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唐揚げ時々チキン南蛮


猪木か蝶野か父さんか

学生の頃、周りの友人たちが親から叩かれたことがないと知ってとても驚いた。なぜって当時の私は、親は叩くものと思っていたから。父は叱るときに手を挙げる人だった。鼻血が出たこともあったし、姉のメガネが吹っ飛んだこともあった。その次、姉が盛大に叱られるときに父が「メガネ外せ」と言った。そうだね、メガネ外したら吹っ飛ばないもんね…。いや、そういう問題じゃない。メガネ外せ=平手打ちなんだから予告した上で平手打ちなんてアントニオ猪木か蝶野正洋くらいしでしょう。〝昭和〟がそうさせていたのかもしれないが、同世代の友人たちが叩かれたことがないと言っていたので時代のせいではなさそう。母からは「お尻出しなさい!」と言われ〝お尻ぺんぺん〟されたことがある。〝お尻ぺんぺん〟脅しではなく実際にやる人いるんだ?!と思いました?いるんです。されたお尻がここにある。そんなことも、もう30年以上前の話。両親は75歳になりました。

このエッセイはそんな〝昭和〟の代表みたいな父の思い出話です。

「先生!」

父は中学校で教員をしていました。当時の学校といえば、職員室で先生がタバコを吸っているような時代で、竹刀を持って歩く体育教師が本当に存在した時代。
我が家は父、母、姉、私という家族構成で父ひとり男だからか、昭和の男だからか、父は家庭では本当に無口だった。「あー」「うん」「お茶」「タバコ買ってきて」「メガネ外せ」…あ、最後のは一回きりしか言っていないけど、本当にそれくらいしか発さない。無口な上に怒るとめちゃくちゃ怖かった。父に怒られる案件が発生したらもうこの世の終わりかくらいに思えた。いや、少し盛ったけど、姉が何か怒られそうなことをしでかしたら『怒られる姉』と『怒る父』を見たくなくて(おまえー!なにしてんだよーーーー!!!!)と脳内では父より先に私が姉をどつき回していた。
そのせいか気安く「お父さん」と呼ぶことにも勇気がいって、なるべく「お父さん」と呼びかけないで済むようにしていた気がする。父の許可が必要な場合には母を経由してみたり、一回母の様子を伺ってみたりしていた。そんな私はとうとう家で父のことを「先生!」と呼びかけてしまった。居間でタバコの煙をくゆらせ、テレビを見る父に向かって「先生」と呼びかけた。一瞬空気が凍り(あ、これ「誰が先生だと?!」って怒られるやつ。。。泣)と思い慌てて訂正した。

「あ、間違えた。お父さん…」

父は、ニヤッとして「あぁ?」と返事をした。

最初で最後の授業参観

小学校5年生、今思うと人生で一番ヒヤヒヤした1年間だった。

5年生になり担任の先生から「おい、なつきの父ちゃん知ってるぞ」と言われた。担任は、以前父が勤めた中学校の真横にあった小学校に勤めていたらしい。中学校教員と小学校教員がどのタイミングで親交を深めたのかわからないが、二人は気が合ったらしく仲が良かった。
最悪だ。当時100万人を越える人口の市で「担任とお父さんが友達」なんてことが起きるとはつゆほども思っていなかった。

私が小学生5年生の頃は土曜日まで授業があった。授業参観が何曜日に行われていたかは忘れてしまったが、父は仕事があったのでまず授業参観に来ることはなかった。正直、父に来て欲しいと思っていなかったので父が来ないことに対してなんとも思っていなかったし、当時は〝母親〟が来ることが当たり前の時代だったので違和感も抱いていなかった。
ところが父が授業参観に来ることになった。理由は「担任の授業が見てみたいから」だった。実に父らしい。
そして、当日がやってきた。
父は授業にやや遅れてやってきて、参観する他のお母さんたちの前を通りど真ん中に陣取った。ちょっとざわつく教室。「誰?」「お父さん?誰の??」というヒソヒソ声が聞こえる。これだけでも私は身を凍らせていたというのに、授業中に担任は父に話しかけ、みんなに父を紹介し、父と談笑し始めた。
その後の記憶はない。
あれが、最初で最後の授業参観だった。

バイバイ おじちゃん またきてね

父が現役で働き盛りだった頃、仕事帰りに何かにつけて飲んで帰ってくるということが多かった。部活の顧問もしていたので休日も部活の指導で家を空けることが多かった。
そもそも教員は一般的なサラリーマンよりも始業が早いので、家を出る時間も早い。そして、飲んで帰ってくるので帰宅は遅い。
母は、今でいうワンオペだった。娘たちは父に世話してもらった記憶はほとんどない。幼い頃の写真には父と娘が一緒に写っているものが圧倒的に少ない。当然、父がカメラマンということもあるが、幼少期の思い出に〝父〟が少ない。

そんな我が家を象徴するエピソードがある。
娘たちが寝てから帰宅し、起きる前に出勤していく父。たまに会った父に娘がこう言い放った。

「バイバイ おじちゃん またきてね」

当時の父はどう感じていたのだろうか。きっと「はんっ」と吐くように笑い出勤して行った気がする。こんな時はこんな顔をする、こう言ったらこんな反応があるー今はそれがまざまざと想像できる。当時の娘たちの記憶に父はあまりいないけど、娘たちの頭の中にはそんな父の少ない反応の一つひとつがしっかりと刻まれている。

danchu

父は『danchu』という雑誌を読んでは作ってみたいと思った料理を作ることがあった。おしゃれ料理雑誌の影響かラーメンをスープから作ったり、家で燻製をして家中燻製の匂いになったりしたこともあった。
そんなある日、食卓に父の手料理が並べられた。そこには見たことがない料理が。私が小学生の頃のことだから、うろ覚えだがヨーグルトに何か混ぜてあった。見た目は美味しそう!と思えるものではなかったが、姉はこともあろうか「なにこれ。美味しいの?」と言った。それを隣で聞いていた私は、すぐさま脳内で姉をどつき回した。これは父の逆鱗に触れるやつだと思った。そう。これがあの〝メガネ外せ事件〟である。

時々、料理をする父であったが、定年退職とともに毎日の食事を母に代わって父が作るようになった。この時には、私は実家を出ていたのでどのような流れで料理担当が完全に父にシフトしたのかは知らないが、いつしか昼食と夕食は父が作る、食材の買い物も父が行くということになっていた。この時にはインターネットでレシピを検索し、一般家庭で食べられるような家庭料理を作るようになり、それが美味しかった。
父が料理ができなくなり母が何度も言うことは「もうお父さんの料理が食べられない」だ。悲しむところそこ?と思うが、確かにそれくらい美味しかった。

唐揚げ時々チキン南蛮

私は夫と結婚したのが遅かったのでなかなか子どもを授からなかった。今現在も夫と二人暮らしをしている。それはそれで、毎日が楽しい。でも、子どもがいたらもっと楽しいのではないかと思っている。
そんな私たち夫婦は2年前まで東京の離島に住んでいた。島には3年間住んでいたけど、その3年という期間私たち夫婦は不妊治療をしていた。
島には小さな診療所しかないので、島では不妊治療は受けることができない。では、どうしていたのか。不妊治療でホルモン注射や採卵などが必要になる時期に私は島を出て実家に居候していた。だいたい1週間ちょっと。ほぼ毎月だ。そして、夫の通院が必要になると夫も島を出て、私の実家に居候した。

我が家には男の子どもがいない。そのせいか、両親の頭には〝一般的な男子像〟しかない。それがどういうことかと言うと「男の子は肉を喜ぶ」だ。何十年も前のことだが、当時姉のパートナーが実家にやってくると、その日の食事は毎回〝焼肉〟だった。当時は、父もまだまだ肉食い盛りだったこともあってか〝焼肉〟だったが、私たち夫婦が定期的に実家に居候するようになった数年前は父もすでに70を過ぎており、肉の定番メニューの座が〝焼肉〟から〝唐揚げ〟に変わった。唐揚げは、いつも胸肉だった。母がお肉が苦手であることや胸肉の方が安価に手に入りやすいということがあったのだろう。胸肉の唐揚げが父の定番メニューになった。
それはつまり夫が実家に着く当日は90%くらいの割合で唐揚げが出されるということだ。父なりの歓迎の証だったのかもしれない。毎回毎回〝唐揚げ〟で歓迎されていた夫だが、いつも「美味しいです!」とモリモリ食べてくれる。夫のその気持ちが私は嬉しかったし、きっと父も嬉しかっただろう。

ある時の夫を迎える前日の夜のこと。
いつも通り私と両親で夕食を食べながら、明日の夜ご飯は何がいいかと話していると母が「いつも唐揚げじゃない?」と言った。いつもなら「唐揚げ?」と父がぼそっと言い、私の方をチラッと見る。「うん、ありがとう」と私が答えて終わる会話だった。そこに母が一石を投じた。

「いつも唐揚げじゃない?」

そうだよ。そうなんだよ。いつも唐揚げなんだよ。いつも唐揚げになっていることに今まで気づいてなかったのか!唐揚げじゃなかったら、一体どんな肉料理になるんだ!とんかつかな。案外、焼肉?まさか、もう焼肉はないか・・・そんなことを考えていたら母がこう言った。

「チキン南蛮は?」

それは、だいぶ唐揚げよりじゃないか?むしろタルタルがあるかないかの違いでそれはもうほぼ唐揚げ…。
この日から夫を迎える日のメニューは、唐揚げ唐揚げ唐揚げチキン南蛮唐揚げくらいのペースでチキン南蛮が登場するようになった。

夫が実家に到着する日、私たちは決まってこんな会話をした。
私「今日の夜ご飯はなんでしょう」
夫「唐揚げ!」
私「残念!今日はチキン南蛮ですー」
夫「そっちかー」

父 朝倒れて 救急車

2025年1月12日、父が脳梗塞で倒れた。
生活習慣病の代表みたいな人で決して健康とは言えなかったので、いつか倒れるかもしれないと思っていた。思っていたけど、やはりそれは突然だった。

あの日、私は夫と海にいた。
私がシーグラスを使ってハンドメイドをしているので、その材料の調達も兼ねて冬の海に繰り出した。朝から何時間もかけてドライブして、お昼ご飯のおにぎりをトンビにさらわれて大笑いしたり、無心でシーグラスを拾ったりして、では帰ろうかというその時に母からLINEが来た。

父 朝倒れて 救急車
○○病院 入院
検査 手術
脳梗塞

左側の太い血管から脳に行く血管つまり
他にもあちこち詰まっていたらしい
プラークたくさん取れた
こんなにたくさん取れるのは なかなかない

左側の脳なので 発語 感情系なので どこまで回復するか

右側に マヒ 残るかも

来週また 細くなっているけれど広げる手術 予定

様子見てから

当日の母からのLINE(文字間、行間もそのまま再現)

母はいつも文面が電報みたいになるが、いつにも増して電報でツッコミどころ満載だった。

帰りのスタートは私が運転するよ!と私が運転席に座っていたのに、このLINEを読んだら震えて運転どころではなくなってしまった。
「お父さん、倒れたって」と夫に伝えると、夫が「え」と驚き車内がしんと静まり返った。状況を言葉で伝えられなかったので母からのLINEをそのまま夫に読んでもらった。夫は運転を変わってくれて、帰りは何時間も夫が一人で運転してくれた。でも、その横顔はとても動揺していて、緊張していて、私のために気丈にいようとしてくれているのがよくわかった。
夫、本当にありがとう。

翌日、姉と母と夫と病院に集合した。ドラマであるような「今週が山です」がまさか自分の身に、自分の身内に起こるなんて思ってもみなかった。父の左脳は大部分が梗塞していた。脳は梗塞した後、その部分がむくむそうだ。梗塞した範囲が広い分、むくむ範囲も広くなっていて、そのむくみによって脳幹が圧迫されるかもしれない、もしそうなったら植物状態になるか、そのまま息を引き取るかーむくみは発症後1週間がピークなのでまさに「今週が山です」だった。
家族は1週間毎日病院に行った。酸素マスクをつけ眠っていて起きない父。顔は薄黒く、やや紫がかっていた。
多分、あの1週間、人生で一番「お父さん」と呼びかけた。

父は植物状態になると宣告されたにも関わらず驚異的な回復を見せ、左手で自分で食事をするほどになりました。ですが、左脳の大部分が梗塞したことで、右半身麻痺と重度の失語症という後遺症が残りました。
父は今のところまだろくに話ができません。

父へ

あれから、半年弱。私たち家族は怒涛の日々を過ごしてきました。多分、今までの家族の歴史の中で一番結束し、一番気持ちを共有し、一番同じ時間を過ごしました。あんなに怖くて、無口で、幼い頃の記憶にほとんどいない父なのに、私たち家族の真ん中には確かに父がいたのだと実感しています。

私は父が倒れてからの1週間ご飯が食べられなくなりました。それを母と姉に話したら、母から「あなたお父さんのこと好きだったの?」と言われました。なんてことを聞くんだと思ったけど、母らしいですね。
怖くて、無口で、父に何か言って欲しいと思う時もなかなか口を開かない父が苦手だと思っていました。でも、それは苦手ではなく寂しかったのだと、今は思っています。父が倒れる前、ぽつりぽつりとLINEをくれるようになりましたね。嬉しかったです。

そういえば、母は父の笑った顔が可愛くて好きだそうです。
私にはちょっと〝可愛い〟は理解できないけど…
私もまた父の笑った顔が見たいです。

いつか話せるようになったら「余計なことを書くな」とコテンパンに叱られる覚悟でこのエッセイを書きました。
怒らないでね。
先生。



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なつき希 最後まで読んでいただきありがとうございます。 あなたのサポートで、つまづいてもまた起き上がれそうな気がします。