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書き続けているもの〜なぜ私は書くのか〜

「なぜ、私は書くのか」この問いをnoteで見つけた時は衝撃的だった。

私にとって「書く」は、子どもの頃から当然のようにそこにあった行為だったからだ。
初めてエベレスト登頂は果たした登山家が「なぜ山に登るのか」と問われ「そこに山があるから」と答えたエピソードはあまりにも有名だが「なぜ書くのか」と問われたら私はなんと答えるのだろうか。

自分の「書く」について紐解いてみることにする。

「書く」のはじまり

私の母は、実家が本屋を営んでいたこともあってか自他ともに認める本の虫で、父からは「トイレは母の読書部屋」とも言われている。
新聞をとっていた頃は、はじからはじまでくまなく読んでいた。
もはや活字中毒と言ってもいいかもしれない。
そんな母は物書きになるのが夢で、新聞にもよく投書していた。
いつだったか、うん十年前の話だが新聞の「女の気持ち」というようなタイトルの投書欄に母の文章が載ったことがあった。
母は、たいそう喜び記事を丁寧にパウチして保存し、その「女の気持ち」が冊子になった時には一人で何十冊と仕入れ、周囲へ嬉しそうに配った。

ある日、私が夜中見た夢の続きの物語を自分で作って母に語った時のこと。
母は、私の夢の話を聞いて褒めちぎり、見事親バカが爆誕した。

母は私に夏休みには読書感想文の課題図書を全冊読むことを勧め、それ以外にもとにかくたくさん本を読ませた。

ことあるごとに祖父母や親戚に手紙を書かせ、こども新聞を購読するようになると私にも投書を勧めてきた。

これが、私の『書く』の始まりだった。

「書く」で調子に乗る

中学生になりいわゆる「論文」を書くようになった。

私が住んでいた地域には当時、運動会には連合運動会、文化祭には弁論大会という具合に、各校から選ばれし者が参加する市の大会があった。

文化祭では〝弁論〟があり、蒸し暑い体育館で硬い床に体育座りをし、クソ真面目な弁論を聞くという時間があった。
そんなことよりも「巨大迷路」とか「お化け屋敷」とかやりたいお年頃なのに。

この弁論は、物申したい人が自ら立候補するのではなく「国語の授業で論文を書かされ、校内の先生達がよく書けている生徒を各学年1名選出し、文化祭当日に全校生徒の前で弁論をさせる」というものだった。

「〜書かされ」「〜させる」と書いてしまっていることに嫌々感が滲み出ているが、この弁論に意欲的に参加していた生徒はほとんどいなかったと思う。

私は「差別のない世界へ」というタイトルの論文を書いた。

同じクラスで、同じ部活の友達に母親のことを〝オモニ〟と呼ぶ人がいた。
仲が良かったので家に遊びにいくこともあり、彼女のルーツが朝鮮であることは知っていた。

(当時は「在日朝鮮人」などと意識はしていなかったので、かなり後になって「あ、彼女は在日朝鮮人だったのか」と思い至った)

当時は朝鮮人学校の生徒のチマチョゴリが電車内で切りつけられたり、チマチョゴリを着た通学中の生徒が石を投げられたりなどというニュースが目立つ頃だった。

母を「オモニ」と呼ぶ私の友達は周囲にとても優しく、明るい人だった。
この友達の影響もあり、当時中学生の私は歴史などお構いなしでその時の思いを論文に書いた。

『「みなさんは、バカでもチョンでも」という言葉を知っていますか』
これが私の論文の書き出し。

『私には朝鮮人の友達がいます』と弁論で彼女の人間性や〝オモニ〟の優しさを語り、今を懸命に生きる人をどんな理由であれ傷つけてはいけないんだと訴えた。

そして、それが学年代表に選ばれることになる。
学年代表に選ばれるということは、必然的に市の弁論大会に出場するということである。

これを当人の私より喜んだのは両親だった。
母は先に書いたように自分の文才が娘に受け継がれたとでも思うようにテンションが上がり、中学校の国語教師をしていた父はどこをどう担任から修正されたのかを聞き、私が構成のアドバイスをされた程度と知りとても誇らしげだった。

さらに、あろうことか私は市の弁論大会で最優秀賞をとった。

大々的に表彰され、トロフィーと賞状をもらい、冊子に名前が載り
後にも先にもこれほど褒められたことはないだろうというくらい褒められた。
両親の手により、いろんな人に冊子が配られ、たくさんの感想をもらい、大人達はこぞって褒めてくれた。

父に関しては、自分の娘の論文を自分の国語の授業の教材として使い、授業では私の論文のビデオを見せていた。
同じ中学生として〝先生の娘〟のビデオを見せられる・・・「なんの時間??」だっただろうなとなんだか申し訳ない気持ちだった。

この論文を文化祭で発表したとき、会場には〝オモニ〟も来ていた。
〝オモニ〟は、私の弁論を聞いて涙し、友達も涙を流しながら「ありがとう」と言ってくれたのを覚えている。

差別をする人に私の言葉が届いたわけではないが「私の言葉で救われたと思う人がいるんだ」「私の言葉で生きるのがほんの少しでも軽くなる人がいるんだ」と思えた瞬間だった。

そしてこれが、私の人生において「書くこと」について完全に調子に乗らせた出来事である。

「書く」を贈る

「あなたの良いところ」を口頭で伝えるのはなんだか恥ずかしい。
伝える方も、伝えられる方も気恥ずかしくなり口ごもってしまったり、茶化してしまったりすることが多くある。

私は、調子に乗った中学時代の経験から「まっすぐ伝えれば届く」と思っている。これは、今も変わらず思っている。
だから、ちゃんと気持ちを伝えたい時には、気恥ずかしくなって口ごもってしまわないように、必ず「手紙」を書くようになった。



高校生の頃、ポケベルが爆発的に流行った。
広末涼子さんが「る〜るるる る〜る〜るるる」と鼻歌を歌いながら滑り台を滑り降りるCMは今でもよく覚えている。
ポケベルは数字の羅列で文字を表す。
数字が苦手だということもあったが、その爆発的な流行の中でも私は友達に「文字」で手紙を書き続けた。

社会人になり職を転々とし、後に長くお世話になる職場である小学校で私の「書く」ことに影響をあたえる方々に出会うこととなった。

長期休みに入る前に教職員全員に手紙を送ってくださる校長先生
私は小学校で介助員として働いていた。当時の校長先生は教員だけでなく介助員の私のこともよく見ていてくださり、日々の仕事ぶりを称えた内容のお手紙を贈ってくださった。
私のような下っ端の職員のことも「○○が素晴らしかった」「あなたのおかげで〜」と、長期休み前にそのお手紙をもらうたび背筋を伸ばし、また頑張ろうと思えたのを覚えている。

仲の良かった先生
この先生は、研究授業や運動会や学芸会などの大きなイベントが終わるたびにその主であった先生にお手紙を書いていた。
私とその先生は、日々バカ話ばかりする間柄で私がこの先生から手紙をもらうことはないと思っていた。
ところが、先生が異動することになった年、最初で最後の手紙をもらった。

「言葉というのは便利なようで不便なものです。あなたに伝えたいことがたくさんあるのに何ひとつきちんと伝えられた気がしない」

これはその手紙にあった一文である。名言。

尊敬する大好きな先生
ともに特別支援教育に奔走した先生で、私が退職する日に手紙を送ってくれた。
感謝と私の人生を応援するという気持ちがたくさん詰められた手紙だった。
「親愛なる〜」ではじまり、「あなたの同志」で締められている。
今でも読み返すと泣きそうになるが、退職後しばらくはこの手紙を読んではボロボロ泣いていた。
こんなにも愛が詰まった手紙は初めてだった。

私はこの手紙達に支えられ、自分のいる場所で頑張ってくることができた。
言葉を贈るということがどれだけ人に力を与えるのか身をもって経験させてもらった。

なぜ、私は書くのか

私にとっての「書く」を紐解いてみると、私は誰かを応援したいのだと思った。

私が人生初めての弁論で友達と〝オモニ〟を少し救えたように
私が贈ってもらった先生方からの手紙に背中を押してもらったように。

私は「書く」時にはいつもどこかの誰かを思い描いている。

算数障害の話を書いた時には、どこかで困っているかもしれない子どもたちを。

3年暮らした島のことを書いた時には、島で出会った人たちやこれから島に行きたい人たちを。

毎日の日記を書く時には、毎日が憂鬱だと思っている人のことを。

私は「書く」ことで、どこかの誰かの背中を押したり、暗い日常に一瞬笑いを生み出したり、踏み出せない一歩のその背中を押したいのだ。

そうだ。
私は、文字を通して今読んでくれているあなたの応援団になりたいと思っている。

だから、今日もあなたに贈るエールを書き続けている。


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なつき希 最後まで読んでいただきありがとうございます。 あなたのサポートで、つまづいてもまた起き上がれそうな気がします。