もう雨は止んだのに、ずっと傘をさしているような
帽子を目深に被るように傘をさしていると、雨がまだ降っているのかどうかわからなくなる。
冬のあいだの乾燥が嘘のように、週に何度も雨が降っている。むかしは雨が降るたびに頭痛が酷くて引きこもっていたが、少しずつ体調が落ち着くといつの間にか雨の日が好きだと思えるようになった。
しとしと降る雨のなかを傘をさして歩くのは煩わしくてどこか楽しい。ノイズキャンセリングイヤホンで音楽を聴いていても、パシャパシャと自分の足音が大きく聴こえてくるような気がする。
ふと気がつくと、足元ばかり見ている。傘の曲がった持ち手を握るのではなくて、骨組みに近いところを肩に乗せて。深く深く前も見えないほど、視界が傘でいっぱいになる。
ふわっと風が吹いて傘が浮くと、向かいの道を通るひとが見える。その手に大きな傘はなく、ぷらぷらとのんびり歩いている。
土砂降りでもスーツが濡れない大きくて真っ黒な父の傘を借りてきていたわたしは、そこでようやくもう雨が降っていないことに気づく。
いつから止んでいたんだろう。まったく気がつかなかった。5分前なのか、10分前なのか、もしかしたら家を出てすぐに止んでいたのかもしれない。
今までのわたしの人生だ、と思った。雨が降っていようが止んでいようが、大きくて真っ黒な傘を深くさして、足元を見てまっすぐ歩く。目的地に向かってただただまっすぐ、外のようすなんて見ないで歩く。
もう雨は止んだ。まだ日差しが出てくるほどじゃないけれど、この傘はもう閉じていい。重たい傘をカツンカツンと杖にして歩く。湿った風に海の匂いが混じる。橋の上から遠くの山に青空がのぞいている。こんなにもきれいな道だったのか。
家に帰ると、母がスープはるさめをわたしにと手渡してくれた。お湯を沸かして注いで蓋をして3分。もわっとした湯気のなかから引き揚げた麺をちゅるちゅると啜る。
むかしのひとは、春の雨を見てこれに春雨とつけたんだろうか。春の雨、こんな感じだったっけ。ついさっきまで雨のなかを歩いていたはずなのに、そんなことも思い出せない。雨なんて見ていなかったのだ。
次に雨が降ったら、この時期の雨がほんとうに春雨に似ているのか確かめに行こう。雨が降っていなくても、もっと景色を堪能しよう。
今のわたしは、もう視界を遮って自分を守らなくても生きていけるのだ。晴れでも曇りでも雨でも、外の景色を楽しみながら生きていける。それでも大丈夫だと思える。静かな変化に、嬉しくなった木曜日。
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