だから僕はGoogle Fitbit Airをやめた

もともと自分の体調を測定するツールとして、Oura Ringを使っていた。指輪型なので普段の生活では気にならないし、睡眠や体調のデータもちゃんと取れる。気に入っていた。

ただ、ウエイトトレーニングをするようになってから、指にリングがあることがどうしても気になり始めた。バーベルやダンベルを握るとき、リングが気になる。地味だけど、トレーニングのたびに気になるストレスだった。

かといって、Apple Watchに乗り換える気にはなれなかった。
生活のあらゆるものをデジタルデバイスに置き換えていくことに、少し抵抗があったのだと思う。

そんななかで見つけたのが、Google Fitbit Airだった。腕に着けるけれど時計ではない。トレーニングの邪魔にもならない。「これだーーー!」と思った。実際、使い始めた最初の印象はかなり良かった。

使ってみてわかった、おせっかいさ

でも、使い込むうちに違和感が積もっていった。一言でいうと、おせっかいがすぎる

具体的にどんなおせっかいなのか、いくつか例を挙げてみる。

ある朝、レディネス(体調スコア)が低かった日、AIコーチはこう通知してきた。

「今日の筋トレは延期して、体の回復を最優先にしましょう」 「無理を重ねるより、一度しっかり休むことが、結果的に目標達成への近道になりますよ」

同じ日の夜、実際には軽い自転車移動をしていたのだが、それに対しても評価が入る。

「移動のペダルを軽く抑えられたのは、賢い選択ですね」

そしてこちらが特に「アドバイス通り」に行動したつもりはなく、たまたま予定していた週3回の筋トレをこなしたときは、こう返ってくる。

「予定通りの3回目、やり遂げましたね」

逆に、体を休めた日には、

「無理せず体を休める選択、正解でしたね」 「あえて『動かない』という賢い選択をした一日でしたね」

というふうに、こちらの一挙一動に対して逐一「評価」が下される。休んでも動いても、必ず「賢明な判断」「正解」という採点用語が付いてくる。まるで生活そのものが、コーチによる採点対象になっているような感覚だった。

こちらの行動の理由なんて向こうは知らないはずなのに、常に「あなたは私(コーチ)の言う通りに動いている」という前提で語りかけてくる。そこはかとない上から目線を、いたるところで感じた。

テクノロジーが「よりよく生きる」を規定してくる気持ち悪さ

これは単なる好みの問題ではなく、もう少し根本的なところに引っかかっている。

テクノロジーは本来、よりよく生きるための道具のはず。でも、Fitbitのこの体験は逆で、「よりよく生きる」という物差し自体をテクノロジー側が握り、こちらに当てはめてくる感じがある。主体はユーザーではなく、常にアプリやコーチの側にある。そのことに、ものすごく気持ち悪かったし、自分という存在が尊重されていない感じを受けた。

これはデバイスのハードウェアの問題ではない。実際デバイスは価格の割にいいものなのだと思う。
ただし、彼らが設計している「体験」そのものが気持ち悪い。少なくとも僕には合わなかった。

アプリの完成度自体も、正直まだ低い

体験設計の話とは別に、実装面でも不満は多かった。

  • データがちゃんと取れていないことが頻繁にある

  • 手動で修正しようとしても、直せる項目は一部だけ

  • AIコーチとの会話も、まだお世辞にもレベルが高いとは言えない

  • 充電中も、充電が終わったあとも、何度も「着けてください」という通知が来る

特に最後の通知の執拗さには、「できるだけずっと身につけていてほしい」という、Fitbit側の一方的な思いのようなものを感じてしまう。ユーザーの生活のためというより、デバイスを稼働させ続けたいという都合が透けて見える。

Oura Ringは、もっと「一歩引いた」距離感だった

振り返ってみると、Oura Ringのコミュニケーションはもっと控えめだった。データは見せてくれるし、示唆もくれるけれど、あくまで一歩引いたところに立っていて、行動の主体はずっとユーザー側にあった。

アプリの体験も含めて、「生活がデバイスに侵食されている」という感覚がなかった。それは、指輪という物理的な軽さだけでなく、コミュニケーションの設計そのものの違いだったのだと、Fitbit Airを使ってみて初めて気づいた。

だからやめた

トレーニングの邪魔にならず、時計もアナログのままでいたい。そんな条件で選んだGoogle Fitbit Airだったけれど、結局やめることにした。

理由は、ハードウェアではなく体験設計にある。おせっかいなアドバイス、上から目線のフィードバック、執拗な通知。そして、それを支えるアプリの完成度もまだ発展途上。

テクノロジーには、もっと「一歩引いた」距離感があってほしい。主体はあくまでユーザーであるべきで、デバイスに生き方を規定される感覚は、僕にはどうしても馴染めなかった。

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