ゆとり教育者のススメ#07〜「教える」に、正解はないーー問い直しつづける習慣を
教えるって、たぶん、誰もが体験している。
教員じゃなくても、後輩に何かを伝える。学校の中でも、先輩から後輩へ何かが渡る。経験者は、経験しているぶんだけ「こうやろうぜ」を持っている。だから、語りがあふれる。
主体性に任せろ。いや、ちゃんと1から教えるべきだ。これからはコーチングだ。いや、ティーチングの基礎が先だ。
情報が増えるほど、「で、結局どれが正解なの?」が膨らんでいく。あっちの情報がいい、こっちの情報がいい。教員も、保護者も、そのたびに少しずつすり減っていく。そもそも「教える」が、よくわからない状態になっている。
「学校」の回と「学ぶ」の回では、法律を足場にして、足元を固めてきた。学校教育法。教育基本法。条文という、動かない地面があった。
でも、今日は少し毛色が違う。今日は、その足場の外に出る。「教える」には、法律という地面がない。だからこそ、誰もが好き勝手に語れて、ノイズになる。そのノイズの中から、「教える」をもう一度、自分の手に取り戻したい。
語源は、最初から決めていなかった
足場がないなら、別のところに足をかけてみる。今回は、言葉そのもの。educate の語源をたどってみた。
educate のもとには、ふたつの祖先が同居している。
ひとつは ex + ducere =「外へ + 導く」。つまり、引き出す。
もうひとつは educare =「養う・育てる・はぐくむ」。つまり、与える。
「引き出すのが教育だ」。これは、しっくりくる人が多いと思う。自分もそうだった。コーチングだ、主体性だ、というニュアンスとも相性がいい。
ところが、面白い捻れがある。自分があまり好きじゃなかったほうの「育てる(与える)」が、同じ語源の根っこに、こっそりいる。
つまり、educate という言葉は、最初から「引き出す」と「育てる」の両方を抱えていた。そして、どちらか一方には決めていない。
片方に決めたがるのは、後世の人間のほうだ。語源は、「どっちかにしろ」とは一言も言っていない。
ここで、肩の力が少し抜けた。そもそも「どっちが正しいのか」という問いの立て方が、最初からずれていたのかもしれない。
「放置は無責任」——ある方に、そう返された
ここからは、現場の話。少し、声を落としたい。
総合学習や探究で、マイプロジェクトのようなものに取り組む。そのとき、生徒が出してくるアイデアが、どうにもありきたりになる場面がある。
正直に告白すると、それを一度、「生徒の主体性が足りないからだ」と、子どものせいにしかけたことがある。もっと主体的になってもらわないと、と。——これは、楽なのだ。自分の側の話にしなくて済むから。
でも、以前ある方に、こう返された。
放置は無責任ですよ。教わっていないものを、できるわけがないでしょう。
ハッとした。確かに、そうなのだ。
引き出す、というのは、放っておく、ではなかった。一回、こちらから開けてあげないといけない。「この引き戸は、こうやると、すっと開くんですよ」。その最初のひと開けは、外から渡すしかない。
引き出すは、放っておく、ではない
引き出すには、放置とは真逆の、膨大な準備と関与がいる。
どんな前例があるのか。同年代が、どこまでやれているのか。どう調べ、どう磨くのか。渡すべきものは、死ぬほどある。
しかも、渡し方は相手で変わる。小学生に「この引き出し、開けてごらん」と言っても、そもそも開け方を知らない。だから、開け方そのものを渡す。高校生なら、たぶん一度は開けたことがある。だったら、引っ張り出さなくていい。「そこに、何かあったんじゃない?」と、思い出すきっかけだけを置く。
たとえば、筆を使ったことがない子に「がんばれ」と声をかけても、しょうがない。「筆って、こう使うんだよ」「Aパターン、Bパターン、Cパターン、こういうのがあるよ」。それを先に渡しておく。すると、その範囲の中で動けるし、そこから初めて、はみ出せる。
数学の二次方程式もそうだ。解の公式を、0から子どもの中で導き出しなさい——それは、待っていても湧いてこない。ここは、与えるしかない場面。先に方法を渡したうえで、「ここから、どう使える?」とつなげていく。
適度な制約は、選択肢を絞る。でも、絞られた中でこそ、自由度はむしろ立ち上がる。まっさらの自由は、案外、何も生まない。
どちらの極も、振り切った瞬間に嘘になる
ただ、ここで終わらせたくない。逆もまた、真なのだ。
レールを敷きすぎると、今度は逆の問題が起きる。この道を、きれいに進みましょう。この線からはみ出してはいけません。——そうなった瞬間、それはもう引き出すではなく、押し付けだ。予定調和だ。
何も伝えずに刃物を渡して、「主体的に使い方を考えてごらん」と言うのは、引き出すではない。ただの危険だ。基本と安全という前提は、必ず渡さないといけない。
スマホもそうだろう。0ルールで放り渡すのも、たぶん違う。「この使い方しか許さない、破ったら取り上げる」と縛り切るのも、たぶん違う。脱獄するように、どこかでひずみが出る。
放置は、無責任。過剰なレールは、支配。どちらの極も、振り切った瞬間に、そこに嘘が混じる。
ここで、「主体性」も一度、問い直したい。放置の言い訳に使われる「主体性」と、渡すべきものを渡したうえで初めて立ち上がる「主体性」は、別物だ。主体性は、与えない理由ではない。
「教える」は、その都度の選択だった
では、正しい場所はどこか。両極の、ちょうど真ん中——とは、言わない。中点を探す話ではないからだ。
そうではなくて、毎回、どちらに振るかを選び直している。それが「教える」の本体だと思う。
二次方程式の公式は、待っても湧いてこない。だから、与える。一方で、答えを言いかけて、ぐっと飲み込んで、黙って待つ場面もある。だから、引き出す。
この、与える側に振るか、放す側に振るか。ほんの0.5秒のあいだに、毎回、選び直している。
これは、「選ぶ」の回で話したことそのものだ。教えるは、固定された方法ではなく、その都度の選択。
そして、選ぶには「半歩引く目」がいる。いま自分は、与える側に振れているのか。放す側に振れているのか。その手元を、半歩引いて見る目。これがないと、自分がどちらに傾いているかすら、わからない。
正解がないから、問いつづける
「教えていいんだっけ?」
この問いは、たぶん、手放しちゃいけない問いだった。
どれくらい言っていいのか。どれくらい手放していいのか。そこに、決まった正解はない。「こんな子には、こういうアプローチが正解」と言い切る人が、最近どんどん増えている気がする。そして、それに引っ張られ、振り回されている人も、たぶん多い。
でも、そんなものは、ない。
正解がないからこそ、問いつづけている人が、たぶん一番ちゃんと教えている。やりっぱなしにせず、「あれ、今回のあれ、よかったのかな」と、半歩引いて考えられる人。
だから、最後に、ひとつだけ。
あなたは今日、与えすぎていただろうか。放しすぎていただろうか。どっちに振れていたか、半歩引いて、見えるだろうか。
「学校」「学ぶ」「教える」と続けてきた「そもそも編」は、今回でいったん締める。次は、もう少し外へ。越境や、教育者としての「在り方」のほうへ、うろうろしていこうと思う。
最後に
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