちで準備していたのだろうか。
如月がしゃがみ込んで一つの段ボール箱を眺めていた。
「なにかあったの?」僕は訊ねる。
その中には可愛らしく包装された飴玉がこれでもかというほど沢山入っていた。
「うん。そうだね」如月は一個手に取って口の中に入れた。
如月と目が合う。
「どうかしたの?」僕は訊ねた。
「なんだか懐かしい感じがするというか。今までも何度も食べていた気がするというか」はっきりとしない物言いで如月は首を傾げる。「よくわからない感覚」
「好きな味だったとか?」
覗き込んでみると、苺やオレンジ、レモンなど変わった味のものには見えなかった。
「そういうんじゃないんだけど、味じゃなくて、この種類が何というか」
可愛らしく包装された飴を如月は目を細めて見る。
確かにどこか見覚えがある。僕もオレンジ味を取って口の中で飴玉を転がした。なにかを身体が覚えている。けれど、その何かが思い出せない。頭をぽりぽりと掻いた。
「冷蔵庫の中に飲み物や野菜やお肉とかも入れられてます」添島は中から肉のパックを取り出して言った。「賞味期限もまだ切れてないですね」中を覗き込んでいる。「いくつかは使いかけの食材もあるみたいです」
どういうことだろう。状況から考えるに使ったのは記憶が消える前の僕らだ。記憶がなくなる前に買い物に行って、しかもそれまでは普通に食事を作って食べていたのだろうか。
「こっちにはカップラーメンとか缶詰も沢山あるよ」如月が言った。
「せっかくならちゃんとしたもの食べたいんだけど」石黒は炊飯器やら電子レンジ、鍋などに触れながら考える仕草をする。
「なにか買ってこようか?」如月は提案する。確かに外に出てみたい気もする。外に出れば周りの状況がわかって、今自分たちがどこにいるのか把握できるはず。
「でも外がどうなってるかわからないし。店が遠い可能性もあるから」石黒がなにを料理しようか悩んでいるように食材を選んでいる。
そこで如月朋子が思いついたように手を合わせた。「そういえば、庭になにかあったから見てくるね」
如月がキッチンからダイニングの方に向かう。キッチンに居続けるのも気まずかったので如月のあとを追った。なぜ彼女の名前が僕の腕に書かれていたのか気になった。
ダイニングに行くと如月が僕に気づいて振り返った。どんな顔をされるか一瞬不安になったが、如月は小さく微笑んだ。
「ほら。見て。なにか植えられてるんだよね。なんだろうね」如月は庭へと続く窓ガラスに両手をつけて覗き込んでいる。
ふと視線を下に向けたら窓の一部が割れているのに気づいた。鍵を締める部分の近くに何かをぶつけられたような穴が開いている。サランラップとセロテープで補修されているが、それはまるで外から無理やり中に侵入するために壊されたように見えた。台風でもあって石でも飛んできたのかな。けれど、その穴がちょうど鍵の近くであることに違和感を覚えた。
「あのさ。これってなんだろう?」
「ん? ああ、割れちゃってるね。なにかあったのかもね」如月はそう言いながらも気持ちはすでに庭の方に向けられているのかきょろきょろと視線を動かせている。「サンダルが置いてないね。玄関に行けば靴とか置いてあるかな」
如月はそのままリビングから出て行った。僕はじっと穴の開いた窓ガラスを見る。なにかがあった気がする。けれどそれがなにか思い出せない。なにかが繋がりそうで繋がらない感覚。脳が思うように動かないもどかしさ。
玄関に向かう。靴が何足か並んでいた。
如月はその中の一つの紐靴を手に取って履き始めた。
「それって自分の?」
「そういえばそうだね」如月は小首を傾げる。「誰のかはわからないけど、わたしの足にはぴったりだった」
そう言って如月は笑った。履いた靴は紐が明るいピンク色の白いスニーカーだった。記憶がなくなっても身体に染み付いた習慣は残っているのだろうか。
そう思ったが、僕は何足か履いてみてようやく自分の足に合う靴を見つけることができた。と、そこで気づく。いまここにいるのは五人だ。けれど下駄箱に入っている靴は五人分以上あり、しかも見た感じ年配の人が履くような革靴やら、運動靴が仕舞われていた。誰のだろう。僕らの誰かがこういう靴を履いてたのだろうか。
「早く行こうよ」気持ちがはやるのか如月はすでに玄関の扉を開けて飛び出していた。
風が吹いて心地いい。半袖でも肌寒さを感じなかった。見渡してみると隣の家まではかなり距離があり、間は雑木林でそれぞれの家が孤立しているのがわかった。ここまでそれぞれの家の距離が離れていたら、隣の家で何が起こっても知る由はないだろう。家の前には道路があり、その道路の脇に並んでいる木々が緑から茶色へと変化しているようで、今が秋であることが推測できた。
庭に回ってみると雑草も多く生えてたけれど、その一画に柵に囲まれた場所があった。近づくとそこには大根、人参、小松菜が育てられていた。
「沢山あるね」如月が少し触れた後に辺りをきょろきょろと見渡した。ケヤキの木の脇にバケツとシャベル、じょうろが置いてあり、如月はじょうろに水を入れて野菜に水をかけた。
如月はしゃがみ込んで小松菜を眺めている。「これって全部カレーに入れたら美味しい具材だよね」
僕も隣に腰を下ろした。
「これからどうなるんだろうね」独り言のように如月が言った。
「まったく予想できないね」
僕にもわからない。記憶を無くす前の僕らは何を望んでいたのだろう。なぜここに集まったのだろう。記憶がなくなっていることがすでに異常なことなのに、それが五人全員ってどういうことだ。解決させるためには思い出すしかない。そうでないと今日一日をどう生きればいいのかすらあやふやで曖昧なものになってしまう。
「どうして名前だけ覚えてるの?」
どきりと心臓が跳ねた。
「覚えてないから自分でもどうしてかわからない」
「そっか。そうだよね」如月が納得するように頷く。
「なにも覚えてないの?」僕は訊ねる。
「うん。すっからかんだね」如月は明るく笑った。風が吹いて長い黒髪が流れる。「わたしたちってどういう関係だったのかな?」
「年齢は同じくらいに見えるから、何かしら関係があったように思えるけど」
「全く知らない者同士には思えないよね」
「初対面で記憶が消えた人が集まったっていうのはおかしい気がするけど」
仮に記憶が消えた状態で、もしくは記憶が消える症状の人が集められたなら、きっと集めた人が存在するはずだ。
「もしかして」不意にある考えが思い浮かぶ。「僕たち五人しかいないと勝手に決めつけてたけど、もしかしたら他にも人が存在して、その人はたまたま今の時間帯いなくて、もう少ししたら戻ってくるとかないかな?」
「ああ、そういう可能性もあるかもしれないね」如月が頷く。「逆にもしも友達同士だったとしたらどうして記憶がなくなったんだろう」如月は手で砂を弄っている。
おそらく如月の予想は僕が見た写真から推測するにあたっている。関係が深かった人間の記憶がなくなる。
「記憶がなくなるようなことをしたとか?」思い付きで言ってみる。
「でもお酒も置いてなかったし、体調も悪くないし、ほんとに記憶だけがぽっかりなくなっちゃった感じだよ」
確かにそんな感覚だ。自分の存在に確信が持てない。今だって目に見える景色がどこか嘘っぽく感じられる。地面がついているはずなのに、どこか足下が不安定な気がして落ち着かない。
「記憶を消すような薬があったらどうする?」僕は今朝見た映像と薬剤が入った瓶を思い出した。僕が、森谷健一がみんなに記憶を消す薬を飲むように促していたとするなら、それはどうしてだろうか。
如月が笑う。「そんな薬があるとは思えないけど。あったら危ないし。なんのためにあるのかもわからないし。けど、仮にあって飲んだとしたらなんだろうね」
「忘れたい何かがあったのかな」
「どういうこと?」
「いや、もしかしたら僕たちには忘れたい過去があって、たまたまそう考えているときにそういう効果の薬が近くにあったとか」
「忘れたい記憶って、例えば?」
如月の瞳の大きな目に見つめられる。
「わからないけど、そうだね」すべてを忘れたいほどのなにか。「誰かにすごいひどいことをされたとか」
「もしくはわたしたちがして、それを覚えていたくなかったとか」
「僕たちが?」なるほど。そういう可能性もあるのか。
「思い出せないからわからないけどね。でも、もし悪いことをしたのだとしても、それを忘れたいってことは後悔してるってことだよね」
「まあそうなんだろうね」
「もしも、誰かになにかされたんだとしたら、その誰かはいまどこにいるんだろうね?」如月の声が少し震えた気がした。
「どういうこと?」
「いや、もしも記憶を消したいほどのひどいことをわたしたちにした人がどこかにいるのだとしたら、それはそれで怖いなあと。その人のことをわたしたちは何も覚えてないわけで」
「そんなにひどいことしたならもう捕まってるとか、もしくは僕たちの近くに来れないどこかにいるんでしょ。じゃなきゃ、その状況で薬を飲むのは危険すぎるし」
「だとしたら、わたしたちがそんな薬飲まなくていいように、飲まないように周りが言う気もするけど」如月は小首をかしげる。
木の葉の揺れる音が風が吹いたことを知らせる。地面から湿った土の匂いがする。
と、背後で窓が開けられる音がした。
「なにか食べられるものあった?」石黒が大きな声で訊いてきた。
「うん。小松菜とか人参があったから持ってくね」
「いいじゃん。とりあえずカレーつくることになったから」石黒がそう言ってまたキッチンの方に戻っていく。
如月が立ち上がった。
「なにも思い出せないから考えても全然わからないね」そう言って笑う。「だからさ。とりあえずみんなでカレー食べよう」
ふと気味の悪い臭いが鼻腔を刺激した。それは一瞬で風に流されて消えていった。
なんだろう。僕が顔をしかめると、
「ああ、なんかケヤキの木のほう変な臭いするよね」と如月も同意した。
視線をそちらに向ける。幹から伸びる枝と葉が、根元にあるものを覆い隠すように広がっていた。
大きな風が吹いて幹に立てかけてあったシャベルが力尽きたように倒れる。
キッチンに行くと石黒たちは食事につかう食器などを洗っていた。
「綺麗に見えたけど一応洗っておけば安心でしょ?」石黒はそう言った。
全員で協力してカレーをつくる。記憶をなくす前も料理をする機会が多かったのか、全員が手際よく包丁などの調理器具を扱えた。
それだけじゃなく、一種のチームプレイみたいなものがそこにはあった。
五人で台所に立てば誰がなにをするのかをうまく決められずに、まごついて、料理の工程がスムーズにいかなそうだが、そんなことはなくみんな自分が何をすべきで、何をしなくていいのかわかっているようだった。もしかして記憶があった頃にもこうして一緒に料理をつくることがあったのかも。
「もう作り始めてたから、今回は小松菜だけ入れていい?」石黒が訊ねた。
「うん。入れたら美味しそう」如月が言う。
完成したカレーをテーブルに並べて食事を始める。
スプーンが皿に当たる音が響く。また緊迫した空気にならないように戸惑いながらもみんな口を開いた。
「それで、なんでみんなの名前知ってんの?」石黒が僕に訊ねた。けれどその声はさっきよりも警戒心が薄れていた。
「記憶がないからなんでかはわからないけど、ただわかるんだよね」
その答えに完全には納得していない顔になったが石黒はそれ以上訊いてこなかった。
「とりあえず食べ終わったら家の中を調べてみるか」石黒が言った。
「そうだね。色々と見てみたら段々と思い出してくるかもしれないね」如月が頷きを返す。
ぎこちなさは残るが、それでも僕たちは食事を食べ終わった後に僅かながら連帯感が生まれ始めていた。まずは全員でリビングから調べる。十畳ほどの大きさにテレビとテーブル、椅子にソファー。テレビラックにはDVDもなにも残されていなかった。生活感がない。
キッチンには大量の保存食。食器類を見てみると同じ種類のものが五つあるということはなかった。お茶碗も三つが同じもので、あとは別の種類のものがお客さん用なのか何個かあった。調味料などはどれも新しく最近買ったものに見える。
玄関から少し外に出てみる。
と、脇に停めてある赤いミニバンに気づいた。中を覗き込んでみるが特別なものはなにもなかった。試しに扉を開けようと手をかけたが鍵がかかっている。
「わたしたちが買ったのかな?」如月が言った。
「僕たちが?」そんな大金を持ってるとは思えない。そもそも自分が運転ができる感覚が体の中に存在しない。僕たちの年齢が見た目から予測できるものとそう遠く離れていないなら、この車の所有者ではないだろう。
「誰か他の人が運転しても、とりあえずここにいる全員は乗れるな」石黒が言う。
誰か。その誰かとは誰だろう。外から建物を見上げる。例えば誰か夫婦がここに住んでいて、それで、その二人は僕らを子供のように可愛がっていて、時に車に乗ってどこかに遠出をする。推測を映像として頭に浮かべてみる。でも、そうだとするならその夫婦はどこにいるんだ。如月が推測した誰かに酷いことをされた、もしくは僕らが悪いことをしたことが関わってくるのだろうか。
そうだ。現実的に考えれば、この車や一戸建ての所有者と僕らの記憶がないことは密接に関係しているはずだ。
「誰かがわたしたちをここまで送ってくれたのかな?」如月は小首を傾げる。
「だとしたらその人はどこ行っちゃったのさ?」石黒の表情が険しくなる。
その人たちは僕らにとって味方なのか、それとも敵なのか。
不安を誘うような風が吹く。
と、不意に遠くからエンジン音が空気を震わせて鼓膜に届いた。その場にいる全員の身体が強張った。音は徐々に近づいてくる。誰もそちらの方に顔を向けることができない。かと言ってこの場から離れることもできない。タイヤがアスファルトの地面を削る音が僕らの身体を震えさせる。
もしも、今の僕らの状態が偶発的に生じた平穏なものだとしたら。実は危険な状況にあり、今すぐにでもこの場から立ち去るべきだったとしたら。思考が渦巻く。
けれども自動車はそのまま減速することなく通り過ぎて行った。
誰からともなく詰めていた息を吐き出す。
僕らは忘れてしまっている。何が危険で安全なのか。
竜崎は黙ってその様子を見ていた。大人しい性格なのだろうか。添島栞は色々なところに視線を向けながら何かを考えるように小声でぶつぶつ言っていた。
「庭にはなにか変わったものはあった?」石黒が空気を変えるかのように訊く。
「ううん。特になかった」如月が答える。
僕は反射的に如月を見た。異臭。あれは変わったものじゃないのだろうか。如月はもう忘れたのだろうか。それとも。
「よし。じゃああとはあたしたちがそれぞれ起きた部屋だな。下に三部屋あって上にも三部屋あるんだよね。あたしが起きた部屋はなにもなかったけど、もしかしたらもう一度見たらなにかわかるかもしれないな」
そう言って玄関から中に入る。
と、そこであることに気づいた。僕が起きた部屋にはタブレットと錠剤が入った瓶が布団の下に置いてある。心臓が徐々に伸縮の速度を速める。もしも見つかったら、あの僕が演説している映像がみんなに見られてしまう。いや、ただ見られるだけならいい。けど、僕が見た後にあのタブレットを隠したとばれたら状況が変わってくる。それは犯人が証拠を隠滅しているような印象を与えるのではないか。
「それじゃあ、まずは二階から見てこっか」石黒を先頭に階段を上がる。
二階の部屋はどれも八畳ぐらいの広さで、ベッドが置かれている部屋もあれば、布団だけの部屋もあった。どの部屋も必要最低限の物しか置かれていない。洋服も数日間分しかなくて、この場所に住んでいたというよりは旅行や合宿で来ているような感じがする。
「本が置いてある」石黒が手に取った。「買ったの? というかその記憶もないのか」その視線が添島栞に移る。
「起きたらそばに置いてあって」添島は石黒から受け取る。
脳と記憶と感情と書かれたその本は分厚く、専門書のようだ。
「あたしたちの今の状況と関係ありそうだけど、そのこともなにも覚えてないんだよね?」石黒が質問する。
「覚えてないです」添島が返す。「なんでこの本があって、なんで私が起きた部屋に置いてあったのか」添島はそっと表紙を撫でる。「時間があるときに中を読んでみようと思います」
添島の部屋には他にもペンなどの文房具も転がっていた。
けど、僕はすでに心あらずだった。どうしよう。次は僕が起きた部屋に行くかもしれない。まさか布団をひっくり返すことまではしないだろうか。万が一見つかっても気づかなかったと言えば大丈夫だろうか。不安が押し寄せてくる。
階段で下に降りる。床を踏んで軋む音が僕の身体を打ち叩く。
こんなことなら起きた後にすぐにタブレットの存在をみんなに知らせればよかった。いや、むしろあの映像を消してしまえばよかった。あんな映像を保存していたって過去のことを思い出せるとは限らないんだから。
後悔が身体を支配する。
僕が起きた部屋にみんなで入る。
「ここにも何にもなさそうだな」石黒は辺りを眺める。「どの部屋も物が少ないな。この家ってあたしたちの家じゃないのか?」石黒はしゃがみ込む。
僕は自然とタブレットと錠剤を守るように布団の近くに立った。足の指先でタブレットの場所を確認し、そこにみんなが近づけないようにする。
「マジックペンが落ちてますね」添島がかがみ込んで拾った。「ここで起きたんでしたっけ?」
「ああ。えっとそうだね」平静を装うことが難しく首のあたりを触りながら視線を背けてしまった。
「なにかこのペンで書かれてた文字とか。情報ってどこかに残ってないですか? もしかしたら記憶があったときに何かを書いている可能性があると思います」
「え? いや。どうだろう。覚えてないし」曖昧に僕は返す。
「ペンがあるからってなにかを書いてたとも思えないけど」石黒はそう言いながらもきょろきょろと視線を動かしてく。「布団の部屋とベッドの部屋があるのには意味があるのかな?」と掛け布団に手を触れる。
身体が強張る。自然と表情が固くなる。どうしよう。無理やりにみんなを他の場所に移動させようか。いや、そんなことをしたら怪しすぎる。なら、なにか別のことに意識を向けさせることはできないだろうか。
「あ、あの。この家って六部屋あるんだよね。僕たちはそれぞれ違う部屋で起きたってことは、誰にも使われてない部屋があるってことだよね」とにかく思いつくことを早口で言った。「ということは、もしかしたら残りの一部屋がこの家の、あと車を持ってる人のってことにならないかな?」
短い沈黙が流れるが、それすらもいまの僕にとっては恐怖だった。
「確かにそうかもしれないな」石黒が同意した。「調べてみるか」
石黒が部屋から出ていくと他の人もそれに続く。最後に部屋から出ようとする添島がマジックペンを持ちながら肩越しに僕を見た。なにかを言うように口を動かすが、それが言葉として出てくることはなかった。
僕は詰めていた息を吐きだす。布団を少しめくってタブレットと薬が入った瓶を確認する。
「もしかして、この状況を作り出したのが僕ってことはないよね」
自分で吐いた言葉を否定するように首を振った。
全員で残りの一部屋に入った。誰もまだ入ったことがない部屋。すでに石黒たちは中を調べている。この部屋だけ他の部屋と毛色が異なっていた。八畳の畳の部屋で、座布団、たたまれた布団、小さなテーブルが置いてあった。箪笥があり、石黒が取り出して見ている洋服は年配の男性のもののように見える。さらに本棚には子育ての本や、そして添島が起きた部屋に置いてあったような記憶や脳、さらに人体に関係している専門書が詰められていた。
ここにだけ誰かが生活していた痕跡がある。
「写真とか、なにかの郵便物とか、そういうものがあったら情報としていいんだけど」石黒はそう言って色々なところを開けたり、探ったりしている。「おっ。あった」手にしていた封筒は水道料金の請求書だった。「旗手茂、住所は滋賀県」
お互いに顔を見合わせる。名前にも住所にも覚えがない。誰の苗字とも異なると言うことは僕らに関係している人の家ではないのだろうか。
この旗手茂がこの家の所有者で僕らをここに連れてきたんだろうか。考えてみるがやっぱり記憶は戻ってこない。
「とりあえず最後にもう一つの部屋見てみようか」
石黒に促されて如月が起きた部屋に向かう。
如月が扉を開ける前に、「わたしの部屋だけちょっと雰囲気が違うんだよね」と言った。
その言葉通り見ると中の様子が異なっていた。可愛らしいベッドに机、子供部屋にような家具が揃えてあった。
「なんか、全部小さいね。棚に入ってる服も子供用みたいだし」石黒が仕舞われていた服を両手で持って広げる。「というかタグついてるし。新しいのがあるね」
旗手茂に娘でもいたのだろうか。それにしてはちぐはぐな印象を受ける部屋だ。使用した形跡がないものが沢山ある。物はあるのに、この部屋も誰かが生活していた痕跡が空間の中に残っていない。
それとも孫がいて、その子が里帰りするために色々なものを揃えたのだろうか。
部屋を見渡すが僕たちの記憶を蘇らせてくれることを助けてくれるような物はなかった。
リビングに戻る。テーブルを囲んで座った。
「そんで? 家は調べ終わったんだけど、それぞれどう考えてる?」石黒が視線を順番に移しながら訊ねる。
「すいません。先に飲み物持ってきてもいいですか?」と添島が口を挟む。
どうぞ、と石黒が言ったので添島は人数分のココアをつくって持ってきた。
「とりあえずあたしの意見としては」石黒が話し始める。「ここが滋賀ってことはさっきわかったわけだけど、あたしがどんな人間で、ここでなにをしてたかなんてさっぱりわからなくて、どう考えても怪しいと思うんだけど、ただ家の中を見ても危険そうには思えなかった。だから、少しずつ家の周りとか隣の家とか見てみて情報を集めて、それで記憶が戻ればいいし。時間が経っても戻らなかったらどこか病院行くとかしてみるのがいいと思うんだけど、どう思う? もしかしたら時間が経てば、あの、旗手って人も戻ってくるかもしれないし」石黒はそこで一度言葉を切ったあとに続けた。「それに、あんたらも悪い人には見えないし」
視線こそ合わなかったが、優しい空気が流れた。
「他の人はどう思う?」石黒が訊ねた。
「わたしは」と如月が口を開く。「正直よくわからない。どうすればいいかわからないから、みんなに意見があったらそれに賛成したいな」
石黒が頷いて添島を見る。
「そうですね。少し様子を見ると言うのは私も賛成です。けれど、生活していくのにお金もかかります。たぶん数日で今ある食糧はなくなります。確かに、さっき家の中を調べた時に封筒に入ったお金などもありましたが勝手に使っていいかもわからないですし、考える時間はそんなに長くないと思います」
現実的な意見にはっとした。確かにそうだ。記憶が戻る戻らないに関わらず僕たちは生きていくために必要なものがある。自分たちで手に入れるのが難しいなら誰かから受け取る必要があるが、それが可能かどうかもわからない。
「それに旗手という人が戻ってくるのを待つという考えもいいですが、そもそも戻ってくるかもわからないですし、戻ってきてもいい人かわからないと思います」
一泊置いて石黒が言う。「それってその人が悪人で、あたしたちをここに集めて全員の記憶を消したかもってこと?」
「可能性としてはそういうこともありえると思います」
同じ危険を感じていたので僕も同意の意味を込めて首肯した。現実的に考えれば記憶が消えた五人が生活しているよりも、記憶がある人物がいて、その人が記憶がない人たちを集めた、もしくは世話していると考えた方が筋が通っている。当然そこにはその人が僕らの記憶を奪って監禁している可能性も否定できない。
「でも、もしかしたらその旗手って人がいい人で、記憶がなくなった僕たちを助けてる可能性もあるよね」
「その可能性もあります」添島は頷く。
けど、そう考えると僕が持っていたタブレットに入った映像との整合性が取れなくなる。あの映像を見る限り僕がなにかしらの薬をみんなに飲ませようと促したことは確かだ。もしかして僕が旗手という人と仲が良くて、その人が持っていた薬を飲もうとみんなに提案したという可能性はないだろうか。
石黒は竜崎に言う。
「あんたはどう思うんだ? あんまり喋らないけど、今の状態をどうすればいいと思ってんの?」
竜崎は口を一度引き結んだあとに、ゆっくりと口を開いた。
「なんでもいいよ。なるようにしかならないし」投げやりな物言いだった。
「あのさ」石黒が少し前のめりになる。「もう少し真剣に考えられないの? あたしたちそれぞれの選択が、これからのことに影響するんだけど」
石黒の言葉に竜崎は一瞥するが、それ以上言葉を発することはなかった。
石黒が見せつけるようにため息を深く吐く。
結局結論はでずに、誰が何かを先導すると言うこともなく、曖昧な空気のまま今日一日は終わりに向かっていった。
ふとリビングから家の中に置かれた固定電話を見る。外部の人間と簡単に接触できる機械だ。確かに僕らは友人や家族などの電話番号を覚えていない。けれど記憶の中に緊急用の電話番号は残っている。警察と救急車。けれども誰も今すぐそこに電話することを提案しないのは、出会ったころよりも少しずつお互いを信頼し始めているからだろうか。
家族。そこで思い至った。僕らにもそれぞれ家族がいるはずだ。両親が、もしかしたら兄弟も。その人たちは僕らが姿を消していたとするなら捜索するはずだ。それこそ大きなニュースになってないだろうか。いや、ちょっと待て。僕の部屋にあったタブレットに残された写真。あの写真にはそれぞれの家族が写っていなかった。どういうことなのだろう。
風呂をわかして女子から順番に入っていく。
ちぐはぐで不器用ながらも一日が終わりそうだった。何も思い出せなくてもお腹は減るし、時間は経過していく。
自分の部屋に引きこもることに躊躇を覚えて、みんなリビングに集合していた。添島栞は部屋に置かれていた本をソファーに座って読んでいた。記憶に関係する本。確かにどうにかして過去のことを思い出すことができるのなら、今のこの状況を変えることができる最善の策になるはずだ。
「あの、なにかわかった?」僕は近くに行って訊ねる。
添島は視線をもたげるとわずかに躊躇するような様子を見せるが、身体を横にずらして僕が座れるスペースを空けた。そこに腰を下ろす。
「どうしたら僕たちは思い出せるのかな?」
「それは、なかなか難しい質問ですね」添島は考えるように一度目を閉じて開いた。「そもそも記憶ってどういうものだと思いますか?」
「よくはわからないけど、生まれてから今までどこでどういうことをしたっていう情報じゃないの?」
「そうですね。その認識は間違っていないと思います。記憶の分類法は様々な方法があるらしいですが、一つには感覚記憶、短期記憶、長期記憶で分類できるものがあるらしいです。短期記憶は海馬に、そして長期記憶は大脳皮質に保存されるみたいです」
僕はそこで添島の話を遮った。「ごめん。ちょっとよくわからないや」
「すいません。えっと。なんて説明したらわかりやすいんでしょう」添島は眉間にしわを寄せて手を口元に持ってきた。「例えば、私たちはいま昨日までの記憶がありませんが、私が今手に持っているものが本、書籍であることは覚えていますよね?」
僕は頷きを返す。
「さらに。この本を読むこともできます。文字を覚えているからです。食べ物のことも覚えていますし、日本語も喋れます。これらの情報は忘れていないということです」
「確かにそうだね。記憶の種類が違うってこと?」
「そうです。脳の構造、さらには記憶との関連性はまだ完全には解明されていませんが、私たちが忘れているのは陳述記憶と呼ばれるものの中のエピソード記憶と定義されているものです。簡単に言えばそれぞれの人間が経験した出来事を記憶しているというものですね。本来それらは海馬を通して思い出すことができるみたいなのですが、私たちの海馬になにか障害が起きているのか、もしくは海馬と脳の他の部位を繋ぐ部分が切れているか、一時的に塞がれてしまっているのかもしれません」
「よくは、理解できないんだけど。じゃあつまり海馬がちゃんと動くか、もしくは繋ぐ部分が働き始めれば思い出せるってこと?」
「そうですね。あと長期記憶っていうのは自分の体験した感情が強い場合は、その記憶の定着率も強くなるようです。だから、もしも今のこの状態が脳が損傷したことではなくて、人為的に作られているものだとしたら、感情を高める何か、しかも過去の記憶と関係がある外的刺激が加わったら思い出す可能性があるかもしれないですけど」
「外的刺激、か」その言葉を何度も反芻する。
「ちなみに、例えば記憶は大きく二つに分類できて、意識できる記憶と意識できない記憶があるようです。記憶はその人の人格に大きく関わってくるようなので、私たち五人がみんな記憶がないのにそれぞれ性格が違うってことは意識できない記憶が残っているからなんでしょうね。さらに、それだけじゃなくて元々持っている遺伝的要因も関係あるようですね」添島は言った。
この家の一部屋にも沢山の人体、脳、記憶に関する本が並んでいた。
今までに得た情報を基に推測すると、僕らは旗手茂という名前の人物にここに連れてこられた。これは間違いないだろう。この家には僕らの私物と言えるものが少なすぎる。生活臭がするものがほとんどないのだ。学生だとしたら学校に関係するものが置いてあるはずだし、趣味があればそれに関係するもの、さらに写真などが置いてあるはずだ。それながないという事実は僕らが他のどこかからこの場所に連れてこられたことを意味しているだろう。さらに、連れてこられたのもそう昔ではないはずだ。先ほどすべての部屋を見ていた時には思いつかなかったが、今ならわかる。
なぜなら僕らの冬服が置いてなかった。暖かい場所で生活できる最低限の洋服。
そして旗手茂は記憶に関する専門的な知識を得ていたはずだ。そして、もしかしたら幼い娘がいる。これは如月が起きた部屋の様子から推測できる。
もしかして僕が起きた部屋にあった薬剤は本当に記憶が消える薬なのだろうか。その開発に、もしくはそれを購入したのが旗手茂。なら、どうしてその薬を飲むようにみんなに勧めている僕の映像があったのだろう。
もしくは、旗手茂は記憶について研究していて、記憶に障害がある僕ら五人を連れてこの場所に来て、記憶を戻す手伝いをしていた。あの薬は、添島が言っていた海馬の働きを正常化させるものだということも考えられる。
頭をくしゃくしゃと掻いた。
だめだ。答えを出すには情報が少なすぎる。やはりどこか病院でも警察でも行って状況を説明した方がいいのではないだろうか。
「お風呂どうぞ」
思考を遮られた。
塗れた髪をバスタオルで拭いながら如月が立っていた。頬が上気して赤く、よけいに肌の白さを目立たせていた。
「ああ。うん。ありがとう」
僕は慌てて視線を落とした。
「わかりました」添島が風呂場に向かう。
添島が出てきたあと、竜崎が「最後でいい」と言ったので僕が先に入ることにした。
脱衣所の扉を閉じてそこに背中を預ける。
竜崎のことを考える。同年代ぐらいの同性。もっと距離が近くなってもいいはずなのに、いまだに竜崎とはまもとに会話できていない。それどころか竜崎が誰かと話しているのを見たこともなかった。いつも訊かれたことに対して最低限の返答をするだけで、大きな壁をつくっていた。
「記憶がなくて、他人だけじゃなくて自分のこともわからなかったら警戒するのも当然か」
ため息をついて服を脱ぐ。
鏡に映った自分の姿を見て身体が固まった。
目を見開く。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、浅く薄い息しか吐くことができない。
心臓が膨らんでいくように体中が脈打っている。
ゆっくりと手を動かして自分の腹部に触れた。
そこにマジックで殴り書きされたような文字があった。鏡に映された文字はひっくり返って読めなかったので、下を見て文字を読む。
ケヤキの木の下。
血の臭い。
誰かが操作している。
犯人は誰だ。
高ぶった感情を押し込められたかのような文字の羅列。
呼吸が浅く、速くなっていく。
どういうことだ。読みとった文字から連想されることは残酷で危険で、とてもじゃないが現実味がないものだった。
犯人。血。もしかして記憶を失う前にこの場所でなにか起こったのか。
心臓が強く脈打つ。
みんなにこのことを伝えなければと脱衣所から出ようとした。
けれど扉を開ける手を止めた。
誰かが操作。犯人。
その言葉の意味を考える。
僕はあの四人のことをよく知らない。もしかして、犯人はあの四人の中にいるんじゃないのか。犯人というものが具体的に何を指しているかはわからない。けれど、悪意を持った人物があの中にいる可能性がある。
だからこそ、僕は他の人が見れないようにシャツで隠れた場所に文字を残したんじゃないのか。
落ち着け。
呼吸を意識的に遅くする。
とにかく頭の中を整理しよう。
服を脱いで折りたたみ、僕は風呂に入った。
文字を消そうか残すべきか迷ったが、一度消した後に必要ならもう一度書き直すことにした。
さて、どういうことなのだろう。
この文字を書いたのは僕自身だろう。それは文字が書かれた方向から推測できる。そして、自分の身体に書いたということは、記憶をなくしたあとも忘れてはいけないと考えたのだろう。つまり、この文字を書いたときの僕はその記憶がなくなることを想定していたことになる。さらに服で隠れる場所だったということから、それが他の人の目につかないように気をつけられていたことがわかる。
その他の人とは誰を指しているのだろう。この家の中にいる四人なのか。それともその他の人物なのか。まだ出会ってないが旗手茂なのだろうか。けれどこの家にその人はいない。いないなら文字を隠す必要もなくなる。
湯船に浸かって身体を温める。
もしもこの中に。この四人の中にそのひどいことをした人物がいるなら、そしてその人がこの状況を作り出しているなら。なら僕がみんなに飲むように促したあの映像はなんだ。脅されて撮られたのだろうか。もしくは全く関係がない映像をこの場で見たから、あたかも記憶が消えたことと関係していると勘違いしてしまったのだろうか。
疑問が身体の中で暴れまわる。
そして一つのことに思い至る。
朝目が覚めた時に腕に書かれていた文字。
如月朋子。
もしかしてこれは、犯人を見つけた記憶がなくなるまえの僕からのメッセージなんじゃないだろうか。
そうだとすると如月が犯人なのか。
あんなに優しそうで、他人の悪口すら言えそうにない子なのに、それがなにか残虐なことをしでかしたというのだろうか。
僕は頭を掻いた。
だめだ。考えても考えても思い出せない。
とにかく周りの人に気づかれないようにケヤキの木の下を探ってみよう。なにか手がかりがあるはずだ。全員でこの一戸建ての中を調べたときに、庭は見なかった。ケヤキの木というのはおそらく洗面所から見えるあの木のことを指しているのだろう。
そこで思い出す。如月と庭に出た時に覚えた異臭。
そこにいったい何があるんだ。
目を瞑って必死に思い出そうとする。
恐怖と不安が胸の奥で渦巻くが、肝心の記憶は蘇ってこない。
くそっ。なんでなにも思い出せないんだ。
苛立ちで強くお湯を叩いた。
「入れるよ」
風呂から出て竜崎に告げる。
竜崎は何も言わずに立ち上がって風呂場の方に消える。
脱衣所へと消えていく竜崎の背中を視線で追いかける。僕は椅子に座って考える。もしも仮にこの中に犯人がいて、そいつがこの状況を操作しているのだとしたら、竜崎も怪しい。男二人に女三人。客観的に考えればこの状況を作りやすいのは男である気がする。いや、そういう単純な話でもないかもしれない。視線を石黒に向ける。
記憶を消す薬なんていう現実味のないものが存在しているのだとしたら、誰が操作をしててもおかしくはない。
それこそ、おおよそそんなことをするようには見えないが記憶に関係する本を読んでいる添島栞を疑うのにすら十分な根拠がある気がする。
「どうしたの?」
背後からかけられた声に僕は咄嗟に警戒してしまう。
如月朋子が両手にマグカップを持っていて、その一方を僕の前のテーブルに置いた。そのまま彼女は隣に腰掛ける。
マグカップから湯気とともに甘い香りが漂ってきた。
「キッチンにココアが沢山あったから」
如月はそう笑ってココアを口に含む。
なぜ彼女の名前だけを僕は書いたんだ。やはり記憶を無くす前の僕は犯人のおおよその目安がついていて、それを腕に書き記したんじゃないだろうか。でなければ如月朋子の名前を書く理由がない。
そこまで考えて不意に身体の奥底を冷やす考えが頭に浮かんだ。
そもそも僕らは何度記憶が消えたんだ。
身体に文字を書いて情報を残すという手法から、少なくとも二回以上は過去の記憶を失っているんじゃないか。もしそうなら。
「ねえ、大丈夫」
斜め下から顔を覗き見られた。思考の中をさまよっていた意識が現実に戻ってくる。
「ああ。うん」僕はココアを一口飲んだ。喉を熱いものが通り過ぎる。「ちょっと疲れたのかも」
「そうだよね。わからないことだらけだし、結局何も思い出せなかったし」
「思い出したいの?」僕は如月を見た。反応から目の前の人物が犯人なのかどうか探ろうとしたが、目で見てわかるほどの変化はなかった。
「そりゃあ思い出したいよ」如月は椅子に座って足をぷらぷらと揺らす。「昔のことがなにもわからないのは変な感じだし不安も大きい。これからどうなるのかさっぱりわからないし」
「そうだよね」僕はテーブルに視線を落とす。
彼女が犯人だと思えない。いや、彼女だけじゃない。ここにいる誰に対しても、確かに完全に信頼することはできなくても、犯人だと考えるのも難しかった。
今は考えるのはやめよう。何もわからないのに彼女たちを疑うのは間違っている。まずは腹部に書かれていたケヤキの木の下を調べてみよう。そのあとこれからどうするか考えよう。
僕はそれからマーカーペンを手に取って自分が目覚めた部屋に戻った。
そして風呂で消えた文字をもう一度腹部に書き直す。
ケヤキの木の下。
血の臭い。
誰かが操作している。
犯人は誰だ。
そして、如月朋子、の名前も書いた。
そこでふと気になって白い錠剤が入った瓶を手に取る。この薬が何なのか調べることも必要だ。記憶を消す薬なのかどうか。自分で飲む気にはなれない。もしも記憶を失ってしまったらせっかく得た情報が無駄になってしまう。じゃあ誰かに飲ませようか。いや、この薬が人体に害を及ぼすものなのかどうかもわからない。そんな危険なことはできない。それに、もしも仮に記憶が消えてしまうのだとしたら、それを無理やり誰かに飲ませることも躊躇われた。
ただ、もしももしも誰かが操作しているとしたら、そしてそれにこの錠剤が関係しているなら、どうして僕の部屋にあるんだ。この中に犯人がいるとしたら、その犯人は自分で薬を持っていたいと思うんじゃないのか。
「まさか、僕が犯人ってことはないよね」
大きくかぶりを振る。
考えても考えても思考はいっこうに答えにたどり着くことはできなかった。
辺りが暗闇に満たされて、僕以外の人物は自分が目を覚ました部屋に戻った。部屋でじっとしながら家の中の気配を探る。
全員が寝静まってから行動する必要があった。まだ手にしている情報が少なすぎて、誰にどう接すればいいのかわからない。それに、犯人、操作というメッセージも気になる。
そこで服を捲ってもう一度自分が書いた文字を確認する。如月朋子。彼女がなにかしら関わっているのだろうか。あんなに無邪気で笑ってばかりいる彼女だが、記憶をなくす前は全く性格が違っていたという可能性もある。いや、でもさっき添島は記憶が消えてもなにかしらは身体に残っていると言ってなかっただろうか。それが今の性格に反映されていると。
もしくはここにいない誰かが、犯人と呼べる存在が、もしかしたら旗手茂が僕たち五人の記憶を消してこの場所に拘束しているのかもしれない。
けど、それならどうしてそんなことをする必要があるんだ。
一人で部屋にいると抑えようと思っても思考がその働きを止めない。
いくつもの考えが浮かんでは絡まって、感情を乱していく。
だめだ。やっぱりわかっていないことが多すぎる。
部屋に釘で壁に固定されている時計を見る。
時刻は深夜の1時を示していた。
自分の部屋の外から感じる気配はない。もうみんな寝ただろうか。
少し扉を開けて廊下の様子をうかがう。
自分の部屋から明かりが漏れ出て、暗い廊下をぼんやりと照らした。
静かに自分の部屋を出る。
できるだけ音をたてないように注意していると、扉を動かす音、床を踏みしめる音までが大きく感じる。
如月が寝ているであろう部屋を通り過ぎ、リビングに向かう。そしてリビングの扉を開けて庭を見た。端の方に大きなケヤキの木が一本立っている。
玄関から靴を持ってきて、リビングに置いてあった懐中電灯を手に取りケヤキの木に近づく。
暗闇が広がる中、懐中電灯が照らす空間だけが不安げに揺れる。
ケヤキの葉が散った地面を踏みしめながら木の真下に着いた。
顔を上げて枝に何かぶら下がっていないか、変な部分はないか確認する。
しゃがみ込んで地面を凝視する。中腰になって木の周りを一周した。土がケヤキの葉で覆い隠されているが、それを手で払ってみても特に変わったところは見られなかった。
何もない。
けれど確かになにか腐ったような臭いがする。
不安を掻き立てる。
どこかに何かがある。その確信が強くなっていく。腹部に書いたケヤキの木の下、血、犯人という言葉。
視線をシャベルに向ける。それを手に取ろうと足を前に動かした。
と、足を踏み下ろした時に靴の底から伝わってくる感触に違和感を覚えた。
足をそこから動かすことができない。
何かがある。
そして、それを僕は知っている。
視線を落とす。
唐突に何かが繋ぎ合わされていく。
恐怖、緊張、興奮、色々な感情が身体の中で暴れまわる。
記憶と感情は関係がある。添島栞の言葉が頭の中で反響する。
動悸が激しくなった。
いきなり脳内にある映像が浮かび上がった。地面を掘って下に何かを埋める。そしてそれに土を被せて元に戻す。
なんだ、この記憶は。
身体の中を血ではない何かが勢いよく駆け巡る。
その記憶に突き動かされるように、僕はシャベルを手に取って土を掘った。
異臭が鼻をつく。
何かがある。
先端が固いなにかに当たった。
シャベルを置いて手で土を掻き分ける。
と、指の上を這う何かの感触。ウジだ。
懐中電灯を手に持って照らす。
息をのんだ。
視界が歪んだ。
感情が言葉となって口から破裂しようになるのを懸命にこらえた。
なんで、これが、こんなところに。
目の前の現実を受け入れられない。
僕の視線の先にあったのは、異臭を放ち、いたるところが腐り始めている死体だった。
雨がぽつりと降る。雨滴が地面を濡らしていく。
動悸が激しい。
誰かがここで死んだ。それは間違いない。
じゃあ、誰が? どうして? 誰の手によって?
自分の腹部に書かれたメッセージを思い出す。
犯人。誰かが操作。
だめだ。衝撃で思考が暴れまわっている。
気分が悪くなってきた。
ここにはいられない。
誰にも話せない。今は誰にも知られるわけにはいかない。自分ですら理解できない状況をまだ完全には信頼できていない人たちに話す気にはなれなかった。
土を死体に被せようとする。その時に、背後に気配を感じた。慌てて振り返ると眠たげな目をこする如月が庭に降りてきた。
「あの、大丈夫?」
如月の目が僕に向いたあと、僕の手の下にある死体に向く。目が徐々に見開かれていく。
如月はその場に力が抜け落ちたようにへたり込んだ。
警戒と恐怖の入り交じった瞳が僕を捉える。
何かを言わなければと焦るが喉が張り付いて言葉が出てこない。
如月が震える唇を動かした。
「あなたがやったの?」
彼女が吐いた言葉は強くなった雨粒が地面を強く叩く音にかき消された。
第三章
ぼくが如月朋子に出会ったのは、あの薬のことを知る何年も前のことだった。
団地に住んでいたぼくは兄弟がいなかったので、お母さんはぼくの手を取って公園に連れて行ってくれた。小学生になる前のぼくはとにかくそれが苦痛でしかたがなかった。お母さんがぼくに望むことは周りの子と元気に走り回り、服を泥だらけに汚し、いつも笑顔で溢れていることだった。けれどぼくにとって他者との交流は不安や苦痛を与えるものだった。
いつからそうなったのか、なんのせいでそうなったのかわからないが、ぼくは他人の言葉や反応に恐怖を持っていた。自分の言動が他者の感情に影響を与えることも、他者の言動によって自分の感情が動くことも不安だった。
だからお母さんに公園に連れていかれた時も、いつも隅の方で小石を拾ったり、蟻の行列を眺めたり、みんなが鬼ごっこをしたりするのを黙って遠巻きに眺めていた。
自分と他者を明確に切り離して、離れた場所に自分を置いた。
お母さんが「ほら、みんなと一緒に遊んできな」と言ってもぼくは首を大きく振って決して動かなかった。お母さんのぼくに聞かせるための大きなため息の音を聞くたびに、だから部屋に居させて欲しかったのにと心の中で抗議した。
最初は一緒に遊ぼうと誘ってくれた子たちも、徐々にぼくのことを気に掛けなくなった。ぼくにとってそれは嬉しいことで、遠巻きにみんなが遊んでいるのを見て安心できた。
そんなぼくが興味を抱いたのは、いつも公園の近くの棟の三階の窓からこちらを眺めている少女だった。その子はベランダに出て、柵を両手でつかんで、いつも感情のこもっていない瞳で公園を眺めていた。その存在がぼくを引きつけた。
なんで公園に来ないんだろう。もしかしてぼくと同じで眺めていることが好きな子なのだろうか。彼女はじっと公園を眺めていて、それはぼくが公園に来てから帰るまでずっと同じだった。部屋に入るように言われないんだろうか。それからいつもお母さんに公園に連れられた時は、彼女の姿をじっと眺めていた。
夏のある日、お母さんに手を引かれて買い物から帰っているときにふと視線をその子が住んでいる建物に向けた。すると、彼女が玄関扉に背を預けて立っているのが見えた。外に出ていることに驚いて、遠目からでもわかる違和感に僕の感情は動かされていた。なにかが変だ。子供ながらに感じたその奇妙さは自分の家に帰ったあとも身体の中に残り続けた。お母さんが掃除をして洗濯物を取り込んでいる間も彼女の姿が頭から離れない。
ぼくはその衝動に身体を動かされて、お母さんの目を盗んで外に出た。心臓がどきどきした。いつもはお母さんと一緒に降りる階段を一人で降りて、小走りで彼女の号棟に向かう。時折すれ違う大人が視線を向けてくるが、ぼくは彼女ことで意識が埋め尽くされていた。会ってどうしようとか、なにを話そうかなんてそんなことは考えてない。ただ、会わなければ、そういう切迫感に似たものに襲われていた。
階段を上る。一人で上る階段は大変ですぐに息が切れる。蝉の音が急き立てるように響いている。
ぼくが二階の踊り場から三階を見上げると、横を向いた彼女と目があった。その目が見開く。地べたに蹲って、玄関に寄りかかっている彼女の鼻からは赤い血が垂れていた。
一歩一歩段差を上って彼女に近づいていく。ぼくはしゃがみ込んで彼女と目線を合わせた。
「鼻血出てるよ」そう告げる。
彼女はゆっくりと手を鼻に持ってきて指で拭い、それを見た。
「ほんとだ」
彼女はそこで表情を綻ばせた。屈託のないその笑みと、不自然なほどに釣り合わない赤い液体がぼくの脳裏に染み込んでいく。
お母さんが探しに来てぼくを見つけるまで、ぼくは彼女のそばを離れなかった。なにかを話したわけではない。ただぼくらは隣に座って時間が流れるに身を任せていた。時折彼女が視線を動かすとぼくの目もそれを追いかけて、ぼくが上を見上げれば彼女も上を見た。その時間がどうしようもなくぼくを安心させた。
お母さんは息を切らして階段を上って来てぼくを見つけると両肩をつかんだ。
「ここでなにしてるの?」
ぼくは曖昧に頷く。
お母さんは汗を流しながら戸惑った表情でぼくと彼女を交互に見ると、何かを察した顔になり彼女の家のインターホンを押した。
中から出てきた女性はぼくの母親に何度も頭を下げると彼女の手を引っ張って家の中に入った。
ぼくはお母さんに手を握られて家へと戻っていく。
「どうしたの?」
心配そうなお母さんの声音。けれどぼくはその質問にどうやって答えればいいかわからなかった。
「どうしてあの子のところに行ったの? 来るように呼ばれたの?」
ぼくは首を左右に振る。
「じゃあ、自分で行ったの?」
ぼくは頷く。
「どうして?」
答えられない。なんでだろう。彼女の姿を見た時にそばに行きたくなった。そこが自分がいるべき場所だと思えた。
お母さんは困った顔になる。
家に帰ったあとも質問は続いた。
「外に出るときはお母さんと一緒って言ったでしょ。勝手に外出たらお母さん心配するんだよ」
お母さんはしゃがみ込んで目線をぼくと合わせ、ぼくの両手を強く握って言った。
「あの子のなにが気になったの?」
ぼくは俯いているだけで、どの言葉を使えばちゃんと説明できるのかわからなかった。
お母さんは長く深い息を吐いた。
「あの子のことが好きなの?」
質問の意味を考える。好きってどういうことだろう。あの子のことは知らないし、確かに嫌いじゃないけど、好きだとは思えなかった。
「それじゃあ、あの子と一緒にいて楽しかったの?」
しばらく逡巡したあと、ぼくはゆっくりと頷いた。
「そっか」ようやくお母さんは緊張を解いた顔になる。そしてぼくの頭をそっと撫で、抱きしめた。「あの子と一緒にいたかったんだね」
その夜お父さんとお母さんは何かを真剣に話し合っていた。すべての内容は聞き取れなかったけど、会話の端々にぼくの名前と彼女のことがでてきた。おそらく今日のことを相談しているのだろう。
なにが問題で、なにをよく考えなければいけなかったのかはわからない。けれどお母さんが次の日、「またあの子に会いたい?」と訊いてきた。
今日聞いた彼女の名前を頭の中で反芻する。
如月朋子。
ぼくはゆっくりと、けれど確実に頷いた。
彼女にまた会いたい。
それからお母さんは公園にぼくを連れていく前に彼女の家に寄るようになった。お母さんと如月朋子のお母さんが何かを話し合い、そしてお母さんが如月朋子を預かってぼくと遊べるようにしてくれたのだ。あとから考えれば、それはお母さんにとって簡単なことではなかったはずだ。きっと団地内で如月朋子の家庭事情は少なからず噂になっていただろうし、他人の子供を預かる責任は大きい。けれど、それ以上にお母さんはぼくが他の子どもといることを喜んでいることにほっとしていたのかもしれない。
ぼくたちは公園で一緒に遊んだりした。遊んだと言っても他の子と同じようにかけっこしたり、ボールを蹴ったりすることじゃない。二人でベンチに座ってずっと蝉の声を聴いたりした。たまに蝉が独特な鳴き方をしたときに顔を見合わせて笑った。誰かが走り回って公園の砂利がぐちゃぐちゃになったら二人でしゃがみ込んで地面が綺麗な平らになるように手で砂を払ったりした。
「誰かの表情が変わるのが怖いんだ」
あるときぼくは不意にそう漏らした。なぜだか理由はわからない。けれど、その変化にぼくは恐怖を覚えていた。
「だから、ぼくがなにか言ったり、なにかして、相手がなんか変な顔になるのが嫌だ」
手で砂をいじりながら、彼女がどんな顔をしているのか見ずに、彼女の表情を変えるかもしれない言葉をぼくはこぼし続ける。
俯きながら横目で如月の顔を見る。目があった。困ったような顔をしていたらどうしようと一瞬不安になる。けれど彼女はまた、今までと同じように笑う。その度にぼくの身体の中に温かい物が広がっていく。
安心感。それを感じていた。彼女の言葉や反応には恐怖を覚えなかった。彼女だけがぼくの言葉や態度を正しく認識してくれる気がした。心地よく、救われた気分だった。
世界が模様を変えた。いや、世界は変わっていないが、世界を見ているぼくが変わった。
ぼくは少しずつ笑うようになった。如月も笑顔で話すことが多くなり、声を弾ませたり、元気にはしゃいだりする。
楽しい思い出だ。
ぼくたちは小学生になり、同じ学校に通うようになってもいつも一緒だった。
一年が過ぎ、二年が経過する。
そして時間の経過とともに、ぼくと如月の周りにはゆっくりだけれど確実に不穏な空気が漂いだしていた。
ある日、如月のお母さんが如月を連れてぼくの家に来た。お母さんはぼくと如月を部屋の隅で遊ばせて時々声を震わせながらなにかを話し合っている。
「鼻血出てるよ」
最初に会った時と同じように如月の真っ赤な血が鼻から口元に垂れていたのでぼくはティッシュを差し出した。
「ありがと」如月は笑って鼻をかむ。
ぼくは視線をちらりと如月のお母さんに向けた後に訊ねる。
「大丈夫?」
如月は肩をすぼめて両膝を抱く力を強めた。
「大丈夫だよ」
如月のお母さんが時折感情を高めて声を大きくし、それをぼくのお母さんがなだめているのがわかる。
大丈夫。この言葉にはどんな意味があるのか。如月は大丈夫だと言った。大丈夫と言われたらそれでいいのだろうか。
本当は気づいていた。あの公園で彼女が三階のベランダからこっちをいつも眺めている時から、ぼくはその違和感を受け取っていた。如月が鼻血を出して家の外に出されている時。殴られたような痣があったとき。
それを自分の目で見ていて、感じていたはずなのに、ぼくは如月に何も言うことができなかった。
彼女の大丈夫という言葉がぼくを不安にさせる。けれどその心の動きはこれまでにぼくが感じていた逃げて、遠ざけたい感覚とは違っていた。
最初に出会った時を思い出す。虚ろな瞳で焦点の定まらない視線で遠くを見ていた。彼女には世界がどんな風に見えていたのだろう。自分を拒絶して、苦しめるものに見えていたんじゃないだろうか。居場所がなく、どこにいても疎外されている気分だったんじゃないだろうか。
そうだ。だからこそ。ぼくはその気持ちを持っていた如月のそばにいたいと思ったんだ。
気づいていた。お母さんに連れられて如月の家の扉を開けた時に廊下の奥からこちらを蔑むような視線を送ってくる男がいたことを。そしてその男と彼女が一緒に住んでいることも。
知っていても言わなかったのはなぜだ。ぼくは、せっかく手に入れた如月との世界を誰かに壊されるのを、その危険があることを知りたくなかったからだ。自分の見たいものだけを見ていたかった。
「夏休みももうすぐ終わるね」如月がぽつりと言った。
「うん。そうだね」心の奥底でなにかが騒いでいる。
「これからだんだんと涼しくなるのかな」
「そうかもね」
「そしたら秋になって、そしたら冬になるね」
「うん」
「そしたらさ、もしかしたら今年は雪が降るかもしれないね」
「そうだね」
「そしたらさ。一番高い場所に行って、雪がどこから降ってくるか見てみたいよね」
「うん」自分の声が震えていることに気づいた。
他愛のない内容の会話だ。けどぼくは絶対にその約束を守らなければと思った。彼女が見たい世界を見せてあげたい。
たとえ自分がどんな犠牲を払ったとしても。
ぼくは如月の手をそっと握りしめた。如月が顔を上げる。その表情には力がなかった。
「大丈夫だよ」そう告げた。それは簡単な気持ちで言った言葉ではない。ぼくの覚悟だ。大丈夫。「ぼくが必ず守るから」
如月は項垂れたあと、小さく、けれど強く頷いた。握りしめた手から如月の温度が伝わってくる。
かつてのぼくは自分の言動が他者の感情に影響を与えることも、他者の言動によって自分の感情が動くことも不安だった。けれど今は違った。ぼくは如月の感情を変えたいと願ったし、如月の笑顔でぼくの感情を変えたかった。
これがお母さんが言っていた好きという感情なのだろうか。これが大人になると言うことなのか、成長なのか。この変化をなんと呼べばいいのかぼくは知らなかったが、それでも力強く言葉を吐いた。
「絶対守るから。約束だから。忘れないでね」
その日、如月たちが帰ったあとにすれ違うように帰宅したお父さんは、お母さんと緊張感のある空気で話し合っていた。ぼくは寝る部屋の窓から暗闇が広がっている景色を眺める。決意を固める。それはぼくは生まれて初めて感じた感情だった。誰かのために。如月のために行動する。
お父さんとお母さんの会話の中には、ステップファミリー、本当の父親ではない、再婚するつもりだったがこんな人とは思わなかったなど、その時のぼくには理解ができない言葉を並べていた。けれどもその口調から不穏な空気を感じる。
夕食の時間になる。食欲はあまりなかった。重い空気がリビングを押さえつけているようだ。
「朋子ちゃんって子とは仲がいいのか」
お父さんが唐突にぼくに訊ねた。その顔は優しく微笑んでいる。
ぼくは曖昧に頷く。
「そうか。あの子もなかなか複雑な家庭環境みたいだな」
「ちょっとそんな言い方しなくても」お母さんがたしなめる。
「まあ、あれだ。お前も知っておいた方がいいかもしれないが、他人の家庭の事情にはなかなか口を出せないものだ」
ぼくは黙って箸を置いた。お父さんの言葉はぼくを喜ばせるものではない。
「そんなことこの子に言ってもしょうがないでしょ」
「いや、こいつはまだ小学三年生だが、色んなことに気づき始めてるはずだ」
「そうだとしても」お母さんの続く言葉をお父さんは遮った。
「解決はなかなか難しい。これはな、いまのおれの仕事とも関係しているんだ。資料で見たことがある。単純な問題じゃない。様々な外的要因、さらに加害者が育った環境とか。ここをこうすれば問題がなくなるとか、そういうものじゃない。まあ、だからこそおれの研究所もそういう分野に力を入れ始めたってことだな」
「あなたの仕事の話はいまは関係ないでしょ」お母さんが厳しい声音で言う。
「いや、そうとも言い切れないぞ。この研究が上手くいけば少なくとも負の連鎖を断ち切ることはできる」
ぼくはお父さんをまっすぐ見る。
「お父さんの研究ってなに?」如月を助ける方法がなにかあるのだろうか。
「ん? 気になるのか? 珍しいなお前が質問してくるなんて」お父さんはぼくの頭をがしがしと撫でる。「今の研究のメインはアルツハイマー型認知症だよ。いま老人の人口比率はかなり高くなっている。老人が政治を動かし、老人が投票し、老人が一番利益を得るような社会をつくってるからな。当然老人の方々の心配は自分の身体や精神、つまり脳だ」
「そんな言い方ないでしょ」お母さんは呆れたようにお父さんを見ている。
「まあ、それはいいんだけど、要はアルツハイマー治療の研究に多くの資金が費やされてるってことだな。どうすればボケずにいられるのか。いつまでも記憶を忘れずに若者と同じように思考できるのか。脳に蓄積された情報をスムーズに取り出すためにはどうすればいいのか。脳の様々な部分の機能や関係性、メッセージ物質や、脳だけでなく腸や骨との関係も調べている。老化は不可逆性のものだ。けれど、それを人工的な薬で正常な機能の脳の働きを促進させることができるようになる」
よくわからなかった。けれどぼくは真剣に聞き続けた。
「今はな。アルツハイマーの研究と関連して、政府の要請でPTSDの研究も立ち上がった。少人数のチームだし、実際実用化されるかは不明だが、人を苦しめる記憶を消して未来に向かって一歩を踏み出せる薬を開発している。悪い記憶を根こそぎなくすか、悪い記憶を思い出してもそれに感情が影響を受けないようにするか、まだいくつもの方法を選定しているレベルらしいけど、もう動物実験も行われている」
「そんなに難しい話をこの子にしてもあなたの自己満足になるだけよ」お母さんは呆れたような顔をしている。
確かにあの頃のぼくには全く理解できない知識だった。
「まっ、ようはお前も何かを思い出そうとするときに考えるだろ? その時の身体の中には変化が起こっている。その変化を人為的に起こせれば年配者に役立って、人為的に起こさなくすれば忘れたい過去がある人に役立つってことだな」
「その薬ってどこにあるの?」
ぼくの質問にお父さんは驚いた顔になる。
「なんだ? 飲みたいのか? 残念だけどまだ薬は完成してない。これから徐々に治験とかそういうのを挟んでいってからだろうな」
如月の辛い過去を消し去って、いつも笑っていて欲しい。
その薬ができれば彼女を救えるのだろうか。
でも、その薬はまだ完成していない。だから、ぼくが。ぼくが動くしかないんだ。
次の日。決意がまだ身体の中で燃えているうちにぼくは如月朋子の家に向かった。彼女に渡したいものがあった。それはぼくが一番好きな飴だった。可愛い包装に苺やオレンジ、レモンの味。お母さんは一カ月に一度ぼくにこの飴を買ってくれる。一袋に十五個しか入っていない飴をぼくはいつも夜空の星を見上げるときに口の中で転がしていた。飴を舐めながら星を見ていると、なんだか自分の視界に甘い香りが広がっていく気がした。
大好きな飴だった。だから彼女にあげようと思った。
三階まで上ってインターホンを押す。数秒待って如月の声が聞こえた。ぼくが自分の名前を告げると如月はドアを開けた。
「どうしたの? 一人なの? 公園今は行けないよ」如月はラフなシャツと短パン姿だった。そして鼻からまた血を垂らしていた。
心臓が引き締まる感覚。
「あの。これあげる。美味しいから」
ぼくは飴が入った袋を差し出す。
如月が目を丸くする。「わたしにくれるの?」
ぼくは頷く。
彼女はぼくと飴の袋を交互に見た後、「ありがとう」と笑った。「大切に食べるね」
「おい! さっさと扉閉めろ」背後から語気の強い男の声がする。「無駄に話すな」
如月は肩越しに廊下の奥の様子を窺ったあとに、「また一緒に公園行こうね」と扉を閉めようとした。
ぼくは思わず手を伸ばして扉を握った。このまま彼女を家に放っておいたら今までのぼくと変わらない。
彼女はぼくがあげた飴をぎゅっと握りしめて訊ねる。
「どうしたの?」
ぼくは扉を大きく開ける。
戸惑っている如月を意に介さず、ぼくは言葉を吐いた。
「あの。もうやめてもらえますか?」
男が奥で顔だけ出してぼくを見る。昆虫や鳥の目とも違う濁った眼だ。なにを考えて、なんで苛立ったような表情をしているんだろう。ぼくはじっと男を観察する。そして如月朋子を見る。彼女とぼくの世界を壊そうとするなんて間違っている。きっと間違っていることを知らないだろうから、伝える必要があるんだあの男の人に。
男は立ち上がると威嚇するような足取りでこちらに近づいてきた。
如月の肩が小刻みに震え始める。ぼくはそれを一瞥して男を見据える。
手を触れれば届く距離に男は立った。
「ああ。なんだ。ときどきこいつを連れてく餓鬼か。用が済んだならさっさと帰れ」そう言って投げやりに手を払う。
さっきの言葉を理解してくれなかったんだろうか。ぼくは息を吸い込んでもう一度丁寧に話す。
「もう怒るのもやめてください。殴るのもだめです。公園にも行かせてあげてください。外に立たせないでください」一度如月を見る。「鼻血は出たら痛いんです。だから、もうしないでください」
男は最初呆けたような顔をした。その顔が徐々に歪んでいく。息が荒い。整えられていない髭に囲まれた唇が震えていく。顔が赤みを帯びていく。
「お前、ふざけるな!」男の言葉の途中で何かを察した如月が身体を動かそうとしたら、男はそれを意に介さずに拳を握ってぼくの顔面目掛けて振りぬいた。
視界が突然歪んで変わる。天井を見上げたと思ったら、気づいたら地面を見ていた。遅れて痺れるような痛みが鼻の奥から顔に広がっていく。視界が滲む。身体を動かそうとするが固まっていて思うように動けない。
「餓鬼が、家に帰って寝てろ!」男の怒鳴り声が遠くの方から聞こえる。
近くの扉が開いて誰かが出てきた。何かを男と言い合っている。世界から音が徐々に消えていく。震える手を動かして鼻に触れた。赤く粘り気のあるものが指につく。ぼくはかすかに笑った。「ほら。やっぱり痛い」
ぼくはいつの間にかぼくと他人で区切るのでなく、如月を含めたぼくたちという単位で考えて、そこに他人が干渉することに不安を覚えるようになっていたんだ。
遠くの方からパトカーのサイレンが聞こえる。視界の中で如月が心配そうな顔で何かを言っているが聞き取れない。視界が徐々に小さくなって、最後には黒で覆いつくされた。
目が覚めると白い天井が見えた。意識が覚醒していく。息をすると鼻がずきずきと傷んだ。近くでお母さんが赤い目でぼくを見る。
そっと頭を撫でられて、お母さんの涙がぼくの頬をつたった。
「大丈夫。なにも心配しなくていいのよ」そう言って疲れた顔で微笑んだ。
視線を巡らせる。
彼女はどうなったんだろう。
ぼくは如月を守ることができたのだろうか。
彼女はどこにいるのだろう。
「お母さん」思った以上に声がかすれていた。
「ん?」お母さんが耳をぼくの口に近づける。
「あの子はどうなったの?」
ぼくの問いに頷きで返す。
「大丈夫。大丈夫だから。もう怖いことはなにも起こらないよ」
何度も何度もぼくの髪を撫でる。
怖いことってなんだろう。ぼくに恐怖を与えるもの。ぼくを恐れさせたのは如月がいなくなること。すでに知ってしまった。如月の隣に座る心地よさを。世界の中でそこだけに温度があった。それを失った世界をもう想像できない。そのほかのことなんてぼくにとっては些細なことだ。
大丈夫。ぼくはきっと彼女を守ることができる。
そう思ったのに、ぼくはそれ以降如月朋子に会うことはできなかった。
退院したあとに如月の家に行ったがすでに誰も住んでいなかった。お父さんに訊いても、お母さんに訊いても「もう忘れなさい」と言われるだけだった。後から聞いた話では、あの時ぼくを殴った男を見て近所の人はすぐに警察に連絡を入れた。当然男は捕まり、ぼくのお父さんとお母さんも男のしたことを許さなかった。そしてぼくが如月と関わり続けることもお父さんたちにとっては心を落ち着かせるものではなかった。
如月たちはどこかに引っ越してしまった。
ぼくの世界はまた色褪せていく。一度色づいてしまったぶん、その反動は大きかった。
時間は誰の感情も要望も考慮せずに淡々と過ぎ去っていく。
中学一年生になった。服装が私服から制服に変わっただけで何も変化はない。独りで学校に行き、独りで授業を受け、独りでご飯を食べて、独りで帰る。クラスメイトが一日前にユーチューブを見て覚えたであろう悪口を吐いて喜んでいる。スマートフォンで得た偽りの理想の学生生活と自分の生活を比較して嘆いている人たち。みんなが何かに怯え、それを隠すように周りの人たちを怯えさせていた。
気持ち悪い。ずっとなにかの悪い映像を見させられている気分だ。
インターネット上から得た言葉のナイフを見よう見まねで振って周りの人間を傷つける。
ぼくは下を見ることが多くなった。目に映る情報を少なくしたかった。
そして中学一年生の夏休み。ぼくは毎日家の中で過ごしていた。
いつもと変わらない。自分の家庭が徐々に崩壊していく様子をただ眺めていた。
「ちょっと! どういうことなのよ!」
お母さんがお父さんに怒鳴り散らす。
「おれだって何が何だかわからないよ! おれはなにもしてない。なにも関わってないんだ。けど、気づいたら全部おれのせいにされて」
「ちゃんと説明すれば。証明すればいいじゃない!」
「そんなのおれだってやったさ。けど、出てくる資料はなぜか全部おれのせいになってる」
お母さんは言葉を失う。「なんでこんなことになるのよ」前髪を力なく握りしめる。
「あいつだよ。あいつが全部自分がやったことをおれのせいに改竄してなすりつけたんだ。治験がなかなか進まないからって、勝手に開発中の薬で人体実験しやがった」
「あいつって誰よ?」お母さんがお父さんを見る。
お父さんは恨めしそうにその人物の名前を言った。
お母さんは悔しそうに泣き出す。「けど、あなたはこんなに頑張ってきたのに、これで終わりなんて。そんなひどいことがあっていいの」
お父さんはその言葉に返事をせずに、ただ溢れ出る怒りを拳を握る力に込めていた。
そしてその日から家の中が変わってしまった。
崩壊はいつだってぼくらの背後にいて、気づいた時には手遅れになってるんだ。
お父さんはぼくの夏休みと同じようにずっと家の中にいた。服も着替えずに、ただ呆然とテレビを眺めてお母さんがつくったご飯を食べて寝る。
お父さんの家での態度が徐々に変わっていった。苛立って声を荒げることが多くなる。
お母さんとお父さんは口論することが増えた。
お母さんがなにを言ってもお父さんは家の中にずっといた。
次第にお母さんもずっと同じ服を着るようになった。洗濯も料理も掃除もやめて朝からお酒を飲むようになった。家に運ばれてくるラーメンや缶詰、お弁当などを食べては、そのゴミを家の中にためていく。
ぼくはただそれを眺めていた。
家の中は目に見えて変わっていく。
埃っぽくなっていき、ゴミが溜まっていき、洋服は洗濯されずにそこら中に散らばり、食器は洗われずにシンクに溜まっていく。
そしてその状況に耐えられなくなったのか、今度はお父さんは汚い格好で家から出るようになった。お昼ごろに出て夜遅くまで帰ってこない。
夏休みが終わってもぼくは学校に行かなかった。お父さんもお母さんもぼくなんて見えていないように生活している。ぼくもその方が気が楽だった。
この状態がずっと続くのかと思った。けれど違ったんだ。一度悪い方向へ転んだら、どこまでも落ちていくしかない。
家族を崩壊させる一通の手紙が届いた。
借金の催促状。
お母さんは愕然とした顔でその封筒を開いた。それから何通も届いた催促状に書かれた金額はお母さんを発狂させるのに十分すぎるものだった。
お父さんとお母さんは顔を合わせるたびにお互いの苛立ちと失望をぶつけ合った。
「いったいどうしてこんな借金してんのよ!」
「しょうがないだろ! おれだってやめたいけど、自分じゃどうすることもできないんだよ!」
「ギャンブルにハマるなんて、ほんと、どうしようもないわね」お母さんは吐き捨てるように言う。
「こっちはストレス溜まってんだよ! 何かで発散させなきゃいっぱいいっぱいなんだ!」
見えているものが音をたてて崩れていく。
ぼくは時折ベランダに出て夜空を眺める。昔よく舐めていた飴はもうここにはない。月の光が家の中に差し込む。
ぼくは耳をつぶって背後で交わされるお父さんとお母さんのののしり合いを聞いていた。
現実は悪化する一方だった。
借金の催促に玄関の扉を乱暴に打ちたたいて大声で罵る人が現れた。
近所の人からも文句を言われた。
お父さんもお母さんも衰弱しきって、顔を合わせても喧嘩をする力すら失っていった。
そしてある時それは不意に訪れる。
ぼくがいつものように部屋の隅にいたら絞り出すような息が聞こえた。呻くような、嘆くような、潰れたような今まで聞いたことがない呼吸音に身の毛がよだつ。
でも、その絞り出すような声の主が助けを求めているように聞こえて、ぼくは震える足を懸命に動かして傍に寄っていった。
台所から聞こえる。
一歩一歩近づく。
激しく乱れた息遣い。
ぼくは目を見開いた。
お父さんがお母さんに馬乗りになり、その首を絞めていた。お母さんの手が力を無くして床に落ちる。
お父さんは首をよじってぼくを認めた。その眼は光を無くし、泥水に浸かったかのように濁っている。徐々にぼくに近づいてくる。ぼくはその場から一歩も動くことができない。
お父さんが両手をぼくの首へと伸ばす。
と、その時に突然扉を乱暴に開けようとする音が響いた。
「いるのはわかってんだよ! 今日こそ貸したお金返してもらいますよ」
がちゃがちゃと鍵を弄る音。錠が回る。扉がゆっくりと開く。
お父さんは慌ててベランダに出た。そしてぼくの顔を見ると申し訳なさそうにその身を五階から投げ出した。
誰かが家に踏み入ってくる。
外で何かが地面に叩きつけられて潰れる鈍い音がした。
それから先のことはよく覚えていない。
一人の男の人が、お金のことも他にぼくが必要としていることもすべて処理してくれたようだ。そしてその人は子供は一人で生きていけないからとぼくを新しい家に連れてきた。
なぜそこまでしてくれるのかぼくにはわからなかったが、男の人は何度も何度もぼくに謝って親切にしてくれた。
車に乗せられてどこかに向かう途中に考えていた。お父さんが言っていた薬はどこにあるんだろう。如月がいなくなったあの日からぼくの身体は空っぽだった。あの薬が完成していたらぼくも、如月も、お父さんもお母さんも幸せになれたのだろうか。
第四章
雷鳴を伴って激しい光が弾け、ケヤキの木の下に埋められていた死体を照らした。
「違う」僕は警戒と恐怖の入り混じった視線を向けてくる如月に向かって言った。「僕じゃない」
否定をしようと如月に近づいて手を伸ばした。
途端に如月の瞳に恐怖の色が濃くなり、肩が小刻みに震えだした。
「やめて。近寄らないで」
如月は地面にへたり込んだまま必死に僕から離れようと身体を引きずり家の中に戻ろうと逃げる。
雨が強くなる。再び光が破裂するように降った、遅れて雷の音が届く。
「僕は何もしてない。このケヤキの木の下に来た時に、ここにすでにあったんだ」
信じてくれ。そんな目で僕を見ないでくれ。
僕は懇願しながら如月との距離を詰める。
と、如月の中の何かの限界が超えたかのように、小さな口から張り裂けるような悲鳴が爆発した。
雨音をかき消すようなその悲鳴は辺り一帯を震わせた。
一瞬遅れて二階から階段を駆け下りてくる音がする。
「どうしたの!?」
石黒がリビングに飛び出てきて如月と僕を見た後に僕の足元にある物体に目を止めた。息をのむ気配がする。
「どうしましたか? なにかあったんですか?」添島がそれに続いてリビングに来る。同じように庭の状況を把握して、身体を強張らせる。「これは」
竜崎も現れて唇を強く引き結ぶ。
勢いが増していく雨滴が僕を強く打ちつける。
「それは、なんですか?」添島の声は震えていた。「何かがそこにありますよね?」
雨が強くなり視界を奪っていく。
「それ、まさか人間じゃないよね?」石黒は顔をしかめる。
僕は視線を落とす。これはなんだ。人間。いや、人間だったもの。
「ここに、埋められていた」僕は投げやりに声を張り上げた。
「なにが?」石黒が顔をしかめる。
気持ち悪い。今さら喉元にせりあがってくる感覚があった。何も答えられない。僕はそのまま衝動を抑えることなく胃の中のものを吐き出した。何度も何度もえずき、涙も涎も垂れるがままにした。喉に刺激が残る。雨音が急き立てるように僕の鼓膜を叩く。
「とりあえず話し合いましょう」
その添島のその言葉に石黒は庭に降りて、如月の身体を支えながらダイニングに戻った。僕も身体の向きを変えて、顔を背けるように死体から離れた。
ダイニングの床が濡れる。僕と如月はバスタオルを頭から被って、けれども吸収しきれない水気を滴らせていた。
どういうことなんだ。項垂れて思考を巡らせる。
ケヤキの木の下。
血の臭い。
誰かが操作している。
犯人は誰だ。
腹部に書かれていたそれらの言葉を手掛かりに調べたら、庭に死体が埋まっていた。あれはなんだ。僕らの記憶が失われていることと関係しているのか。犯人。もしかして殺した人間はこの中にいるのか。
「なにが、どうなってるんだよ」石黒は苛立ったようにあっちに行ったりこっちに行ったりしている。
如月はソファーに座り両手を組み合わせて身体を震わせていた。その隣に添島栞が如月の背中を撫でている。
石黒は窓に近づいて暗闇の中目を凝らしている。
「あれって、死体じゃないのか」その声は焦りや不安の色が混じっている。
僕はしばらく間を置いて答えた。
「たぶん。そうだよ」
「たぶんってなんだよ」石黒が詰め寄ってくる。
「暗かったし、驚いてちゃんと見ることができなかったから」
添島栞はなにかを思案している表情になっている。そしてぽつりと言った。
「あれって旗手茂なんでしょうか?」
その言葉に視線が添島に集まる。
「どういうこと?」石黒が訊ねる。
「この家の住人はおそらく郵便物からも旗手茂という方ですよね。その人は私たちが目を覚ました朝から今までこの家に帰ってこない。そして庭に死体があるということは、旗手茂である可能性が高いと思います」
「そうだとしたら、どういうこと?」石黒がすがるように添島に質問する。
「埋められていたということは、自殺や事故ではないと思います。いや、自殺や事故の可能性もありますが、それを庭に埋めた誰かがいます。そして冷静に今ある情報だけをもとに考えれば、それをしたのは私たちの中の誰か、もしくは私たちが協力して行った可能性があります」
「な」石黒は大きく狼狽したような声を出す。「なんでそうなるのよ。たまたまあたしたちがここにいたってこともあるでしょ? もしくは誰かが、その、あれを庭に埋めて、そのあと記憶がないあたしたちをここに連れてきたかもしれないじゃない」
添島はじっと石黒を見る。「その可能性もあります」
ふと違和感に気づいて視線を動かした。
竜崎が添島を見ている。その視線が何かを疑うような警戒するようなものだった。
竜崎は立ち上がってキッチンの方に行く。
「というか。なんであんたはあそこで死体を見つけたわけ?」石黒の意識が僕に向かう。
僕は黙って俯いた。
「答えないと、あたしの中であんたに対する疑念がどんどん大きくなってくけど」
「僕は何も知らない。何もしてない」振り絞るように言った。
「なら、なんであの場所にいたのよ? おかしいでしょ? この時間に庭に出る必要なんてないでしょ?」
「それは」自分の身体にあの場所に何かがあるというメッセージが残されていた。そう言いたかったが言えなかった。
自分の腹部に書かれていた文字。
ケヤキの木の下。血の臭い。誰かが操作している。犯人は誰だ。
他の人の目に入らないようにと服で隠れた部分に書かれた、切迫した雰囲気を滲ませた文字。
あきらかにあの文字を書いたときの僕は目の前にいる4人を信じていなかった。いや、むしろ疑っていたはずだ。
そして実際にあの文字に書かれたことは事実だった。少なくともケヤキの木の下に死体が存在した。記憶を無くす前の僕が、今の僕にだけ伝えたかった情報。
それなら、いまこの場でその事実を明かすのは以前の僕の意図を裏切ることになるんじゃないか。
目の前で僕に疑いの視線を向ける石黒こそがこの状況を仕組んでいる張本人である可能性もあるのだ。
「なにか言いなよ」
「僕は何も知らない。あの場所を見た時に変な違和感があって、それを確かめに行っただけだ」僕は真剣な顔で嘘を吐く。
「そんなの信じられると思う? なにか隠してるようにしか見えないんだけど」
「僕だって記憶がないんだ。全員何も覚えてないんだから、隠すなんてことできない」
石黒は納得ができないという顔をしていたが、それ以上追及してくることはなかった。
そうだ。全員記憶がないんだから、こんな議論しても進展するはずがない。
「あなたは何で庭に出てたの?」石黒が如月に訊ねた。
如月はゆっくりと息を整えながら答える。
「わたしは寝ようと思ってたら物音がして、それでなにかと思ってこっちに来たら人が動いてるのが見えて、それで」声は徐々にか細くなって消えていった。
不安。恐怖。警戒。緊張。それぞれの色々な感情が絡み合って重く固い空気が辺りを満たしていた。
誰も何も喋れない。
竜崎が戻ってきた。手にはコップが握られている。
「雨に濡れて寒いだろうから」
竜崎はそれらをテーブルに並べる。五つのココア。全員椅子に座ってテーブルを囲った。
如月がコップを手に取って口に運ぶ。
「おいしい」
僕はじっと茶色い液体を眺めていた。
誰もなにも言い出せない。以前の記憶は誰にもないのだ。自分があの死体とどんな関係があるのか、いまどうすればいいのか明確な答えを知っている人はいない。
自分が何者なのか。これまでどこで何をしてきたのか。
それすら思い出すことができないのに、自分が殺人を犯したはずはないという確信と記憶を見つけ出すなんてことができるわけがない。
僕は唇を強く噛んで項垂れる。
なんだよ。なにが起こってる。どうすればいいんだ。
あの死体はいったい何なんだ。誰なんだ。どうしてあそこに隠してあった。誰がやったんだ。
どうしてそれを思い出すことができないんだ。
僕は頭を抱える。
重く冷たい空気が僕らを押し潰そうとしているかのように息苦しい。
如月を見る。彼女を怯えさせてしまったのは僕の責任だ。奥歯を強く噛む。
雨音だけが静かに空気を震わせる。
死体がある場所に記憶がない人間が五人いる。
この異常な状況において、次に取るべき行動がわからないでいた。
誰もなぜこの場所で五人で生活することになったのか知らない。ここに来る前はどこで何をしていたのか。なぜ薬を飲むことになったのか。どうして庭に死体が埋められているのか知っている人はいない。
と、その時鋭い何かが頭の中を貫いた。
全員。記憶がない。
どうして僕は全員の記憶がなくなっていると信じているんだ。
誰かが操作している。
視線を全員に走らせる。
なぜ僕は全員の記憶がなくなっていると思ったのか。それは全員がそう自己申告したからだ。実際のことはわかるわけがない。
もし仮にこの中に犯人がいて、そいつが死体をケヤキの木の下に隠して、そして他の四人の、もしかしたら殺人にかかわる何かを知ってるであろう四人の記憶を消したのだとしたらどうだろう。そいつは自らも薬を飲むだろうか。いや、飲むはずがない。自分以外の人間に飲ませて、自分は記憶を保ったままその状況を管理、観察するはずだ。
この仮定が正しいとするなら、そいつは今もすべての記憶を所持して、すべての事実を知って素知らぬ顔でこの場にいることになる。
それはなぜだろう。
他の四人に殺人の瞬間を見られて、その記憶を消すために飲ませたのだろうか。なぜ薬を飲ませたのか。一人を殺したなら他の四人も殺せるんじゃないのか。
何か意図があるのだろうか。
もしかして、四人の中の誰かにこの殺人の罪を着せようとしているのかもしれない。記憶がないのだ。上手く操作できれば自分の殺人の罪を別の誰かのせいにすることができるかもしれない。
だとすると今の僕の状況は犯人の思惑通りなのだろうか。策略にはまってしまったんだろうか。
もしそうだとしたら、犯人はだれだろう。
誰がこの状況をつくりだしたんだ。
そこで思い至る。視線を如月朋子に向ける。僕の身体に書かれた名前。そして死体を発見した時にそれを見て、みんなにそれを知らせた人物。
彼女は怯えたようにココアを口にした。
もしかして、彼女がこの状況をつくりだした、殺人を犯した人物なんじゃないだろうか。
口の中が渇いた。
ココアを飲もうとマグカップに手を伸ばす。けれどその手は何も握らずに力なく垂れた。
視線を感じる。見ると竜崎が嫌悪感の滲む目で僕を見ていた。背筋を冷たいものが走る。なんだよ。僕に疑いの視線を向けて犯人に仕立て上げようとしているのか。
「なんとなく気になったぐらいで夜中に庭に出て木の下を掘るなんてありえない」石黒はなおも僕に疑惑の視線を向けてくる。「今のところあんたが一番怪しい。何かを絶対に隠している」
僕は押し黙る。もしかしてこの会話も石黒が僕に罪をなすりつけるためにしているのだろうか。
意識的に呼吸を遅くして身体を落ち着かせる。石黒の言葉を放っておいて、まずは今の状況を冷静にもう一度分析してみよう。
ケヤキの木の下。
血の臭い。
誰かが操作している。
犯人は誰だ。
そして、如月朋子。
実際にケヤキの木の下に死体があった。可能性として考えられるのが、その犯人が如月朋子だということ。けれど、もしも腹部にその文字を書いた時に如月朋子が犯人であると確信していたら、記憶が消える前に何かしらの行動に出ているはずだ。そうでなくても如月朋子が犯人だとわかりやすく書くはず。そうしなかったということは、まだ確信が持てなかったのか。それとも他の要素があったのか。
それに血の臭いはどういう意味だ。死体と書かずに血の臭いと書いたということは、まだ死体を見つけてなく血の臭いがして、何かしらがあると疑っていたんじゃないか。
とすると、この状況になって初めて僕は死体を発見したのだろうか。
いや死体のことだけでない。異様に物が少ない家。リビングの割れた窓。旗手茂。女の子の子供部屋のような部屋。タブレットに保存された写真と映像。それらはすべて関係があるはずなんだ。
誰が運転するのかわからない外に停められた赤いミニバン。
仮にあの死体が添島が仮定をたてたように旗手茂だとしたら、それを犯人が殺して埋めて、僕らの記憶を消して犯人に仕立て上げようとしている。その推測が答えに近い気がした。
五人全員であの死体を協力して埋めたとするなら、記憶を消す意味がない。むしろ危険が増すだけで利益がなにもない。
もしくは、この中に犯人がいて、そいつはもともと僕らと知り合いではなかった。四人が旗手茂と生活していて、侵入者である犯人が旗手茂を殺して、あたかも僕らの知り合いのように振る舞う。いや、それだと僕が見たタブレットの中の写真と映像に説明ができない。
かぶりを振る。
駄目だ。考えても考えても記憶がないから、解答に向かう道筋が見えない。
「トイレに行ってきます」添島栞はそう言って立ち上がってダイニングから出て行った。添島が口をつけなかったココアから湯気が上がっている。
見ると如月朋子は今にも眠りに落ちそうな顔をしている。今日一日で疲れがたまったのだろう。
石黒はココアを飲んだ後に意を決したような表情になる。
「警察に言おう」石黒が立ち上がって言った。「このままじゃどうしようもない。警察に、あとはよくわかんないけど救急車にも来てもらおう」
雨音が不安を駆り立てるなか、石黒の言葉には力がこもっていた。
「そうだね」僕も同意する。「それが一番いいと思う。調べてもらおう。僕たちのことも、あの死体のことも、この家のことも」それが一番安全で、正しいはずだ。「もしかしたら僕たちが何か間違いをしてしまった可能性もある。けど、それでも、いやむしろそうならなおさら警察に言うべきだ。例え僕があの死体に関わっていたとしても、それを忘れてなかったことにするのは間違っている。連絡して、すべてを正してもらおう」
「あんたが犯人の可能性は高いけど、あんたにしてはいいことを言ったよ」石黒もそう言って同意する。気持ちが少し前向きになったのか、強張っていた顔がわずかに綻んだ。
と、鈍い音がする。見ると如月がテーブルに突っ伏して意識を失っていた。相当疲れていたのだろう。
「あれ。なんだこれ」石黒もそう言いながら頭を抱えて項垂れる。「なんか、眩暈が」そう言ってテーブルにくずおれた。
身体が倒れた音の後に、不気味な静寂が一瞬にして辺りを包み込む。
マグカップが倒れて、助けを求めて手を伸ばすようにココアがテーブルに広がっていく。
それをじっと眺めながら身体の中にある感覚が広がっていく。視線を茶色い液体から石黒、そして如月に移す。違和感。おかしい。疲れているからって急に意識がなくなるはずがない。会話をしている途中で強制的に身体の機能を奪われたかのようだった。
自分が目覚めた時のことを思い出す。意識が覚醒していき、それとともに脳から抜け落ちたものを認識し始める。自分が記憶を失ったことに気づいたのは睡眠状態が終わった時だ。
睡眠。記憶の喪失。薬。
もしも他の人に記憶を消す薬を飲ませるなら、無理やり飲ませるか、それとも何か食べ物か飲み物に混ぜて気づかれないように飲ませるだろう。
ココアを見る。そしてその視線をもたげた。
「飲みなよ」竜崎が冷たく言い放った。
その言葉に身の毛がよだつ。
まさか。僕らの記憶を消して、操作をしている犯人は。
喉が渇き、唾を飲み込んだ振動が身体を震わせる。
「ココアに何を混ぜたの?」自分が絞り出した声はかすれていた。
「なにも」竜崎は淡々と答える。「体冷えるでしょ? 温めた方がいいよ」その声は緊迫した空気に似つかわしくないようにどこか楽しんでいるようだった。
僕は目で如月と石黒を示す。
それに答えるように竜崎が口を開く。
「疲れてたんだよ。記憶がなくなった不安もあっただろうし、緊張感や恐れもあったんだよ」
「そういう反応には見えなかった。急に、それを飲んで少ししたら倒れたんだ」
竜崎は押し黙り、視線を僕に据える。僕もじっと見返す。
今得た情報が繋ぎ合わさっていく。竜崎が僕らに記憶が消える薬を飲ませようとした。いや、実際に如月と石黒に飲ませたんだ。それはこの状況が竜崎の望むものではなかったから。死体を発見し、それを僕らが騒ぎ立てることが計画と反していたからだろうか。
いや、でも僕らに罪を着せることが目的なら、いつかは死体を晒す必要があるんじゃないか。また僕らの記憶を消そうとしたと言うことは、竜崎にとってはこのまま僕らが何も思い出せず、何も知らず、何の行動も起こせないことが理想なのだろうか。
そうだとしたら、その目的はなんだ。
「君はココアの中に記憶を消す薬を混ぜた。そしてそれを僕らに飲ませた」一語一語振り絞るように僕は吐く「それは君があの死体を埋めて、僕らがそれに関わっていて、その記憶を消そうとしてるの?」
竜崎はかぶりを振った。「くだらない」嘲るように笑う。
「そう言うならこれを飲んでよ」僕はココアの入ったマグカップを乱暴に手に取って、竜崎の前のテーブルに叩きつけた。ココアが飛び散る。
竜崎はしばらく言葉を発しなかった。と、不意に呆れたように声を出して笑い始めた。
「ほんと。よく言うよ」蔑むような眼で僕を見る。「自分がしてきたことを忘れてこっちを悪者にしようとするんだから」
「どういうこと?」
「全部間違ってるよ」竜崎はそう言ってその場から離れた。そして数秒後にタブレット端末と錠剤の入った瓶を持ってきた。息を飲む。僕の部屋に置かれていたものだ。竜崎はタブレットをテーブルに置いて僕の方へと滑らせた。動画が再生される。
僕、森谷健一の自信に溢れた声が空気を震わせる。
「この薬を飲めば絶対にみんなが幸せになれる。疑いとか、そういう過去が終わるんだ! これが僕らを傷つけるなんて、不幸にするなんてことは絶対にありえない。だから、みんな一緒に飲もう! 毎日飲んだっていいくらいだ。誰の言葉を信じればいいかは明白じゃないか。とにかく。今からみんなでこの薬を飲もう! 絶対に大丈夫だ」
自分の声が鼓膜を震わせ胸が苦しくなる。
竜崎が言葉を吐く。「誰がこの状況を作り出したかは一目瞭然だよ」
「知らない」僕はかぶりを振った。覚えてない。記憶がないんだ。
「こんな酷いことをして、せめてその自覚だけは持ってほしかった」
「僕が何をしたっていうのさ?」
「自分がこの状況を作り出して、周りの人間を傷つけて悲しませてきたのに、しらばっくれようとするんだから笑えてくるよ」
「いきなりなにを言ってるのさ」強く反論したいのに声の震えを抑えることができない。
僕がこの状況を作り出した張本人だと言わんばかりの竜崎の物言いに困惑する。視線が泳ぐ。
「とぼけるなら教えてあげるよ」竜崎が嘲るように笑う。「こっちは彼女をずっと昔から知っていた。小さい頃から彼女のそばにいたんだ」
何も返せない。竜崎の続く言葉を聞いたら自分と言う存在が破壊されてしまうんじゃないかという予感がある。聞きたくない。知りたくない。けれども、抵抗することもできずに僕は竜崎の言葉を浴びる。
「初めてお互いを認識したのは団地にあった公園だった。その時に感じたんだ。彼女と自分の感覚が、見えている世界が同じだった」
やめてくれ。自分でも理由がわからないがそう叫びたくなった。けれど口から漏れるのはか細い息だけだった。
どういうことだ。なんで竜崎はいま如月との思い出を話しているんだ。その思い出があるということは竜崎の記憶が消えていない証拠じゃないか。竜崎が僕らの記憶を操作した。そう結論付けていいはずなのに、竜崎の主張はそれを許さない。僕に元凶があるかのような物言いだ。
竜崎はせせら笑うように表情を崩して喋る。「大切な時間だった。世界だった。彼女を守りたいと願った。決めた。けど、できなかった。子供だったから。それからしばらくの間、如月朋子と会うことができなくなった。でも、再会できたんだ。親がいない子供を預かるファミリーホームでね。再会を喜んだ。今度こそ絶対に彼女を守ると決めた。会えなかった時間を取り戻すように一緒に過ごした。そう、君が、お前がこの薬を持って現れるまでは幸せだったんだ」
「どういうこと?」自分の口から出た言葉は悲しくなるほど震えて小さかった。
竜崎は心底不愉快そうに言う。「お前は嘘つきだ。みんなに嘘をついて記憶を消した。羨ましかったんだろ?」竜崎の声が荒くなっていく。「みんなに疎まれていた自分が、過去の楽しい思い出を持っていない自分が嫌だった。だから、持っている人たちの記憶を消して、自分をそこに紛れ込ませようとしたんだ。嘘をついて」
「違う。そんなわけない」否定しないと自分がそのまま崩れてしまいそうだった。「僕はそんなことしてない」自分を守るためにそう言うしかなかった。
「いや。そうなんだよ。最後まで聞いて、すべて真実を受け入れろ。お前はみんなの記憶を消した。そしてこの家を使って新しい生活を始めようとあの男を殺した」と竜崎は庭を一瞥する。「そして男がしていた家庭菜園を素知らぬ顔で育て続け、生活に必要なものを買い足した」
目に熱いものがこみ上げてくる。もう聞きたくない。
「でも、だったらそのココアは?」
「そうしなきゃ殺すって言っただろ? お前のココアには何も入ってないよ。周りの人間が騒ぎ出したらこの薬を飲ませろって言ったじゃないか。覚えてるんだろ? なんで忘れたふりしてんだよ」
僕は視線を落とした。目をきつくつぶる。そうなのだろうか。僕がこの状況を作り出し、みんなの記憶を消した。そして如月と竜崎の思い出や絆を壊した。みんなを脅して、自分の欲望のままに行動した。それこそがあのタブレットに残っていた映像なのだろうか。じゃあなんで僕の記憶がないんだ。これも僕自身が望んだことなのか。なんで自分でこの状況を作り出しておいて自分で犯人捜しをしていたんだ。何かの計画ミスが生じて記憶が消えてしまったのだろうか。
意味が分からない。頭蓋骨の中を無理やりかき混ぜられているような不快感。
乱暴に自分の髪の毛を掴んで頭を振る。
「それももう終わりだよ」投げやりな竜崎の声音。
視線が合う。
「さっき添島栞がこの家を出て行った。きっと警察を呼びに行ったんだ。電話では来てもらえないから直接言いに行った。すぐに戻ってくる。そしたら全部終わりだ」竜崎は声を出して笑った。「最後にその顔を見れてよかったよ。その辛そうで苦しんだ顔をさ」
竜崎の声が徐々に遠くなっていく。意識が違う方向に向かう。
僕が犯人。僕が犯人なのか。そう言われても全く実感がわかない。自分がそんなことをする人間とは思えない。いや、それもこれも記憶を失っているから自覚が生まれないのか。両手をもちあげて見る。この手でそんな酷いことをしたんだろうか。誰かの命を奪い。みんなの記憶を奪ったのだろうか。わからない。両手で頭を抱えて髪をわし掴む。
目をきつく瞑る。犯人はどうするべきだ。犯人なら罪を償うべきだ。それが僕だとしても。
身体に力が入らずよろめいた。と、何かにつまずいて後ろ向きに倒れ込む。背中が何かを押し潰した。
鈍い音がする。潰れた呻き声。
見ると如月が顔を歪めて身じろぎしている。苦悶の表情を浮かべて、徐々にゆっくりと目を開いた。僕が手を伸ばせば届くところにその顔がある。
視線が合う。
如月は徐々に僕を認識していく。真っすぐに視線を据え、確認するように小さく息をする。如月が不意にこちらに手を伸ばした。反射的に避けようとするが、身体は大きく動けない。彼女の指が僕の頬に触れる。指先が離れると、人差し指の先端に丸い雫が浮かんでいた。
そうか。僕は泣いてるんだ。
悔しさなのか、恐怖なのか、不安なのかわからない。けれど強い感情が身体の中を暴れまわっている。
「大丈夫?」如月の声は思わず縋り付きたくなるほど柔らかかった。
「やめろよ」竜崎が硬い声で言った。「そいつが全部悪いんだ」
如月は首をよじって竜崎を見上げる。そしてまた顔を僕に向けた。その顔は何かを探るようにも、何かを求めているようにも見える。
と、彼女は表情を変えた。えずくような仕草を見せる。腹部を押さえ、圧迫された空気を口から漏らす。顔が苦痛で歪み、呼吸が荒くなり、口から涎が垂れる。
「どうしたの?」僕は身体を起こして近づいた。背中に触れると彼女は小刻みに震えていた。
舌打ちが聞こえた。竜崎が何かに苛立っている。「中途半端に起こすからこうなるんだよ」
ココアを見る。睡眠と記憶の削除が関係しているなら、無理やりに目覚めた如月の身体の中で何かの拒絶反応が起こっているんだろうか。
「今から警察が来てそいつを捕まえる。それで全部終わりだ」竜崎は笑っている。なにがおかしいんだろう。
如月が、大丈夫、と苦しそうな声音で言った。そして僕の手をつかみ、ふらつきながら立ち上がった。
「それは、違うよ」訴えるように、振り絞るように如月はそう言った。そして僕の手を強く握って走り出した。
「なにが?」竜崎は不快そうに一歩詰め寄る。
如月は僕と竜崎の間に立って、弱々しくも、けれど何か強いものを湛えて真正面から見返す。
空気が張りつめる。雨音の中互いの呼吸音すら聞こえてきそうだった。
如月は肩越しに振り返って僕を見る。「行こう」
「おい!」竜崎の言葉が追いかけようとするが、如月は意に介せず僕の手を引いて走り出す。近くに無造作に置かれていたお金を乱暴につかみ、そして部屋を飛び出した。
竜崎は僕らを強引に止めようとはしなかった。
如月の背中を見ながら、僕はただされるがままに家を飛び出す。つま先だけを靴に入れ、アスファルトを蹴ってその場から離れる。
竜崎は僕が犯人だと言った。僕もその罪を償うべきだと感じた。それなのに、どうして如月は僕と逃げているんだろう。
遠くの方でパトカーのサイレンが嘆くように空気を振動させる。
第五章
車のヘッドライトが近づいてくる。タイヤが水を掻きあげる音。
雨に打たれながら弱々しく歩を進める僕らは身体を強張らせて身を寄せながら車が通り過ぎるのを息を潜めてじっと待つ。
車は僕らの足元に水をまき散らしただけで、そのまま走り去っていった。身体に入れていた力が抜ける。
雨が全身を容赦なく打ちつける。濡れた服は体温だけでなく、重さで体力も奪っていく。
僕はまたその場に立ち止まった。如月がまた僕の手を強く引く。あの旗手茂の家から出た後何度も繰り返した行動。
「もうやめようよ」
「なに?」雨音に消された僕の言葉を確認するように如月が訊ねる。
顔を上げて、雨で髪が顔に張り付いた彼女を見る。
「もう。やめよう。あの家に戻ろう」
「なんでそんなこと言うの?」
「あの人が、竜崎が言ってた。僕が全部悪いんだって。あの死体も、みんなの記憶がないのも僕が原因なんだって。警察に捕まらなきゃいけないんだって。だって、僕は。僕は竜崎と君が大切に持っていた思い出すら奪ったみたいなんだ」
如月はしばらく口をつぐむ。呼吸で身体を揺らしていることが握っている手から伝わってくる。
「自分がそうしたって覚えてるの?」
僕は左右に首を振った。
如月はそれを確認して頷く「そんなわけない。そんなわけないよ」
如月はまた足を進める。僕も引っ張られる。
「なんでそう言えるのさ? それこそ、君も何も覚えてないんでしょ」
「そうだよ」如月の声には力がこもっている。「わたしも何も覚えてない。何もわからない。けど、違う。そうだよ。違うんだよ」
抵抗しようと思えば彼女の手を振り払って自分だけ戻ることはできただろう。でも、僕はそうしようとしなかった。彼女が僕を信じ、僕の手を引いている。そのことに自分でもわからないが懐かしさと安心を覚えていた。
歩きながら握られた手を見下ろす。昔、こうして彼女と手を繋いだ気がする。そう感じたあとに、ありえないと頭を振った。僕は彼女と仲が良かったわけではないんだ。これは記憶ではなくて、きっと僕の願望だ。
歩き続けると徐々に建物の密度が増えてきた。道路の脇にレストランやコンビニ、アパートや雑貨店が増えていく。すでに明かりは消えて静まっていた。
と、古びた看板に目がいく。鈍い明滅を繰り返すその看板の建物には素泊まり五千円と書かれた文字。三階建てのその建物は、街灯の少ない道路の中で頼りなさそうに存在感を出していた。中に入り、如月がカウンターで受付をし鍵を手に戻ってきた。泊まる部屋はシングルベッドが二つ置かれた広くはないが清潔な部屋だった。
身体から雫が床に落ちる。室内の寒さに身体が震える。
如月が空調をつけると室内に温かい空気が流れた。
「先にシャワー浴びてて、わたしちょっと買い物行ってくる」如月はポケットから紙幣や硬貨を取り出して、目で数えた後に部屋から出て行った。
一人取り残される。視線を巡らせる。壁に掛けられた時計は午前の二時過ぎを示していた。
ベッドに腰を下ろす。ゆっくりと息を吸って吐く。
今頃添島栞が呼んだ警察が旗手茂の家に到着しているだろうか。そしてあの死体を発見し、竜崎は僕のことを話しているかもしれない。捜査の手が追いかけてくるのも時間の問題だろう。
けど、どうして添島栞は直接警察を呼びに行ったのだろう。電話ではだめで、直接。しかも僕らに何も言わずに一人であの家を出て行った。彼女は何かを知っているのだろうか。
如月が戻ってくると手にコンビニの袋を下げていた。僕を見ると小さく息を吐く。
「シャワー浴びてないの?」
僕は目線だけで如月を見る。
「それならわたし先に入っちゃうね」と如月はベッドの上に置かれていた浴衣とコンビニの袋から下着らしきものを取り出して浴室に入った。
シャワーが流れる音が聞こえる。
如月が出てきた後に浴衣とコンビニの下着を渡されて浴室に押し込まれた。
僕は雨で冷えた身体をお湯で温める。
まだ湯気が身体から上るなか、僕たちはそれぞれシングルベッドに座って弁当を食べ始める。濡れた洋服を浴室にかけて換気扇を回す。
あまり食欲はわかなかったが、一口食べると身体が欲求を思い出して箸が動いた。
如月がテレビをつける。
「本日、滋賀県にある一軒の民家で死体が発見されました」アナウンサーのその言葉に身体がびくりと震える。如月は真剣な面持ちで報道を見る。画面が切り替わり僕らが逃げてきた民家が映し出される。「死体の身元は旗手茂。この家の所有者と思われます。死体は腐敗が進んでおり、今後死因や死亡時期の特定が進められて行きます。滋賀県警はこの事件に関係があるとして、現在高校生である男女の行方を追っています」そう女性キャスターが民家の前で告げたあと、番組は別のニュースを取り上げ始めた。
如月がテレビを消し、部屋が静かになる。
「さっきのって僕たちのことだよね」
「そうだね」彼女は気にしてないように箸を進める。弁当の具材が減っていく。
報道では記憶を無くす薬の事や、竜崎たちのことは述べられていなかった。すでに把握している上で情報を出していないのか、それともまだそこまでわかっていないのだろうか。けれど確実なのは警察は僕らの行方を追っている。
如月はお弁当を食べ終わったあと、濡れた紙幣や硬貨をテーブルの上に広げて数え始めた。
「もうやめようよ」何度目かになる言葉をこぼした。
「やめないよ」如月は視線をお金に向けたまま返す。
如月は細く長い息を吐いたあと、僕のシングルベッドに腰を下ろした。顔を向き合わせる。
「ねえ、自分がやったっていう記憶があるの?」
僕は反応しない。
「自分がしたっていう確信があるの?」
その言葉にも何も返せない。
「それなら、あそこに戻ってどうするの?」
僕は口を引き結ぶ。そしてゆっくりと口を開いた。
「君はどうして僕と一緒にいるの?」
如月は少しとぼけたような表情を見せたあと、屈託のない笑みを見せる。
「わたしは、あなたが悪いとは思えない。あなたがそんな人間だと思えない」
「どうして?」
「わからないよ。記憶がないんだもん。でも、あの時、泣いている君を見たら、手を握ったら、そう確信したんだ。だから、根拠は私の中にある感覚だね」
眠ることができなくて、暗闇に薄くぼんやりと映る天井を眺めていた。隣から如月の規則的な寝息が聞こえる。
手をもたげて顔の前に持ってきた。握っていた時の感触がまだ残っている。
僕はいったい誰なんだろう。竜崎が言ったように悪い人間なのか、如月が感じているようにいい人間なのだろうか。どちらかが間違っていて、どちらかが正しいのか。
寝返りを打つ。
僕には記憶がないから思い出せない。けど、僕は如月の言葉を信じたい。その気持ちが強くなっていった。
翌日。目が覚める。時計を見ると午前八時だった。横を見ると如月がすでに服を着替えていた。僕が目覚めたことに気づくと、「近くのスーパーでパン売ってたから買ってきた」と笑った。
朝食を取りながら再びテレビをつけると再び事件の報道が流されていた。昨日から追加された情報に、あの民家で生活していた高校生たちがいたことが述べられた。きっと竜崎たちのことだろう。さらに、その子たちが以前住んでいたファミリーホームというものがあると伝えられた。そのファミリーホームを遠くから撮影した映像も一緒に映される。
「ここって」如月が呟く。
「覚えてるの?」
如月は唇を噛む。眉間にしわが寄る。しばらく如月はその姿勢のまま動かなかった。視線を一点に据え、思考を懸命に巡らせる。テレビが別の番組になっても如月は動かなかった。声をかけることもできなくて、僕はただじっと次の反応を待つ。
と、如月が顔を上げて僕を見た。
「そうだよ。ここにいたんだ」
記憶は関係がある現象を見たり聞いたり接すると、それが回復の呼び水となることがある。なにかが如月の中で繋がり始めているのかもしれない。ファミリホームの映像が映ったことで過去の記憶が戻り始めているのだろう。
「なにを思い出したの?」
「そこで昔生活してた。そこには、わたしと、あと二人の女の子がいた。それと」僕を見る。「確か男の子もいた。男の子は途中で入ってきたんだ」
二人の女の子はきっと石黒と添島のことだ。男の子は僕の事なのだろうか。それとも竜崎のことか。
如月は続ける。
「ファミリーホームではおじさんとおばさんがわたしたちと一緒に生活してた。とってもいい人たちだった。けど、ある日男の子が現れたんだ。その子は手に何かを持っていた。そうだ。あれは薬だった。何かの錠剤が詰められた瓶を持って、その錠剤の効果を知りたがっていた」
その台詞を聞きながら、僕はタブレット端末に保存されていた動画を思い出す。薬を飲むように勧め、飲めば幸せになれると主張していた僕。
「その子は、わたしたちが怖がったり、怯えたりする姿を見るのが好きだった。自分のことばっかり考えて、わたしたちが何かに反応すると喜んで笑ってた」如月の声は徐々に震えていく。「それでわたしは、その子のことが」一度言葉を切り、浅く呼吸する。「わたしは、その子が嫌いだった」言葉で空気が泣いたように震えた。
沈黙が流れる。部屋の閉じられたカーテンの隙間から太陽の光が差し込む。外の喧騒はどこまでも僕らから離れているようだった。
静寂を裂くように口を開いた。
「きっとそれが僕なんだ」
自分の欲望のままにみんなに薬を飲ませて、それで周囲の人たちを傷つけてきたんだ。酷いやつだ。
如月は何も言わない。僕の言葉に肯定も否定も返さない。
如月が呟く。
「もうひとつ頭の中に思い浮かんだ映像があるの。それはわたしがファミリーホームに来る前に住んでいた家の、団地の映像」
如月はファミリーホームの映像を見たら過去の記憶が蘇ってきた。もしかしたら薬を飲まされて途中で起こされたことが関係あるのだろうか。それとも如月の思い出したいという意志がそうさせるのか。とにかく今の如月はその団地を見たら何かを思い出すかもしれない。それが竜崎の言っていた竜崎と如月の大切な思い出なのかもしれない。
「そこにどうやって行けばいいかわかる?」
如月は首を捻り逡巡するように目を閉じる。そして僕を見て強く頷いた。
「たぶん行けると思う」
第六章 過去
如月と如月の母親が団地からいなくなり、両親もぼくの前から存在を消した後、ぼくは施設に送られた。
新しい中学校に通うことになり、一緒に住む人たちも当然ながら見知らぬ人だった。中学一年生のぼくを心配してか、お父さんが以前働いていた施設関係者の人たちも面倒を見てくれた。お父さんが仕事を辞めさせられてからだいぶ経つのに、どうして今さらぼくに気を遣うのだろうと不思議だった。けれどぼくに対する態度や喋り方でその理由がわかった。
彼らは良心の呵責を感じている。いや、正確に言えばそこまでの気持ちの懺悔はないかもしれないが、自分たちの決断がぼくたち家族に与えた負の影響を、いまぼくに親切にすることで打ち消そうとしているようだった。
今さらそんなことして何の意味があるのだろうと首を傾げたが、実際このあと一人でどのように生活すればいいのか見当もつかなかったので助かった。
色々な人間が代わる代わる助けてくれた。その人たちはぼくの生活がある程度安定し始めると安堵の表情を浮かべて、少しずつ施設へと足を向けなくなっていった。
その中でただ一人、何度も何度もぼくの様子を窺い、必要なものがあれば何でも持ってくると言う男の人がいた。その人が最初に自己紹介のために自分の名刺を差し出したときから、ぼくは興味深げにその人のことを観察していた。
それは、その人が、その名前こそがお父さんを裏切った人物のものだったからだ。お父さんに自分の悪事をすべてなすりつけ、開発中の薬で人体実験を行ったであろう人物。お父さんはそう罵っていたが、その人の物腰は、態度は、言葉遣いは、柔らかくて優しかった。
ぼくの家族を崩壊させた人間とはとても思えない。けれどその一方で、その人はぼくに初めて会ったときに深く長く頭を下げて、「すまなかった」と言った。
ぼくはその下げ垂れた頭を見ながら不思議な気持ちだった。すまなかった。謝罪の言葉。人は誰かに謝る。なんのために。それはその人から許しを得るためだろう。けれど、ぼくにはそのそもその人に対して怒りや憎しみや敵意があったわけではない。確かにその人が行った行為によってぼくのお父さんとお母さんはおかしくなってしまった。けれど、ぼく自身の世界はそのずっと前からおかしくなっていたんだ。いや、正確に言えばみんなが当たり前だと感じるものに、ぼくはずっと違和感を覚えていた。如月朋子がいたあの世界だけがぼくを救おうとしてくれた。
その人はぼくが何も反応しないので、それを拒絶と受け取ったのか何度も何度も施設を訊ねてきた。ぼくに好きなものを訊ね、適当に答えるとそれを必ず次の時に持ってきた。ぼくがそれを受け取ると、それを許しと判断してかその人は強張った表情を綻ばす。
その人は繰り返しぼくに会いに来る。季節が移り変わり、一年が経過してもそれは変わらなかった。
来て欲しいという気持ちは湧かなかったし、来たら対応しなければならないのが億劫だった。ぼくはやはり人間と言うものに苦手意識を抱いている。だから、なんで何度も尋ねてくるか訊ねた。どうしてぼくに好きなものを訊き、それを持ってくるのか。謝罪も終わったのだから、もう会いに来る必要はないのではないかと。
そうしたらその人は戸惑った表情を見せた後に、申し訳なさそうに言った。
「君のお父さんのことも、お母さんのことも、君のことも苦しめて、幸せな生活を奪ってしまった。だから、こんなことで償えるとはもちろん思ってないが、なにかできることがあればさせてもらいたいんだ」
ぼくは重ねて訊ねた。そこまでの後悔があるなら、そもそもどうしてそんなことをしたのかと。お金や、立場や、もしくは何か得たいものがあったのかと。
その人は口を引き結び何も喋らない。
何も言わずに隠しておくことは償うことになるのかと問うた。憎しみや怒りの感情がそこにあったわけでなく、ぼくは純粋にそう思ったからだ。
思考を巡らせる仕草をしたあとに、その人は重い口を開いた。
「どうしても守りたいものがあったんだ」
それはなんだったのか。誰かの人生を奪ってまでもしなければならないことだったのか。
「子供がいるんだ。息子が。君と同い年だ。その子を守りたかったんだ」
その人の目には確固たる意志があるようだった。ぼくを正面から見据えて、何かを訴えている。
子供を守ることと、ぼくのお父さんに行ったことがどう関係するのか訊ねたが、かぶりを振って答えてはくれなかった。
開発中の薬で人体実験をし、その間違った行いをすべてぼくのお父さんになすりつける。このことのどこが息子を守ることに繋がるのだろう。もしかして、この人の息子が薬を必要としていて、早く完成させようと焦っていたのだろうか。その薬だけが息子をただ一つ救える手段で、それを確立するためにはどんな犠牲でも払ったと言うことだろうか。
いや、それとも別の可能性はないか。もしも、こんなことあっていいはずはないのだけれど、もしも仮にその息子が開発中の薬を手に入れて、それを勝手に他の人に飲ませて、その事実を隠すためにぼくのお父さんのせいにした。
そしてぼくはこの二つ目の仮説が正しかったことをこのあとすぐに知ることになる。
ある日、その人は息子を連れてぼくの施設を訪ねてきた。何の意図があったのかはわからない。もしかしたら同い年のぼくと仲良くなって欲しかったのかもしれないし、もしかしたらぼくに、この子のことを守りたかったんだと理解して欲しかったのかもしれない。どちらにせよそいつはぼくの目の前に現れた。
そして、そいつは不気味な笑顔をたたえながら、ぼくの耳元でこう囁いたんだ。
「母親にね。薬を試しに飲ませてみたら記憶が消えちゃったんだよ」
嬉しそうに無邪気に笑うそいつを見て、ぼくは顔をしかめた。
第七章
僕たちは如月朋子のおぼろげな記憶を頼りに電車とバスを乗り継いで、如月が育った団地に向かった。
僕は不安だった。もしも如月がすべてを思い出したら、それは僕にとって喜ばしい事なのか、それとも自分と言う人間が残忍で他の人を傷つけても何も感じないやつだと突きつけられて絶望するだけなんじゃないのか。
如月はそんな僕の感情の揺れを感じ取ってか、僕と目が合うと優しく微笑んだ。
如月が住んでいた団地は、おそらくあの頃から十年以上経過している。入居者はまだまだ多いのか公園には子供連れの家族で溢れていた。同じデザインの建物が二十棟ほど建ち並んでいる。あたりを見回しながら、記憶を回復させるきっかけがどこかに存在していないか探す。
と、沢山の子供たちの声で溢れている公園の前で如月は足を止めた。しばらくの間、どこか遠くを見るように公園を眺めている。
「ここで、よく遊んでたと思う」
「お母さんとかに連れられて来てたってこと?」
如月は首を振る。
「男の子と一緒に遊んでた。わたしはその子と一緒にいることが好きだった」
それが、その男の子というのが竜崎なんだろうか。確か、団地の公園でお互いのことを認識したと竜崎は言っていた。ここで二人は一緒の時間を過ごしていたんだろうか。
「その男の子はどんな子だったの?」
「そうだね」如月は公園に向かって歩き出す。「変わった子だった気がする」と思い出したように如月はくすりと笑った。「怯えなくていいものに怯えてたり、普通のことに普通以上に驚いたりしてた。まあそもそも普通って何って話だけど。その子の見ていた世界は他の子と違う気がした。今ならなんとなくわかるんだけど、きっとその子は情報を受け取る能力が高かったんだと思う。だから気づかなくていいこと、気づく必要のないことまで気づいちゃって、それで自分を苦しめてた」
「君はなんでその子といることが好きだったの?」
「それは」一度言葉を切る。「なんでだろう。どうしてだったんだろう」そう言って何かを探し求めるように如月は公園を後にした。
目に映る色々なものが過去の記憶を呼び起こす呼び水になっている。この場所には如月朋子の過去と関係があるものが沢山存在する。彼女は視線を彷徨わせながら少し切迫した表情で視線を走らせる。徐々に歩調が速くなる。彼女の視線が一点に集中し、小走りでそこに駆けていく。僕はその背中を追いかける。
そこは公園からそう離れていなく、ベランダから公園を見下ろすことができる建物だった。脇には八号棟と描かれている。少し息を切らしながら彼女は建物を見上げた。
ここに何があるのだろうか。
如月は深く長い呼吸を繰り返し、ゆっくりと目をつぶった。僕もその団地を眺める。冷気を孕んだ空気が身体を撫でる。身震いする。見上げた景色はどこか見覚えがあって懐かしかった。僕もここに来たことがあるのだろうか。それとも、誰でも見たら懐かしくなるような、そんな情景なのだろうか。
「そうだ」如月が呟いた。「わたしはここで男の子に助けてもらったんだ」階段に歩を進める。如月は一段上るたびに記憶が蘇っていくかのように言葉を続ける。「わたしが小さかった頃にお父さんが病気で死んじゃって、最初はお母さんと二人で住んでいた。幸せだった。楽しかった。けど、やっぱりわたしはお父さんとの幸せな思い出が欲しくて、お母さんに何度もお父さんはどこにいるのって訊ねてた。子供だったから、お父さんが死んだことも、自分の発している言葉にお母さんがどんな気持ちになるのかもよくわかってなかった。お母さんはいつも悲しそうな顔をして、それである日、男の人を連れてきたんだ。これからは三人で一緒に暮らそうと言っていた。お母さんは笑ってた。お母さんがお父さんだよと紹介した人も最初は笑ってた。けど、わたしたちは幸せにはならなかった。新しいお父さんはずっと家にいた。家でずっと寝て、仕事で忙しいお母さんをいつも怒鳴っていた。わたしにも怒ってた。お母さんはいつもわたしにごめんね、こんなはずじゃなかったのにねって言っていた。でもお母さんは、それでも三人で住み続けた。わたしはお母さんと二人が良かったけど、どうすることもできなかった。わたしがお母さんに無理やりお父さんを連れてくるように頼んだんだ。わたしには文句を言う資格がなかった。わたしがお母さんに謝るべきだった。楽しいことがあるといいなと考えると辛くなるから、なにも考えなくなった。ただ毎日、何も考えずに漠然と世界を眺めていた」三階にたどり着く。如月はしゃがみ込んで地面に手を触れた。「他の子と接しても、見てるものも感じるものも違うと思った。けど、その男の子だけは違ったんだ。わたしと同じ感情に、気持ちに寄り添って、同じ世界を見てくれようとした」彼女は両膝を抱え込んで肩をすぼめる。如月の記憶が戻っていくのは、薬を飲んでも途中で目が覚めたから脳の働きが活性化しているのか、もしくは自分の過去と関係がある場所を巡っているからなのか。「わたしはよく暴力を振るわれて痣ができたり、鼻血が出たりしてた。それでね。そうだ。ある時男の子が守ってくれて、それでその子も鼻血が出たんだ」そう如月は寂しそうに、でもどこか嬉しそうに笑った。
これが竜崎が言っていた彼女との大切な、僕が壊した思い出か。
如月は立ち上がる。
「そうだ。お母さんは」顔に手を当てて思考を巡らせるように視線を斜め下に落とす。「お母さんはどこにいるんだろう」
「その男の人と一緒にいるの?」
「ううん。違う。そうじゃない。あの人が男の子を殴った後、わたしはまたお母さんと二人で暮らすようになった。お母さんがお父さんと呼びなさいと言った人はいなくなったんだ。それで、そうだ。またわたしはお母さんと楽しく一緒にいたのに、それなのに、ある日、そうだ。ある日、あの人に見つかったんだ。それで」
如月は動きを止めて、突然階下に走り出した。慌てて後を追いかける。如月は口元に手を押し当てて建物から外に出ると、そのままその場に蹲った。えずく音が聞こえ、手から粘り気のあるものが滴り落ちる。
「大丈夫?」僕はそばにしゃがみ込む。
如月の目からは圧迫されて滲み出たような涙が流れ、胃から押し出された液体が潰れた声と一緒に落ちる。それはまるで身体が蘇ろうとしている記憶を拒絶しているみたいだった。何かがあったんだ。如月と、その母親と、母親が連れてきた男の人との間で何かが。
近くを通り過ぎた人が訝しむような視線を送りながらも、こちらに声をかけずに去っていく。
僕は彼女の背をさすろうと手を持ち上げるが、触れることはせずにその手を下げた。
「無理に思い出す必要なんかないよ」
もしかしたらと思い至る。僕らの記憶がないことに如月の思い出したくない過去も関係しているんじゃないだろうか。僕らが目を覚ましたあの民家。そして民家の住人である旗手茂。僕、如月、石黒、竜崎、添島、きっとすべては繋がっているんだ。そうだとしたら、僕らはその事実を知るべきなのだろうか。それとも、このまま何も思い出さないでいることが一番の幸福になるんじゃないだろうか。
記憶と言う根拠がない僕には何が正しい事なのか判断できない。
如月の体調は吐き気を催したままなかなか戻らなかったので、そばにいた人に安く宿泊できる場所を聞き、僕らは近くの旅館に一晩泊まることにした。如月が旗手茂の家から持ち出した資金はすでに尽きようとしている。豪華な夕食なんて食べられるわけもなく、この日も近くのスーパーで値引きされた食べ物で腹を満たした。
如月は固形物を身体に取り入れることができず、水だけを口に含めていた。
次の日の早朝。如月がまだ寝息を立てているなか、僕は音量を下げてテレビをつけた。事件の報道に進展があったか気になった。何度もチャンネルを変更する。カーテンを少し開けて外の光を取り入れようとするが、天気は曇りだった。と、旗手茂に関する事件のニュースが始まった。
自然と身体に力が入る。
「滋賀県で発生した事件の続報をお伝えします。死体となって発見された人物は旗手茂と特定され、死後およそ一ヶ月が経過していることがわかりました。また、死因は頭部を何か固いもので殴られたことによる頭蓋骨損傷とみられ、現在凶器の特定がなされているようです。さらにこの事件が発覚するに至った経緯として、高校生の女子生徒が警察に通報したことがきっかけだったということです。旗手茂がどういう人物だったか、近所の方々にインタビューしてみました」
その後場面が切り替わり、マイクを持ったリポーターが上半身だけを映された人物に旗手茂がどんな人物だったか訊ねている。
どの人も旗手茂を良くは言わなかった。挨拶をしない。目つきが悪い。まともに仕事をしているのを見たことがない。一時期家から出て行ったが、また戻ってきて、両親が亡くなったあとは、あの家の中で何かをしていた。そして、一時期女性と女の子と一緒に住んでいた時期があったと。旗手茂はその人たちを妻と娘だと紹介していた。
リポーターは切迫したような表情で告げる。
「警察はこの二人も事件に何らかの関係があるとみて捜査を続けているようです。女性の名前は如月さつき、女の子の名前は如月朋子です」
その言葉が、単語が、怯えたように空気を震わせる。
と、人の気配がして振り返った。見ると青ざめた顔で如月が力なく立ち尽くしている。如月は目を見開いて画面に見入っている。彼女の呼吸が徐々に荒くなる。と、その場で地面に崩れ頭を抱え込んだ。
一拍置いて言葉を吐く。
「ああ。そうだ。そうだった。そうなんだ。お母さん。お母さん」
如月は喘ぐように何度も何度も、お母さんと繰り返した。
第八章 過去
母親に薬を飲ませたと無邪気に笑って言った男の子は、それ以降ぼくの前に現れなくなった。施設には変わらずあの男の人だけが訪ねてくる。ぼくは中学三年生になった。相変わらずぼくには友達なんて一人もいなくて、誰もぼくと仲良くなろうなんて気持ちを持ってなくて、けれどもぼくが存在する限りは無視することもできなくて、最低限の接触だけされて、淡々と無機質に時間が過ぎていく。
ぼくは男の人が徐々に変化していっていることに気づいた。どこか身体が軽くなったような、足枷が外れたかのように弾んだ足取りをしている。表情や声もその調子を明るくしていた。
ある日何の気なしに訊ねてみた。一緒に連れてきていた、息子さんはどうしているんですかと。
その人は悪戯が見つかってしまったように小さく笑った。
「実は今はもう一緒に住んでいないんだ」
驚いた。あの男の子を守るために様々なものを、ぼくの家族すら犠牲にしたはずなのに、一緒にいないとはどういうことなんだろう。ぼくはその人に告げなかったが、あの子が自分の母親に記憶が消える薬を飲ませたことが原因なのだろうか。
返事をしないでいるとその人は言葉を続けた。
「守り続けることができなくなってね。好奇心が強い子で、なにかを思いつくと試してみたくなるんだ。それがね。いい面もあるんだけど悪い面もあって、一度離れて生活することになったんだ。ああ、もちろん今でも連絡は取り続けているよ。もしかして会いたかった?」
ぼくは首を振って否定した。
「そうか。でも会いたかったらいつでも言ってくれていい。いま預かってもらっている施設は、ファミリーホームは薬の開発者に関係がある子が多いし、もしかしたら知り合いもいるかもしれない」
どういうことですかと訊ねる。
「君は自分のお父さんがどんな研究をしていたか聞いたことがあるかい?」
その問いに首肯する。
「記憶に関係がある研究を君のお父さんと一緒にしていた。失った記憶を戻すための薬、辛かった記憶を消すための薬。その開発には大勢の人が関わっていた。その中で、研究に没頭するあまり子育てができなくなった人、研究途中で事故にあった人、研究関係者で薬の被験者になった子などが集められて育てられている場所があるんだ」
なぜぼくはそこに行かなかったのか訊ねる。
「それは、君の場合は少し特殊で、君のお父さんは綺麗な形で研究所を去らなかったからね」わずかに口元に笑みを浮かべて男は言う。
笑った。その顔を見てああ、そうかと悟る。この人は、自分の行ったことに本当の意味で罪の意識を持っているわけではないんだ。ぼくは二年が経過してようやくそのことを理解した。ぼくを何度も尋ねて好きなものを渡したのも自分の自責の念を軽減するため。きっと息子のことも自分がその異常な好奇心の対象になることを恐れて遠ざけたのだろう。目の前にいるのはそういう人間なんだ。結局は自分を中心に物事を考えている。
「ああ、そうだ。あの子は確か君との関係も深いよね」とその人は言った。
誰の事だろうと眉間にしわを寄せる。
「いまファミリーホームにいるのは、うちの息子と、石黒菜月、添島栞に、それから如月朋子という子だよ」
その言葉の響きに身体が大きく反応する。如月朋子。二年ぶりに聞いたその言葉に、彼女の姿が脳内で溢れた。
「ああ、その反応。やっぱり覚えていたんだね。確か、君と仲が良くて、そのあとにああいう酷いことが起こったからファミリーホームに行くことになったんだよ」
酷いこと、一体なにがあったんですか、彼女はいま元気なんですか。男の人に詰め寄って訊く。
「あれ? もしかして聞いてない? ああ、そうか。言ってなかったかもしれないね」男の人はそう言って申し訳なさそうに笑った。本当に申し訳なさそうにしているだけで、申し訳なく思っているわけではないんだろう。
如月との幼い頃の思い出が蘇ってくる。公園で遊んだ日々。渡した飴玉。流した鼻血。そして突然ぼくの目の前からいなくなった。
彼女がいるんだ。
「落ち着いてくれ。そんな顔で見られたら話しにくいよ。そうそう。ゆっくり息をして。そうだ。えっと何を話せばいいんだ。そうか。君が殴られたあと、その男、旗手茂は警察に捕まった。そして彼女と彼女の母親は旗手茂に知られた住所に留まることを恐れて違う場所に引っ越したんだ。そして二人で新生活を始めた。その後は半年に一度ほど施設の職員が状況を伺いに行っていた。一応事件の処理とかにも関わってしまっていたからね。けど、ある時不思議なことに二人は住んでいた家から忽然と姿を消した。行方を調べてみると、もっとおかしなことに如月朋子は旗手茂と二人で住んでいたんだ。うん? そうだ。二人だ。近所の人の話を聞くとしばらくの間三人で住んでいたが、その後二人になったらしい。母親はどこかに消えていた。けど旗手茂はそもそも接近禁止命令を出されていた。発見されたときの二人の生活も、まともじゃなかった。如月朋子の精神状態にも異常が見られた。心神喪失状態だった。それで保護されたわけだが、彼女の精神状態は非常に危険だった。とてもじゃないがその状態を放置できない、このままいけば命に関わると判断された。それで薬の被験者になったんだ」
聞かされた情報が脳で処理しきれず、口は動いても言葉が出てこなかった。
「それで、なんとか精神状態を回復することができ。今では同い年の子たちとファミリーホームで楽しそうに暮らしているよ」
彼女は、薬を飲んだ。過去を捨てたんだ。ぼくの前から姿を消した後、ぼくは彼女のことを守ることができなくなった。それでも彼女がどこかで幸せに暮らしていて、ぼくではない誰かが彼女を守っていると勝手に想像していた。
けれどそうじゃなかったんだ。全身が冷たくなる。目の前の人間が笑顔を湛えていることに急に耐えられなくなる。
あなたの奥さんと同じ状態ですか、とぼくはその人の表情を変えるためだけに質問した。
男の人の表情が変わる。
「誰が、それを?」引きつった笑みを浮かべる。
薬を飲ませた本人が言ってましたよと告げる。
その人は狼狽した表情を見せる。
如月に会わせてください。強く、否定も拒否も許さない口調で言った。
「先ほども言ったように彼女は辛い記憶をなくすために薬を服用した。すでに君のことも覚えていないさ」
それでも会いたいんですと訴える。
その人は半ば呆れたように首を左右に振った。
「君と会うことがきっかけとなって彼女の記憶が蘇る危険がある。それは彼女を苦しめることだよ」
その言葉に怯んだ。そうだ。今さら彼女に会いたいなんてぼくの自己中心的で自己満足を与えるだけのものなのかもしれない。ぼくは如月朋子に会いたいが、如月朋子がぼくに会いたいかどうかはわからない。いや、記憶がなくなっているのだとしたら、会いたいかどうかすら判別することができないだろう。
会ってどうしたいんだろう。自分に問いかけてみた。答えはすぐには浮かばない。
けれど会わなければいけない気がした。
会わせてください。ぼくはもう一度有無を言わせぬ口調で言った。
その人は大袈裟にため息をつく。
「わかった。会わせるよ」
すべてを忘れているとしても、それでもぼくは如月に確かめたいことがあった。
ファミリーホームは大きな二階建ての家だった。自分が暮らしているような大きな施設を想像していたので少し驚いた。
男の人がインターホンを押すとまず出てきたのは老夫婦だった。ここで親と一緒に生活できなくなった子たちと暮らしているらしい。
中を覗き込む。如月朋子の姿を探す。すると、家の奥の階段から女の子がゆっくりと降りてきた。誰が訪ねてきたのかとこちらの様子を窺っている。
ぼくの心臓は大きく伸縮運動をする。
彼女を一目見て如月朋子だとわかった。肩より下に伸びる黒髪に、幼い印象を与える柔らかい顔立ち。白い肌に大きな瞳、薄いピンク色の唇。寝巻なのか半袖と短パンというラフな格好をしていた。彼女はぼくを認めると笑った。その笑顔は仲の良かった人に再び再会したことを喜ぶような笑顔ではもちろんないし、かつて子供の時にぼくの隣でしていた笑顔でもなかった。ただ、初めて会った人に気遣いを示すための笑み。
彼女は僕らが誰なのか訊ねるように老夫婦に近づいた。
老夫婦は男の人の息子がここで生活していること、さらにその子の友達だとぼくを紹介した。
友達ではない。けれど即座に反応して否定することもできず、ただ如月を見ていた。ぼくより背が低い。
「初めまして」彼女は笑った。
ぼくは頭を下げる。初めまして。その言葉の意味を何とか咀嚼しようとする。ぼくのことも、あの頃の思い出も既にないんだ。
彼女はそれだけ言うと興味を失ったようにまた二階に上がってしまった。呼び止めることはできなかった。あまりにも他人に接するような彼女のぼくに対する距離感に感情が乱されていた。予期していたが、実際に目の前にぼくのことを忘れた如月朋子がいる時の衝撃は大きかった。
老夫婦は男の人の息子を呼んで、ぼくと会わせた。そいつはぼくを認めると驚いたような喜んでいるような表情になる。
老夫婦と男の人がテーブルを挟んで何か話している間、ぼくはそいつとリビングの隅でそばに座った。
「もしかしてここに送られることになった?」そいつがおかしそうに訊ねた。
ぼくは首を振る。
「なんだ。来たら面白そうだったのに」
面白いって何が、と訊く。
「だってあの子と知り合いなんでしょ? 如月朋子と。すごいよね。全部記憶が消えてるんだ。実はさ、さっき二人が対面するときも隠れて見てたんだよね。初対面って感じだった」
ぼくは押し黙る。
不気味だった。こんなやつと如月朋子を一緒に生活させていいのだろうか。
一緒の空間を共有したくなくて立ち上がって男の人に近づく。男の人はぼくに気づくと立ち上がって、そのままファミリホームを後にした。男は息子を一瞥するだけで、会話も何もなかった。
帰り道ぼくは質問する。旗手茂はいまどうしているのかと。男の人はこう答えた。
「あの民家で一人で生活しているだろうな。もしくはあの家を売って別の場所で生活しているか。どちらにせよもう如月朋子がどこにいるか知る由もないはずだ」
男は軽い口調でそう言う。何も心配していないようだった。
けれど、前もその状況で旗手茂は如月と母親を探して見つけ出したんじゃないのか。
不安がうごめいた。
如月の周囲が得体のしれない何かに包まれている気がした。
第九章
身体中が返り血で真っ赤に染まっても、すでに振り下ろす先の物体が生物からただの肉の塊に変わっていても、それでも旗手茂は手に持った灰皿を振り下ろすことをやめなかった。腕を小刻みに振るわせながら、何度も何度も殴りつける。
見開かれた目は赤く血走っていた。不規則な呼吸を続けながら、壊れたおもちゃのように単純な動作を繰り返す。
「お前さえいなければ幸せになれたんだ」
旗手茂の憎しみが、怒りが、悔しさが、ありとあらゆる負の感情が身体の中で破裂した。
「家族に戻るんだ。幸せになるんだ」
疲れ切った旗手茂の手から灰皿が落ちる。握るべきものをなくした手がその役目を終えたかのように地面に力なく落ちる。
旗手茂は自分の手をまるで部屋に転がっているゴミの固まりを見るみたいに冷たく見下ろした。
あえぐような呼吸音だけが空気を震わせている。
ふいに旗手茂は泣き出した。目から大粒の涙を流しながら、頭を抱え、喉から潰れるような叫び声を漏らした。
「守るんだ。大切なものを」
どれくらいそうしていただろうか。涙の枯れた目でそいつは肉の塊を呆然と見下ろしていた。涙と一緒に感情も流れ落ちたかのようだ。
旗手茂は肉の塊と化したそれを、如月さつきを古びた民家の中を引きずり隠した。家の中に残った血の後を綺麗に掃除する。
「ああ。これで大丈夫だ」
旗手茂はゆっくりと息を吸い込む。
「ここから新しく始まるんだ」
旗手茂は小さく口の端を上げた。
「これで邪魔者はいなくなった。朋子とまた一緒に生活するんだ。勝手に俺から隠れようとするからこんなことになるんだよ」
旗手茂は嘲るように口の端を吊り上げた。
如月は頭を抱えて、身体を小さくし、お母さんお母さんと繰り返す。身体も声も震えていた。
「大丈夫?」僕の問いかけにも反応しない。
どうすればいいのかとその場で行ったり来たりするが、解決策は見つけられない。外では雨が降り始めた音がする。少しだけあった人の喧騒が雨音にかき消された。室内も暗闇が増す。
如月のそばにしゃがみ込む。触れることもできず、けれどただそばにいる。彼女の声が徐々に落ち着いてきた。涙と涎で濡れた顔を少しもたげて僕を見る。
目が合う。如月の瞳は助けを求めるように震えていた。
「僕はどうすればいい?」自分でも驚くほどその声は怯えていた。
如月は意識的に呼吸を整える。
「わたしは、団地で生活していたあと、あの男の人と離れることができて、お母さんと二人で生活してた。けどある日、あの男に見つかったんだ。それで連れていかれた。ここで生活しようと家を見せられた。わたしの部屋は、小さい女の子が生活するような部屋で、それでここで新しく生活を始めようと言っていた。お母さんもわたしも怯えて、怖くて、ただ従うしかなかった。庭も手入れさせられて、それで、それでもある日」そこで如月は嘔吐した。床に吐瀉物がまき散らされる。
「いいよ。思い出さなくていいから」僕は嘆願するが如月は拒否して喋り続ける。
「ある日、お母さんがわたしを連れて家から逃げようとした。けど、見つかった。あの人は怒ってお母さんを殴りつけた。お前さえいなければ幸せになれるんだ。家族に戻るんだ。幸せになるんだと。狂ったようにお母さんを殴りつけた。それで、お母さんは動かなくなって、それで、あの家に」
そこで流れていたニュース報道で速報が伝えられた。
「えー、速報です。滋賀県で発生した殺人事件ですが、新たに建物の床下から白骨化した死体が見つかった模様です。現在この二つの死体に関係があるか調査が行われています」
如月は泣きじゃくった顔でテレビを見る。
「お母さん」
どういうことなんだ。過去が思い出せない。如月の言っていることの意味がわからない。
「わたしは旗手茂とあの民家で二人で生活するようになった。辛かった。怖かった。けど、ある日わたしはすべてを忘れることができたんだ。あの薬を飲んで。それで、わたしはファミリホームに連れられた。そこで、男の子と、石黒菜月と、添島栞に出会った。けど、そうだ。わたしはまた旗手茂に見つかったんだ。またあの家に無理やり連れていかれた。最初はあの人が誰だかすら思い出せなくて、それを旗手茂は面白そうに眺めていた。けど、あの人がわたしを殴った時に、また記憶が戻ったんだ。それで、わたしはそれで」
如月はそこで言葉を切る。
それでどうなったんだ。旗手茂と再び二人になったあと如月はどうしたんだ。
時間だけがゆっくりと流れる。
しばらく経ち、如月が俯いたまま言った。
「わたし警察に行くよ」
どうしてそういうことになったのかわからない。あの時確かに竜崎が警察がもうすぐ来ると言い、僕に罪を償うべきだと言ったときに如月は僕の手を引いてあの場所から逃げた。僕を信じているからだと言ってくれた。けれど今は如月が警察に行くと言っている。
何が起こっているのか僕にはわからない。
とりあえず落ち着いて少し休もうよと言う僕の提案を意に介さず、如月はふらふらと立ち上がって民宿を出た。どうすることもできずに僕はただついていく。
「警察に行ってどうするの?」僕は訊ねる。
「全部話す」
「全部ってなにを?」
「あの場所で何が起こったのか」
如月はおぼつかない足取りで、それでも懸命に足を前へと動かす。
「ちょっと待ってよ」そこで僕は乱暴に如月の手をつかんだ。「どういうこと? あの場所で起こったことと君はどんな関係があるの?」
僕の質問には答えずに如月は繋がれた手に視線を落とす。
「ごめん。ごめんね」それからそう言葉をこぼした。
何を謝られているのかさっぱりわからない。
目の前に十字路があった。横道から警察官が現れる。咄嗟に如月の手を引いて向きを変えて走り出そうとした。
「やめて。わたしは逃げるわけにはいかないの」如月が抵抗する。
警察官が僕らに気づいて走り出したのを感じた。早くここから逃げないと。けれども如月が手を振りほどこうとするので全然前に進めない。
掴み合いのような格好になる。警察官が近づいてきた。
「ちょっと君たち」警察官の一人が僕の肩をつかむ。それを振りほどこうと身体を捻った。なおも僕らの動きを止めようと手が伸びてくる。それに抗おうとしたら警察官の肘が僕の鼻に当たった。鈍い痛みが走る。すぐに熱いものが鼻腔に溢れる。
見ると地面に血が滴り落ちた。
地面に染みをつくる赤。鼻から顔全体に広がる痛み。
それはかつて経験したことがあるものだった。
その時、脳裏に大量の映像が弾けた。視界が一瞬暗くなる、歪む。眩暈がしてその場に膝をついた。
「ああ」思わず声が漏れる。今までの、失っていた記憶が頭の中に溢れた。
第十章 過去
ファミリホームから出て男の人と一緒に歩いている時に、先ほど男の子が言っていた言葉を思い出す。
あの子は、あいつはぼくに不気味なことを言っていた。身の毛がよだつようなものをぼくに見せてきた。
「君はこれがなにかわかる?」そいつは白い錠剤が入った透明の瓶を見せてきた。
ぼくは顔をしかめる。
「これはね。さっきの子やうちの母親の記憶を消した薬だよ」そう言ってニヤニヤと笑っている。「すごいよね。この薬を飲ませれば過去を変えることだってできるんだ。君に成り代わることだってできる」
どういう意味か訊ねる。
「だってみんな記憶がなくなれば、そのなくなった箇所に偽の情報を詰め込むことができる。そうすれば、君になれる」
そんなことあり得ないとぼくは淡々と否定した。現実離れしていると思った。
そう言うとあいつは怒った形相になる。
「じゃあ、試してやるよ。なにも覚えていないやつがどう抵抗するか楽しみだな」
その言葉が妙に鼓膜の中に残っている。
男の子がその言葉を吐いている間。遠くの方で本を読んでいた女の子が必死に筆を走らせていた。
何か悪い予感がする。ぼくも如月も望まない現象が起こりそうな気がする。
気になって訊ねた。あの男の子の名前はなんですかと。
「まだお互いの名前を言ってなかったのかい? 息子だからね。苗字は同じだよ」
それから男の人は、あいつの名前をぼくに言った。
竜崎拓也。
その名前を忘れないようにしようと心に決めた。
第十一章
そうだ。全部思い出した。「僕」は「ぼく」だったんだ。
僕はあの時竜崎の言葉を信じなかった。僕に成り代わるなんてこと不可能だと確信していた。けれど実際に竜崎は実行に移したんだ。それも僕らに最悪のタイミングで。
警察官が僕の顔を覗き込む。
「大丈夫か?」僕の鼻から垂れる血を見て、心配そうな表情になる。
そんなことよりも今は自分の脳内に溢れた記憶と目の前の如月朋子のことを繋ぎ合わせることに必死だった。
そうだ。そうだった。あのあと、ファミリホームで暮らしていた如月朋子を旗手茂は見つけ出したんだ。そして彼女を連れ出した。あの民家に強引に連れていき、また二人で生活を始めようとしたんだ。その頃のぼくは如月を遠くからでも見たくてファミリーホームの近くまで行くことが多かったので、下校中に旗手茂の車に無理やり乗せられた如月朋子に気づくのも早かった。
僕はもしかしたら旗手茂がまた如月朋子を見つけるのではと不安になっていたので、旗手茂がどこに住んでいるかは竜崎の父親から聞いて把握していた。なのですぐに後を追いかけた。
その民家にたどり着いた時。そうだ。あの時の僕は間に合わなかったんだ。如月を守ることができなかったんだ。
玄関には鍵がかかっていた。嫌な予感がして庭に回り込んだ。中を覗き込むと如月がしゃがみ込んで何かの物体の前にいた。窓を叩いても、声をかけても反応しない。
近くにあった石を拾って窓を割った。鍵を開けて中に入る。
そいつは、旗手茂は頭から血を流して倒れていた。如月の手には固い灰皿が握られている。僕が近づいても如月は全く気がつかなかった。肩を上下に震わせて、焦点の定まらない視線を落としている。呼吸が不規則で、目からも口からも液体が垂れる。
と、如月が灰皿をつかむ力を強めた。それを見て慌てて彼女の手から灰皿を取る。予感があった。彼女が自分自身を壊してしまうんじゃないかという予感が。
如月は頭を抱え込んで唸り声をあげながら身体を小さくする。彼女の身体に、髪に血が付着する。
このままではいけない。今度こそ彼女を守らなければ。彼女を苦しめるものを取り除かなければと思った。彼女の精神が壊れて手遅れになる前に。
そうして僕は旗手茂の死体を庭に引きずっていった。ケヤキの木の下に穴を掘りそこに埋める。血の跡を綺麗に消し、如月の身体についた血もシャワーで洗い流した。汚れた洋服も旗手茂の死体と共に埋めて、如月には家に置かれていた如月の服を、僕は旗手茂のもので自分に合いそうなものを着た。
如月が連れ去られたときに、その現場を見ている人もいた。おそらくすぐに連絡がいって警察官がここを探り当てるだろう。その前にすべてを無くさなきゃいけなかった。
僕は作業をしている間、如月は力が抜け落ちたように部屋の隅で壁にしなだれかかっていた。その目は虚ろで生気がない。
彼女の姿を横目で見ながらある異常な考えが頭に浮かんだ。それを振り払おうと頭を振るが、考えれば考えるほどそれしか方法がないように感じた。
僕は如月を連れてファミリーホームに戻った。警察官はすでに捜索を始めていたが、如月が「大丈夫です。なにもありませんでした」とファミリホームのおじさんとおばさんに告げたら、そこから警察に連絡がいき捜査は打ち切られた。
警察官は一度ファミリーホームに来て如月に色々と質問するが、如月が「大丈夫です」と言うと、訝しみながらも去っていった。
そして僕は竜崎に頼んでしまった。あの薬を如月に使用できないかと。すでに僕との思い出は忘れている。彼女がいま持っているのはファミリーホームでの記憶と旗手茂との記憶だけだ。このままその記憶を身体の中に残して置いたら彼女は耐えることができない。
昔お父さんが言っていた言葉を思い出す。人を苦しめる記憶を消して、未来に向かって一歩を踏み出せる薬。竜崎は不気味だったが、薬自体は良い目的のために開発されてきたはずだ。
僕の提案に竜崎は嬉しそうな反応を示し、交換条件を提示した。それは動画を撮影すること。
この薬を飲めば絶対にみんな幸せになれる。信じて欲しいと自信満々に主張したビデオを撮ること。
その動画を竜崎がその後どう利用するかは考えられなかった。だから簡単にその条件を飲んだ。
竜崎は言った。忘れないでね。今から起こることは全部君が始めたことだから。その言葉に曖昧に頷きながら僕は薬を受け取った。
なぜあの時に違う選択ができなかったんだろう。警察にすべての事情を話し、病院に連れて行けばそれで終わっていた。けれどそれでは如月を救うことができないと確信していたんだ。
僕が如月に薬を飲ませた後、竜崎は飲み物に薬を混ぜてファミリーホームの老夫婦、石黒、添島、僕の記憶を消した。
ファミリホームの老夫婦をその場に残し、竜崎は僕らを連れて旗手茂の家に向かった。
そして竜崎は僕たち四人と共に旗手茂の家で生活を始めた。それを楽しんでいた。旗手茂が育てた家庭菜園を引継ぎ、生活に必要な歯ブラシやら洗剤やら新しいものを揃え、僕たちを観察して反応を見て楽しんでいた。
僕たちが苦しんでいたのに、あいつは楽しんでいたんだ。
涙が出る。
悲しいだけでなく悔しい。そうだ。竜崎の言った通りだ。元々は僕のせいだったんだ。
身体から力が抜け落ちる。僕と如月はそのまま警察官に抱えられるように連れていかれた。
それから僕は警察官から取り調べを受けた。自分が知っているすべてを正直に話すように促された。自分が死体を埋めたこと。薬を如月に飲ませたことを自白した。
行ったことは正しいことではなかった。罪を償う必要がある。
如月も自分が殺人を犯したことを認めた。あの時、自分を守るためだったとはいえ暴力によって相手の命を奪ってしまったんだ。
竜崎もその父親も任意で事情聴取を受けた。この事件がすぐに明らかにならなかったのは、竜崎の父親が騒ぎが大きくならないように動き回っていたからだったらしい。
正当防衛による殺人、死体遺棄、薬物を強制的に飲ませた傷害罪。
僕らは未成年であり、情状酌量の余地があるとみなされて、保護観察処分になった。
最後に竜崎拓也に出会ったとき、父親と二人で遠くに引っ越すことになったことを告げられた。
「ほら。途中までは君に成り代われたでしょ」と笑う竜崎に嫌悪感が広がったが、今は竜崎が行ったことよりも自分が行ってしまった罪に向き合うことに必死だった。
保護観察処分の間、僕は一度石黒と添島に会うためにお父さんがかつて働いていた研究所に行った。彼女たちの記憶はまだ戻っていないらしい。アルツハイマー治療の研究を主に行っているので、失われた記憶も次第に戻ってくるだろうと告げられていた。
研究所の一室で石黒と添島とテーブルを挟んで向かい合う。
「どんな感じ?」石黒がぶっきらぼうに訊ねてきた。
「まあ、なんとかやってるよ」
僕はまた以前いた児童養護施設に戻って高校を卒業するまでは共同生活が続く。
「記憶はまだ戻らないの?」
「部分部分では思い出してるんだけどな、まだぶつ切り」石黒は悲壮感もなく笑った。「ゆっくりやるさ。焦ることもないって言われたし」
僕は添島を見る。ずっと気になっていたことを質問する。
「どうしてあの時直接警察を呼びに行ったの?」
添島は一度視線を下げたあと顔を上げた。
「私はメモを取るのが好きで、なにか起こったらいつも文字に変換していました。いつもノートを肌身離さずに持っていました。竜崎拓也がファミリホームに来たあとのこともノートに記していたし、その習慣は記憶がなくなったあとも残っていました。ノートはありませんでしたが、至る所に書いていたんです。それこそ自分の身体にも」添島は小さく自分の服を摘まんだ。「それで違和感に気づきました。何が起こっているのは詳細には把握できませんでしたが、記憶が何度も消えるという異常事態が起こり、それを引き起こしているのが竜崎拓也であることがわかりました。また電話ではだめだとわかったんです。電話では信じてもらえない。それは何度も何度もあの家から電話をかけて、警察が来たあとに竜崎拓也が悪戯電話だと説明していたからです。だからあの家からの電話には真面目に対処してくれないと思いました。竜崎拓也からも妨害される危険がありましたし。だから直接警察に行くことにしたんです」
記憶がなくなっても感覚や特質はその人の身体に残っているということだろう。
「どんなことを記録してたの?」
「もう身体に書いたものは消えてしまったし、柱や壁に書いたものも今お見せすることはできないのですが、とにかく色々なことです。改めて見返すと気持ちの悪い文面もあったと思います。やはり竜崎拓也が私たちの色々な反応を見ても我関せずで、どこか達観していて、それを喜んでいたことがよくわかります。あの民家で過ごしたのはおよそ一ヶ月間。おそらく竜崎拓也が予定していなかったことが起こるたびに私たちに薬を無理やり飲ませてやり直していたんでしょう」
その通りだ。僕の記憶の中にも無理やり口の中に薬を押し込まれて飲まされた記憶がある。竜崎は僕に馬乗りになって僕が何かに気づきそうなときはそれを防いだ。
僕が記憶を何度も失っていく中で自分の腹部にマジックで情報を書いていたこともきっと気づいていたはずだ。けれどもその反応すら見て喜んでいたんだ。
どんな気持ちで家庭菜園をして、どんな気持ちで竜崎は新しい歯ブラシやらを揃えたのだろう。
「あの薬はどうなるんだろうな」石黒が呟くように言った。
開発途中だった薬はこの事件をきっかけに大々的に報道されることとなった。この薬には大きな価値と将来性があると熱心に論じる人や、人間の記憶に薬で干渉するなんて間違っているという意見がぶつかり合い、社会ではこの研究を続けていくべきかの是非が問われた。
けれど一時的な熱はあっても、また別の事件が発生しその件が報道されるようになると、多くの人の興味は新しいものに移っていった。
あの時、あの瞬間は確かにあの薬が如月を助けた。救ったと思う。けれどそれが正しい判断だったのか今の僕には確信が持てない。
ただ、もしもお父さんが言っていたように、ただ嫌な記憶が辛い記憶が消えるだけなら、それで将来に向かって一歩踏み出せる人がいるなら、必要なものなんじゃないだろうか。
今日。僕は如月朋子に会う。
あの日、警察に僕ら二人が捕まってから二カ月が経過している。会おうと思えばもっと早く会うことはできた。けれど、会っていいのかどうか迷っていた。
結局僕は如月朋子を守れなかった。これまでただの一度も。幼い時はただ殴られただけ。そして次に再会した時も、ただ如月の記憶を消すと言う短絡的な行動によって逆に彼女を苦しめてしまった。もう彼女に関わるべきではないんじゃないかと感じた。
だから、如月朋子の方から会いたいと連絡が来た時に、嬉しい反面不安だった。
そして今日。彼女は僕が生活している児童養護施設に来る。約束の時間の十五分前から来客用のゲストルームの椅子に腰かけてそわそわしていた。どんな顔をすればいいんだろう。何を話せばいいんだろう。
彼女は僕のことをどう思っているんだろう。
物音がして視線をもたげると如月朋子が扉を開けて入ってきた。目の前に腰かける。
「久しぶりだね」彼女は笑った。
「そうだね。二カ月ぶりか」
「わたしとしては十年ぶりぐらいの気持ちだよ」
「ああ。そうかもね」
しばらく沈黙が流れる。
「ごめんね」如月は言った。
「なにが?」謝らなきゃいけないのは僕だ。
「わたし全部忘れてた。だからきっと沢山傷つけちゃったと思う」
「そんなことない。僕の方こそ守るなんて言っておきながら何もできなかった」
「沢山守ってもらったよ」
「なにもできなかった」
「わたしは何度も何度も守ってもらった」
如月はそう言って手提げ袋から飴玉が入った袋を取り出した。それは昔僕が彼女にあげた、僕が一番好きだった飴玉。可愛い包装に苺やオレンジ、レモンの味がある。
「なんで昔わたしにくれたか覚えてる?」
「一番好きなお菓子だったから。それを食べると僕は嬉しい気持ちになった。だから如月にも喜んで欲しかったんだ」
「わたしはそれが嬉しかったよ。わたしのことをそこまで思ってくれたことが嬉しかった。わたしのために殴られて、わたしと同じように鼻血流して」如月の目は涙ぐんでいる。「わたしはあの時に救われたんだ」
僕の目も熱くなった。
如月は言葉を続ける。「辛い時にさ。なに考えるかわかる?」
僕は黙る。
「あのね。体の中に風船に空気を入れるみたいに辛い感情が膨らんでいく。だんだん膨らんでいくと、どんな方法でもいいからそれに針を入れて破裂させたくなるの。ぐちゃぐちゃに壊したくなる。毎日辛いことが続くと、それを終わらせるためならなんだってできると思えてくる。でもね。ある時に、その気持ちすらなくなる。自分はぐちゃぐちゃにされる。壊されるために生きてるんだ。受け入れるしかないんだって思えてくる」そこで言葉を切って如月は小さく笑った。「でも、君に出会って変わったんだ。わたしの笑顔を喜んでくれる人がいる。わたしの隣にいることを望んでいる人がいる。その事実が、わたしを救ったんだ」
ああ。そうか。僕たちはあの時にすでに救われていたんだ。この先どんなことがあっても、辛いことがあっても、苦しいことがあっても、記憶を失ってすら前を向けるような救いの手をあの時にお互いに差し出して掴んでいたんだ。
僕も同じように笑った。
「ありがとう。僕も会えてよかったよ」
