自分のオフィスの近くに、20世紀を代表するアメリカの大女優がかつて住んでいた
勤務している会社のオフィスが入るビルはニューヨークのど真ん中、マンハッタンのオフィス街にある。仕事上の必要性もあってロケーションは抜群、グランドセントラル駅にも近い。もちろんオフィスの賃料もえらく高い。高層ビルが立ち並ぶマンハッタン・ミッドタウンイーストながら、居住用の高層ビルも多数あり、住んでいる富裕層も多い。国連本部から歩いてすぐだということもあって、各国の外交官の姿もよく見かける。
なんで、こんな街の真ん中に住むのがいいのか、と思うが、好みは人それぞれだ。オフィス街ながら日用品を買うスーパーもあるし、暮らしていくことは十分可能だ。東京の大手町に住んでいますというのとは訳が違う。

ある夜、帰宅しようとオフィス近くを歩いていて、ふと顔を上げたら、交差点に「Katharine Hepburn Place」という標識があることに気づいた。20世紀を代表するアメリカの大女優「キャサリン・ヘプバーン」の名前だ。このへんがゆかりの場所なのだろうかと調べてみた。
1907年、コネチカット州ハートフォードの生まれ。アカデミー賞主演女優賞を4回受けた人は他におらず、前人未到の記録だ。1999年の「映画スター・ベスト100」で女優部門のトップに選ばれた20世紀を代表する「アメリカを代表する大女優」なのである。知的で自立したアメリカの女性のモデルだったが、本人はアカデミー賞授賞式の華やかさ、ハリウッド的な虚飾を嫌っていたらしく、授賞式には一度しか出席したことがないそうだ。代表作は「フィラデルフィア物語」や「冬のライオン」など。30年代のものはあまり見たことがないが、ヘンリー・フォンダと共演した「黄昏」なんかは知っている。


調べてみたら、そのキャサリン・ヘプバーンが住んでいたマンションが自分のオフィスからほんの100メートルほどの至近場所にあると知り、驚いた。さっそく、昼休みに行ってみた。隣はウクライナの総領事館で水色と黄色の見慣れた旗が出ている。4階建てのやや赤みがかった色の建物だ。

不動産業者のサイトによると、1899年の建築で、ベットルームが4つ、バスルームは3.5室。エレガントな内装と厳選された高級家具が売りらしい。本人が使っていた愛用していた大きな鏡付きの化粧台もあるという。中庭は緑がいっぱいで外の喧噪とは別世界のようだ。売りに出されている値段は620万ドル、ざっと10億円。想像を遥かに超える値段なので、もう高いのか、安いのか、何が何だかさっぱり分からない。2年前の記事では720万ドルだったのでちょっと、いや100万ドルも値段が下がったようだ。
夜になってもう一度、前を通ってみたが、中の灯りはついていなかった。人けがあるようには見えなかった。値段を下げても売れていないのだろう。鏡付きの化粧台がどうなったのかが気になる。

2003年6月にコネチカット州の自宅で老衰のためになくなった。亡くなった時の新聞には、やはり大女優のエリザベス・テーラーのコメントが載っている。「世界の女優が尊敬し、あこがれた。彼女に嫉妬心を抱いたことはない。なぜなら彼女は上品で機知に富み、女性の魅力を持っていたから」とある。晩年を過ごしたのはコネチカットの自宅。自然に囲まれてひっそりと暮らしていたらしい。コネチカット州の旧宅周辺の所有地は、公共の自然保護地として残された。
それとは別に持っていたのがマンハッタンのマンションだ。大学時代に知り合った男性と21歳の時に結婚、6年後に離婚して以降、ずっと独身を貫いた。ただ、9作品で共演し「名コンビ」と言われた男優のスペンサー・トレーシーと私生活でもパートナーとして一緒に暮らした。その「愛の巣」がまさにこのマンションだったわけだ。
もう少し調べてみたら、キャサリン・ヘプバーンゆかりの公園が2ブロック離れた国連近くにあることが分かったので、そちらにも足を運んでみた。残念なことに、とても手入れが行き届いているとは言い難く、本人が見たら嘆くだろうと思うような状況だった。それでも都会の真ん中に緑が茂っているさまにはホッとさせられるものがある。

淡い青の紫陽花が咲いていて、緑に隠れた場所にあるベンチに、親子ほども歳の離れたシニアの男性と若い女性が座って話しをしていた。ちょっと離れて座っていて、二人の間には微妙な距離があるので、かえってどういう関係なのだろうと想像をかき立てられる。時間をおいてもう一度訪れてみたら、二人の姿はなかったので、そのベンチに行ってみた。これまた残念なことに、ベンチは少し壊れかけていた。



ベンチの目の前に「キャサリン・ヘップバーンのベンチ」と書かれた石碑が地面に埋め込まれていた。本人がベンチに座って本を読んでいる写真があしらわれている。石碑に書かれた文字は汚れてほとんど判読不能だったが、ありがたいことにネットに石碑が載っており、文字を読むことができた。コネチカットの自宅を遺族が売却した際にこのベンチを買い取って移設したのだそうだ。大女優と一緒になったつもりでちょっと腰をかけてみた。
公園には、映画のシーンをモチーフにした四つのパネルがあった。公園の中に入ってみないと外からでは分からない場所にあった。ここが大女優を記念する場所であることの証だった。


地面の飛び石にはキャサリン・ヘプバーンの語録も刻まれていた。これもまた、よく見ないと気づかずに通り過ぎてしまうようなものだった。


残念ながら、近くにはホームレスがいて、とても治安が良い場所とは言い難いところになっていた。麻薬患者や売春婦がベンチにいることもあるのだそうだ。それでも近隣の住民らによって、毎年5月の誕生日前後には、この場所で生誕祭が行われているようだ。大女優の生誕120年を迎える来年こそは、その輪に加わってみようと思う。

