イージー♡ライター|第一話 イージー♡ライター
この話の音。
奥田民生「イージュー★ライダー」
2006年、春。
西高フォークソング部の部室は、いつも少しだけ湿っていた。
古いギターケースの匂い。
誰かが置きっぱなしにした制汗スプレーの匂い。
黄ばんだコード譜。
端が丸まった文化祭のポスター。
部室の隅には、弦が一本切れたままのアコースティックギターが、何年も前からそこにいる顔で立てかけられていた。
西宮西高校。
通称、西高。
そのフォークソング部の机の上に、文化祭の出演申込用紙が一枚、置かれていた。
ミナ先輩が「文化祭、二人で出よ」と言い出したのは、三日前だった。
スミレは、まだ正式に了承した覚えがなかった。
出演者名。
曲名。
必要機材。
そして、いちばん上に、大きく空欄があった。
ユニット名。
スミレは、その欄を見つめたまま、シャーペンの先で紙を軽く叩いていた。
「名前、いります?」
向かいに座っていたミナ先輩が、ジンジャーエールのペットボトルを振った。炭酸が中で小さく怒ったみたいに泡立つ。
「いるやろ。名前ない二人組、怖いやん」
「怖いですか」
「怖い。文化祭の司会に『次は、名前のない二人です』って言われるんやで」
「ちょっとかっこよくないですか」
「かっこよないわ。都市伝説やん」
ミナ先輩はそう言って笑った。
髪は少し明るかった。制服のスカートは、校則よりたぶん二回折られていた。爪には薄くラメが乗っている。先生に見つかったら注意されるかされないか、ぎりぎりの線をいつも歩いている人だった。
机の端には、スミレのアイスティー。
ミナ先輩のジンジャーエール。
文化祭の申込用紙。
何本かのピック。
誰かの忘れたカポ。
「必要機材、ギター一本でいいですか」
スミレが聞くと、ミナ先輩は少し得意そうに自分のギターを見た。
「一本でええやろ」
「私、手ぶらですか」
「スミレは声だけ持ってこーい」
「雑な持ち物ですね」
「一番大事やん」
ミナ先輩は、さらっと言った。
二人は、ギター二本のデュオではなかった。
ギターを持つのは、ミナ先輩。
スミレは、その横で歌う。
スミレもギターを少しは弾けた。コードの形も、弦の鳴り方も、まったく知らないわけではない。
でも、人前に立つ時、自分が持つのはギターではなく声の方だと思っていた。
ミナ先輩のギターに、スミレの声が乗る。
それが、まだ何も決まっていない二人の、最初の形だった。
部室の棚には、古いCDが雑に並んでいた。透明ケースの背表紙は、日焼けして読みにくくなっているものも多い。
スミレはその棚に手を伸ばした。
「このへんから、いい感じの言葉探しましょう」
「雑やな」
「ミナ先輩に言われたくないです」
「うちは雑なんちゃう。勢いや」
「同じです」
スミレはCDを一枚ずつ眺めた。知らない名前。見たことある名前。お父さんの車で流れていた気がする名前。部室は、そういう時代の違う音が、全部まとめて置かれている場所だった。
その中の一枚を、スミレは少し首をかしげて読んだ。
「イージーライター?」
ミナ先輩が、飲みかけのジンジャーエールを吹きそうになった。
「イージューライダーやろ」
「え、これ、イージューなんですか」
「そうやろ。知らんの?」
「知りません」
「堂々と知らん言うな」
「でも、そっちの方が、うちらっぽくないですか」
スミレが言うと、ミナ先輩は笑いながらも、少しだけ黙った。
「イージーライター?」
「はい」
「簡単な作家?」
「たぶん」
「うちら、曲一曲も書いてへんけど」
「これから書くんです」
「書けるん?」
「知りません」
「知らんのかい」
ミナ先輩は、また笑った。
その笑い方は派手で、雑で、でも少しだけ無理をしているようにも見えた。
スミレは、そこまではまだ言わなかった。
ミナ先輩は申込用紙を自分の方へ引き寄せた。
ミナ先輩の字は、見た目よりずっと丁寧だった。シャーペンを持つ右手の爪で、薄いラメが光っていた。
ユニット名の欄に、ミナ先輩が書いた。
イージー♡ライター
「ハート入れたんですか」
「入れた」
「なんでですか」
「女子高生デュオやから」
「雑な理由ですね」
「名前なんか、雑な方が残るねん」
ミナ先輩は、書いたばかりの文字を見て、満足そうにうなずいた。
「ええやん。売れそう」
「売れません」
「なんで決めつけるん」
「まだ一曲もできてないからです」
「せやな」
ミナ先輩は、あっさり認めた。
その横顔を見ながら、スミレは仮入部の日のことを思い出していた。
二人が出会ったのは、昨年の春だった。
まだ一年生の教室に、自分の居場所が定まっていなかった頃。
仮入部の日、音楽室の奥からギターの音が聞こえた。上手いのか下手なのか、スミレにはまだよくわからなかった。
ただ、その音だけは、ほかの音より少し耳に残った。
音が目立っていたというより、それを鳴らしている人が目立っていた。
ミナ先輩だった。
明るい髪。
短めのスカート。
大きめのカーディガン。
ジンジャーエールを片手に、アコースティックギターを抱えていた。
「これ、ほぼジントニックやから」
そう言って、ミナ先輩はジンジャーエールを飲んだ。
先輩たちが笑った。
スミレは、意味はよくわからなかったけれど、その言い方だけは覚えた。
部では、古い曲も新しい曲も、だいたい雑に練習していた。誰かが知っている曲を持ってきて、誰かがコードを探して、誰かが途中で飽きる。譜面台はいつも足りなくて、歌詞カードはだいたい曲が終わる前に床へ落ちた。
スミレはボーカル志望だった。
でも、ギターも少し弾けた。
だから余計に、気づいてしまった。
ミナ先輩は、ギターを弾けないわけではなかった。
ただ、コードを押さえる瞬間だけ、左手の中指がほんの少し遅れた。
鳴らない弦があると、ミナ先輩はすぐ笑ってごまかした。
「うち、コードに縛られへんタイプやから」
そう言って、みんなを笑わせた。
スミレも笑った。
でも、笑いながら、見ていた。
ミナ先輩の左手。
中指が、少しだけ遅れること。
押さえきれなかった音を、笑い声で隠すこと。
その時のスミレには、まだ、それが何なのかはわからなかった。
ただ、気になった。
気になってしまった。
「スミレ」
ミナ先輩の声で、スミレは部室に戻った。
「何ぼーっとしてんの」
「してません」
「してた」
「してません」
「今、うちらの名前、生まれたとこやで。もっと感動して」
「生まれたんですか、これ」
スミレは申込用紙を見た。
イージー♡ライター。
少しダサい。
少し軽い。
少しふざけている。
でも、嫌ではなかった。
「ミナ先輩」
「何」
「これ、ほんまに書くんですか」
「もう書いた」
「提出するんですか」
「する」
「戻れませんよ」
「戻るほど進んでないやん」
ミナ先輩はそう言って、申込用紙をひらひらさせた。
窓の外では、阪急電車の音が遠くに聞こえた。
部室の中では、誰かの置いていったチューナーが、机の上で黙っていた。
まだ一曲も書けていない。
まだ、人前でちゃんと鳴ったこともない。
まだ、お互いのことも、ほとんど知らない。
それでも、その日、文化祭の申込用紙の上で、二人には名前がついた。
イージー♡ライター。
簡単には書けないくせに。
簡単には鳴れないくせに。
ミナ先輩のギターに、スミレの声が乗る。
その形だけが、名前より少し遅れて、部室の中に浮かんでいた。
その日から、ミナとスミレは、イージー♡ライターになった。
第一話 終わり
次回
第二話 私の左手
