【音の科学 #65】他人の咀嚼音は許せないのに、なぜASMRには癒やされるのか?──脳が選ぶ「快と不快」の境界線
こんにちは、NUARLです!
カフェで本を読んでいる時や、静かな空間で作業に集中している時──。
隣の人がガムを噛む「クチャッ」という音。あるいは、食事中の「ズルズル」「くちゃくちゃ」という咀嚼音。 こうした音を耳にした瞬間、背筋がゾワッとして、強い嫌悪感や、時には怒りすら湧いてきて、もうその場所から逃げ出したくなった……そんな経験、誰にでも一度はしたことありませんか?
一方で、YouTubeなどの動画プラットフォームを開けば、「ASMR(自律感覚絶頂反応)」というジャンルの動画が世界中で大流行しています。
そこでは、高性能なマイクのすぐ近くでフライドチキンをサクサクと噛み砕く音や、氷をガリガリと食べる咀嚼音が、何百万人もの人々に「究極の癒やしだ」「これを聴かないと眠れない」と熱狂的に支持されているのです。
同じ「人がものを食べる音」なのに、なぜ一方は耐え難い不快感を生み、もう一方は至福の癒やしをもたらすのでしょうか。
実は、この一見すると矛盾した現象の裏には、私たちの脳が音をどのように解釈し、「快と不快」の境界線を引いているのかという、非常に複雑で興味深いメカニズムが隠されているのです。 今回は、最新の脳科学と心理学の論文から、その謎を解き明かしていきましょう。
脳が暴走する「ミソフォニア(音嫌悪症)」の正体
まず、特定の日常音(特に他人の咀嚼音、呼吸音、鼻をすする音など)に対して、一般的なレベルを超えた強い怒りや嫌悪感を抱く症状は、心理学や医学の分野で「ミソフォニア(音嫌悪症)」と呼ばれています。
これは単なる「気にしすぎ」や「神経質」といった性格の問題ではありません。
イギリス・ニューカッスル大学のSukhbinder Kumar博士らが行った、脳のfMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用いた研究によって、ミソフォニアの人の脳内で実際に物理的な異常反応が起きていることが明らかになりました。
研究チームが参加者に「トリガーとなる音(咀嚼音など)」を聞かせたところ、ミソフォニアを持つ人の脳内では「前島皮質(ぜんとうひしつ)」と呼ばれる領域が異常に活性化していました(Kumar et al., 2017)。
この前島皮質は、周囲の環境から受け取った感覚情報と、自分自身の感情を結びつける重要なハブの役割を果たしています。
さらに厄介なことに、この前島皮質と、記憶や感情を司る他の脳領域(扁桃体や海馬など)との結びつきが強すぎることが判明しました。
つまり、他人の咀嚼音という特定の音が引き金となって、脳の配線がショートしたように「怒り」「嫌悪」「逃避」といった過剰な感情反応が、意志の力とは無関係に引き起こされてしまっていたのです。
ASMRがもたらす「究極の生理的リラックス」
では、翻ってASMRの咀嚼音はどうでしょうか。
「咀嚼音が嫌いな人もいるのだから、ASMRの癒やし効果なんて気のせいだろう」と思う方もいるかもしれません。
しかし、イギリス・シェフィールド大学のGiulia Poerio博士らの研究によれば、ASMRは確かな生理的変化をもたらすことが証明されています。
ASMR動画を視聴して「心地よいゾクゾク感」を体験している時、参加者の心拍数は有意に低下し、同時に皮膚コンダクタンス(感情的な覚醒を示す指標)が上昇するという、非常に特異なリラックス状態が起きていることが確認されました(Poerio et al., 2018)。
脳は完全に落ち着いているのに、ポジティブな感情だけが高揚している。これこそが、ASMRが「脳のオアシス」と呼ばれる所以です。
境界線を決める「文脈」と「コントロール感」
前島皮質を暴走させる不快な咀嚼音と、心拍数を下げる至福の咀嚼音。
この真逆の反応を生み出す最大の鍵は、音の物理的な性質ではなく、「文脈」と「自己コントロール感」にあります。
他人の咀嚼音は、予期せぬタイミングで、自分の意志とは無関係に他者のプライベートな領域(口から発せられる音)が自分の空間に侵入してくる現象です。脳はこれを「脅威」や「不快なノイズ」として処理します。
しかしASMR動画の場合、「これから咀嚼音を楽しむぞ」という明確な目的(文脈)があり、再生も、音量の調整も、停止も、すべて自分の指先一つで完全にコントロールできます。
脳が「ここは安全で、自分が支配している環境だ」と認識しているからこそ、他者の咀嚼音という本来なら警戒すべき音さえも、脳をリラックスさせる「快楽」へと見事に変換することができるのです。
ちなみに、ASMRの動画クリエイターたちが、ただ音を出すだけでなく、囁き声や丁寧な手つきで「安心感」を演出しようとするのも、脳に安全な文脈を認識させるための非常に理にかなったアプローチと言えます。
☕️音の主導権を取り戻し「余白」をデザインする
私たちが日常生活の中で音から受けるストレスの多くは、自らが「コントロールできないこと」に起因しています。
街の喧騒、隣人の生活音、そして不快な咀嚼音。これらから身を守り、心をニュートラルな状態に保つためには、自分の意志で「音の環境」を選択し、デザインするスキルが現代人には求められています。
例えば、周囲のノイズに悩まされた時、アクティブノイズキャンセリング(ANC)機能を搭載したイヤホンを使って不快な音を物理的に遮断することは、最も手軽で効果的な防衛手段の一つです。 そして、静寂を取り戻したその空間に、あえて高音質で録音されたお気に入りのASMRや、心を落ち着かせるアンビエントミュージックを流し込んでみる。
「周囲から強制的に聞かされる音」から、「自ら選び、聴く音」へ。
音の主導権を自分の中に取り戻すことは、情報とノイズに溢れた現代社会において、自分だけの心地よい「余白」を作り出すための、最もシンプルで贅沢な防衛術なのかもしれません。
次にイヤホンをつける時、あなたならどんな音の「余白」を自分にプレゼントしますか?
ここまで読んでくれて、本当にありがとうございます。
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📚【参考文献】
Kumar, S., et al. (2017). The Brain Basis for Misophonia. Current Biology, 27(4), 527-533. https://doi.org/10.1016/j.cub.2017.01.014 Poerio, G. L., et al. (2018). More than a feeling: Autonomous sensory meridian response (ASMR) is characterized by reliable changes in affect and physiology. PLoS ONE, 13(6), e0196645. https://doi.org/10.1371/journal.pone.0196645
