加害と被害にかんする覚え書き
以前に『シークレット・サンシャイン』(イ・チャンドン監督、 2007年)という映画を観た。息子を誘拐されたうえに殺された女性が、救いをキリスト教信仰に求め、教会の集まりにも熱心に参加するようになる。やがて彼女は、息子を殺した男を、信仰において赦すと教会員たちの前で宣言し、逮捕された犯人と面会すべく刑務所へ向かう。すると、彼女が赦しを宣言する前に、先に犯人から言われてしまうのだ、「わたしはキリストによって罪を赦されました」と。神からすでに赦されているのであれば、わたしはどうやって赦せばいいのか───女性は怒り、苦しみはじめる。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にも、それに通じるような逸話があったと思う。
母親が、犬にわが子を引きちぎらせた迫害者と抱きあい、母と子と迫害者の三人が涙ながらに「主よ、あなたは正しい」と声を合わせて叫ぶときにだ、もちろん認識の頂点というべきものがそのとき訪れ、すべてが説明されることになるんだ。
しかし、ここのところが難点なんで、おれはとてもじゃないが、そんなことは受け入れられない。(中略)もしその母親と、その子どもと、迫害者とが抱き合っているのを見て、自分もみんなといっしょに「主よ、あなたは正しい!」と叫ぶようなことがあるとしてもだ。おれはそうなっても叫ぶ気はないぞ。(中略)そんなものは、ちっちゃなこぶしで自分の胸を叩き、臭い便所で無益な涙をながして「神ちゃま」に祈っていた、あの、さんざ苦しめられた子どもの、一粒の涙にだって値するもんか!
わたしは数年前に進藤龍也牧師と親しくなったことが契機となり、彼から湯浅静香さんを紹介され、湯浅さんからはにのみやさをりさんを紹介され…というように、元受刑者や、性犯罪の被害当事者と交流するようになっていった。それぞれの人が、とうてい「元受刑者」だの「性犯罪被害者」だのと一般化できない、その人固有の人生を生きていることを知った。とくに、にのみやさんとの出遭いは大きかった。性被害に遭ってから30年以上、心身の苦しみを負い続けている。時間が経てば解決するような問題ではないという現実を、彼女から教わった。
加害者がなんらかの事件を起こす。それは長期にわたる犯罪行為のこともあれば、事件そのものはほんの数分の出来事だった場合もある。犯罪の内容もさまざまだ。だが、被害者は事件の生じた時間の長短に関係なく、長期にわたりその記憶に苦しみ続ける。ほんの数分の事件のせいで、その後の人生を一生苦しみ続ける被害者だっているかもしれない。ニュースで事件は報道され、それはいっとき話題となり、すぐに忘れ去られる。そもそもニュースにならず、不祥事として「穏便に」片づけられるものすらある。しかし報道の規模と被害者の心身に残る痛みとが比例関係にあるわけではない。
加害者がおのれの犯した行為を深く悔い、どこで間違えたのかと苦しむなかで、宗教にすがることもある。それ自体は人間として自然なことなのだろう。だから、さまざまな宗教の聖職者から構成される教誨師も存在する。受刑者で、宗教者と話し、祈ってもらいたい/祈りたい者は、教誨師と面会する。
わたしは進藤龍也牧師をはじめ、そこで出遭った誰か特定の元受刑者を個人的に批判したいのではないことをお断りしておく。誠実に生き直している人の過去をほじくり返すことが本稿の目的ではない。誰か特定の個人が悪いというのではなく、そもそも人間の限界として、誰にでもこういうことは起こり得ないだろうか、ということを忘れないようにしたいだけである。すなわち冒頭に紹介した『シークレット・サンシャイン』や『カラマーゾフの兄弟』の一節のように、神にその罪を赦されたと信じた加害者が、それ以上加害の事実を省みることなく、「自分は赦されたのだ」という心境に至ることである。場合によっては、その加害によって一生苦しみ続ける被害者が生じているにもかかわらず、加害者が「先に」信仰に救われ、安らぎを得ることへの疑問が、どうしてもわたしのうちに残る。
これは法的な刑罰をともなう犯罪の話に限らない。わたしたちは日々の生活のなかで、他人の尊厳をふみにじるような言動をしてしまうことがある。わたしは牧師として、さまざまな相談に耳を傾けてきた。犯罪被害者ではなくとも、深く傷つけられた苦しみを多く聴いた。ということは傷つけた誰かがいるということだ。傷つけたその人にとって、それはささいなことであり、省みるにも値しない些末事であるが、相談者にとっては一生を左右する苦しみであるということだ。その一方で、誰かを傷つけてしまったことを、激しく後悔する想いを聴かせてもらうこともある。その加害行為で逮捕されたりすることはないだろうが、やはり当人にとり、その行為をしてしまった過去はどうやっても無かったことにはできない。このような人もまた、これからも長いあいだ苦しみ続けるだろう。だからといって、わたしはこのような人に、「あなたの罪は赦されていますよ」と安易に言ってよいのだろうか。
法的な刑罰の話や、再犯防止のための医療や福祉の話などは、ここでは措く。わたしという人間は、過去のあやまちの記憶に、どこまで耐えることができるのか。耐えられないとき、信仰に頼り「神に赦された」と一時の安心を──痛みの忘却を──得ることは、被害者の前に正しいのか。しかし正しいも正しくないも、そうしなければ、このわたし自身が生きて行けないのであるとするならば。
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