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『思考中毒になる!』を読んで

はじめに

本書を読みながら、まず強く引っかかったのは、「考えること」と「考えごと」を明確に分けている点だった。

自分はこれまで、頭の中で何かを巡らせていれば、それはすべて「思考」だと思っていた。

しかし本書は、それを否定している。
「考えること」は何かを生み出す行為であり、「考えごと」はただ同じところを回り続けるだけの停滞だという。

この区別は、思っていた以上に重い。
なぜなら、自分の日常を振り返ると、そこにあるのは圧倒的に「考えごと」の方だからだ。

最近、noteに自分の頭の中を書き出すようになってから、その事実に気づかされた。
同じテーマ、同じ不安、同じ迷い。
それらが少し形を変えながら、しかし本質的には何も進んでいない状態で繰り返されている。

本書の一節にある「考え事の特徴は、同じような思考を繰り返し、一向に進展しないところにあります」という言葉は、そのまま自分の状態を言い当てているようだった。


停滞する思考

「考えごと」に囚われているときの感覚は、どこか居心地がいい。
何かをしている気になれるし、問題に向き合っているような錯覚もある。

しかし実際には、そこには前進がない。
ただ同じ場所をぐるぐる回っているだけだ。

むしろ厄介なのは、それが「思考している」という自己認識と強く結びついている点だ。
だからこそ、自分は長い間、その状態を疑うことすらなかった。

noteに書き出して初めて、自分の思考の輪郭が外から見えるようになった。
文章として固定されることで、「あれ、これ前にも同じことを書いていないか」という違和感が生まれる。

その違和感こそが、「考えごと」と「考えること」の差を教えてくれる。


思考するとは何か

本書が面白いのは、「思考する」という行為を曖昧な精神論ではなく、具体的な技術として提示しているところだと思う。

たとえば、

「裏側にある本質をつかむ」
「似ているものを比較して違いを見つける」
「大きく異なるものの共通点を見つける」

といった方法論は、どれもシンプルでありながら、実際にはほとんど意識してこなかったものばかりだった。

特に印象に残ったのは、「アイデアを関数としてとらえる」という発想だ。
これは自分の専門である数学ともどこか通じている。

ある入力に対してどのような出力が得られるのか、その構造を捉えるという意味では、思考もまた写像のようなものだと考えられる。

そう考えると、「思考する」という行為は、単に何かを考えることではなく、構造を見抜き、操作可能な形に変換するプロセスなのかもしれない。

ただ漠然と悩むのではなく、対象を分解し、比較し、再構成する。
その一連の操作こそが「思考」なのだろう。


思考が失われつつある環境

本書を読みながら、現代において「思考する」という行為そのものが、かなり特殊なものになりつつあるのではないかと感じた。

スマホを開けば、無限に情報が流れ込んでくる。
それらはどれも断片的で、刺激的で、すぐに次へと更新されていく。
その流れに身を任せていると、情報は確かに頭の中に蓄積されていくが、それらを咀嚼する時間はほとんど与えられない。

気づけば、自分の中にあるのは「知っていること」ではなく、「見たことがある気がするもの」ばかりになる。

そのような環境の中で、「立ち止まって考える」という行為は意識的に選び取らなければならない。

スマホを見続けるのか、それとも何もせずに考えるのか。
この選択は一見些細に見えるが、長期的には大きな差を生むのだと思う。

本書で紹介されていた福沢諭吉の言葉

「世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする人を身分軽き人という。」

という一節は、その意味で象徴的だ。
難しい仕事とは、単に労力がかかるということではなく、思考を要する仕事のことなのだろう。


思考中毒という状態

本書では、思考のレベルを上げるためには「思考中毒になること」が重要だと述べられている。
この表現はやや極端に聞こえるが、言わんとしていることは理解できる。

思考が習慣化されると、逆に「考えていない状態」に違和感を覚えるようになるという。
ぼーっとしている時間が気持ち悪く感じられる、という感覚だ。

自分はまだその境地には達していない。
むしろ、何も考えずに流れていく時間に安心してしまうことすらある。

だからこそ、自分の中にあるのは「思考習慣」ではなく、「考えごと習慣」なのだろう。

ただ、その違いに気づけたこと自体が、一つの転換点のようにも思える。
少なくとも今は、「これは思考なのか、それともただの反復なのか」と自問する視点が生まれている。


書くことと思考の関係

本書を読みながら、もう一つ強く共感したのは、「書くこと」が思考を深める手段であるという点だ。

最近、自分自身も書く量が減っていると感じていた。
スマホで情報を消費する時間は増えているのに、それに対して何かを書き返すことはほとんどない。

その結果、頭の中にあるものは曖昧なまま流れていってしまう。

書くという行為は、思考を外部に固定する。
曖昧なものを言語化し、構造を与える。
その過程で、自分が何を考えているのか、どこで詰まっているのかが明確になる。

そして何より、「同じことを繰り返している自分」に気づかせてくれる。
これはおそらく、頭の中だけで考えている限りは得られない効果だ。


おわりに

本書を読んで得たものは、何か劇的なノウハウというよりも、「自分はいま考えているのか、それとも考えごとに留まっているのか」という問いだった。

この問いはシンプルだが、日常のあらゆる場面に差し込むことができる。
電車の中で、仕事の合間で、あるいはこうして文章を書いているときでさえ。

思考のレベルを上げるには習慣が必要であり、その習慣は一つ一つの小さな選択からしか生まれないのだと思う。

スマホを見る代わりに少し考える、曖昧なままにせず書き出してみる、その積み重ねが「思考する」という状態に近づけていくのだろう。

自分はまだ「思考中毒」と呼べる段階にはいない。
しかし少なくとも、「考えごと」に安住しているだけでは何も変わらないということは理解できた。

だからまずは、繰り返しているだけの思考に気づき、それを一歩でも前に進める。
そのために、これからも書くことを続けていこうと思う。

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推名 証理(すいな あかり) チップは書籍購入代に使わせていただきます。何卒よろしくお願いします。