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短編小説/惑星をもう半分

 1.金曜日の夜

 兄から連絡があったのは、先週の金曜日だった。格闘技のチケットがあるので一緒に観に行かないかという誘いだった。
 電波越しにでも、兄がキャラメルナッツバーを食べながら話しているのがわかった。スピーカーにしたスマホは兄の咀嚼音を、キャラメルをまとったピーナッツが奥歯に張りつき、ひそかに拭い取ろうとしている舌先の動きまで臨場感いっぱいに再現した。
「公園で見たんだ。俺はベンチに座って、ちびたちを監視していた。あいつらは太陽が落ちてくるのを待っているみたいなんだ。くちゃくちゃ。やがて太陽が溶け出して、線香花火の最後みたいな火球が落ちてくる。ちびたちはそれをバケツで受け止めて、すべり台の下まで運ぼうとするんだが、途中で消えてしまう。だから最初からやり直しだ。ちびたちはそういう戯びをしていた。わかるだろ? くちゃくちゃ」
 1860年のことだ。発掘作業をしていたジュゼッペ博士は、地中に謎の空洞があることに気づいた。そこで溶けた石膏を流しこみ、冷え固まってから掘り出してみると、笑いながら火山灰の下敷きになったポンペイの喜劇役者が発掘された。
 実家で暮らしている兄は、年がら年じゅう同じTシャツを着ている。小学生の頃にハガキ抽選で当たったラジオ番組のノベルティで、首まわりはボロボロにほつれ、長年の摩耗によってガーゼのように薄くなっている。母親は何度か捨てようとしたが、そのたびに「これじゃないと乳首が痛くなる」と言って、兄は頑なに拒否した。
 寒くなれば、その上からサンフランシスコのドラッグ難民みたいなツイードのコートを羽織っていた。いまも着ているかはわからない。私がひとり暮らしをする前の話だ。兄は働くことなく、庭つきの城を手に入れた。食堂があり、裁判所があり、母親が衛兵と料理長と被告人をつとめた。
「日だまりのなかに滅びかけた王国がある。だれかが両手でつくった影絵のなかさ。おまえだって見たことがあるだろ? ちびたちが数人集まれば、どこの公園でも見ることができる光景だ。くちゃくちゃ」
 実家の浴室が、彼の懺悔室だった。
 あの子はわたしたちの想像がおよばない場所にいて、世界じゅうの人から石を投げつけられているのかもしれない。
 シルバニアファミリーの狭い額を指先で小突きながら、母親が言ったことがある。そのとき兄は小太りなお腹を浴槽に沈めて、哺乳瓶代わりの加熱式タバコを吸っていた。そうして灯りを消した天井、暗闇に浮かんでいる虹視症の光の輪と対峙した。
 プラスチックのボートだ。
 操舵室が点灯し、単三電池2本で光るライトが夜の大海原を照らす。
「とにかく俺はベンチに座って、ちびたちが敵地にむかって進軍しはじめるのを待っていた。覚えてるか? 公園の奥が藪になってるだろ? 斜面になってて」
「覚えてるよ」
「そこにスニッキーが立っていた」
 スニッキーとは、実家の近所にあるローカルスーパーのマスコットキャラクターだ。ビーグル犬の顔にアライグマの胴体がついている。全体的には黄色で、耳と鼻が茶色。毎週のチラシでなれなれしく微笑み、催事のときにはスーパーの駐車場で風船を配ったり、BBQを焼いたりして生計を立てている。ほかの時間に何をしているのかは知らない。
 兄の説明によれば、そのスニッキーが公園の高台に立っていた。スニッキーの前には半裸の女性がしゃがみこんでいて、スニッキーの股間に顔を埋めていた。
 兄が言うには、スニッキーと視線が合ったという。スニッキーは感情のないディズニーランドの目をしていた。ビーバーブラザーズをアゴでつかう黒いネズミの目だ。スカートが捲れあがり、女性の大きな尻が(下着がY字の紐のようになって臀部の奥深くまで食い込んでいた)ガラス瓶のなかで息をひそめる球根のように、もの欲しそうに表情を歪めていた。
 兄が立ち上がると、スニッキーは女性の手をひいて藪のなかに姿を消した。
 兄は追いかけた。ときおり振り返るスニッキーの挑発的な笑顔と女性のむき出しになった白い尻が、鬱蒼としげった木々の狭間に見え隠れした。どれだけ走ったのかわからない。そうするうちに兄は気分が悪くなった。頭の芯が熱くなり、頭皮が破れるほど頭を掻きむしった。ビリー・ホリディの『奇妙な果実』に憑依された気分だった。
 吐き気をこらえながら家に帰ると、その日の夕食はハンバーグだった。生稲晃子が総理大臣になるんですって、と台所から母親の声がした。肉汁とチェダーチーズの香りが鼻腔をくすぐり、一口食べると気分が良くなった。

 それとちょうど同じ時刻、県道48号線の山道を1台のピックアップトラックが疾走していた。片目が点灯していない。あきらかな整備不良だ。運転しているのは兄が目撃したスニッキーで、ルームミラーの大半を着ぐるみの頭部が覆い隠していた。そのためスニッキーは女に指示して、ときおり車の背後を確認させた。
「何だった?」と助手席に座る女がたずねた。「変質者?」
「わからない」とスニッキーはくぐもった声で応えた。「でも、もしも捕まっていたら、ビニール袋に小分けにされて、いまごろはマクドナルドだったかもしれない」
 女は自分の二の腕を抱きしめた。「怖いわ」
 主人公の動機づけのために殺される女のことを『冷蔵庫の女』という。ストーリーを前に押し進めるためだけに、都合よく存在し、都合よく殺される女のことだ。
 しかし、あいにく、ここに主人公は存在しない。
 ここにいる女は、ストーリーと関係なく殺される。安っぽいB級ホラー映画の冒頭5分でシャワーを浴びはじめ、半透明のシャワーカーテンの向こうでヌードをさらし、男性鑑賞者の視線を釘づけにしたあと、ただただ無意味に殺される。
「ねえお願い。もう少し速度をゆるめて。神経がどうにかなっちゃいそうなの」
 しかし、スニッキーはさらにアクセルを踏みこんだ。
「暑くない?」
「暑いさ」
「だったら、その着ぐるみ脱いだら?」
 女は呆れたように車の外に目を向けた。暗闇のなかを見えない森の葉々が騒いでいる。ヘッドライトの光をおかしな角度でこぼれて、ときおりガードレールや山の斜面が間近に迫って見えた。
 女はおもむろに口のなかに指を入れた。奥歯に挟まっていたのは、よれよれに縮れ、そのくせ芯の強い陰毛だった。
「ねえ?」と女は指でつまんだ陰毛をまじまじと見つめながら言った。「やっぱり、その着ぐるみ脱いでくれない?」
「どうして?」
「トモキじゃないよね?」
 スニッキーの着ぐるみは無表情のまま、何を考えているのかわからない。
「ねえ?」
 着ぐるみのなかから空気が擦れる音が響いた。スニッキーが笑っているのだった。

 それが先週の金曜日のことで、ここからが本題なんだが、と兄は言った。「格闘技を観に行かないか?」
「いつあるのか知らないけど」と私は応えた。「その日は用事があるから」
 投げつけ、何かが転倒する音がスマホの向こうから聞こえた。
「よう、もっとましな返答はできないのか? せめて俺の話を最後まで聞いてくれ」
「聞いてるよ」
「クランプスマンが出場する」
「クランプスマンって、あのクランプスマン?」
「そう、あのクランプスマンだ」
 電話が切れると、金曜日の夜が終わりを告げようとしていた。空腹を覚えて、ゆで卵をつくって食べた。それからシーリングライトにいつ入ったのかわからない虫の死骸を見つめながら、おそらく実家のリビング、折り紙みたいなランプシェードを破壊したキャラメルナッツバーについて、母親が電話して来ないことを願った。


 2.格闘技場の入口にて

 クランプスといえば、クリスマスの12月に聖ニコラウスと同行して、悪い子どもを連れ去るところの悪魔ではなかった。
 私たち兄弟にとって。
 地獄の穴に入れるための籠を背負って、錆びついた鐘を打ち鳴らすこともなかったし、もちろん、1976年のニューヨークにてラックス・インテリアとポイズン・アイヴィの悪趣味変態夫婦を中心に結成されたガレージロックバンドでもなかった。私たち兄弟にとって。
 私たち兄弟にとってクランプスといえば、1990年代に活躍した悪役レスラーだった。

 格闘技場の入口には、汗と筋肉、血に飢えた男たちがたむろしていた。場外馬券売場のような殺風景な空間で、彼らは焚き火をしながら、串刺しにしたシジュウカラを食べていた。翼を折って、嘴から背骨にそって串を通す。肉は硬く、小骨が多い。彼らは一様にキャップをかぶり、コアラがユーカリの葉しか食べないようにシジュウカラに貪りついていた。
 兄はというと、フェルトのクロシェ帽をかぶっていた。着ているのはいつものTシャツだったが、その上からツイードのコートではなく、赤茶のカーディガンを羽織っていた。
「着たら暑くて、脱いだら寒い」と兄は言った。「これなんだ?」
「更年期?」
 兄は神経質になっていた。それはクランプスマンの試合を観戦するという興奮もあったと思うが、それ以上にもうひとつ大きな要因があった。
 逆光になった外光を浴びて、白いハレーションのなかを小さな滲みが揺れ動いている。水をたっぷり吸い込ませた画用紙に墨汁を垂らしたような滲みだ。その滲みが、あっちに行ったり、こっちに行ったりして、少しずつ近づいてくる。途中でトイレに入ると、30分も出てこなかった。トイレから出てきた滲みは変形を繰り返して、頭ができて、手足が生えて、私たち兄弟の前に来たときには、19世紀ヨーロッパの古びたドレスを着た女性になっていた。
「呼んでくれてありがとう」と彼女は言った。
 彼女が着ているドレスは、日焼けしたカーテンの茶色だった。ショートカットの髪は寝癖のままの黒色。いつから化粧を落としていないのか、積み重なったアイシャドウが鱗状になって頬まで黒く染めていた。
「まるで核で滅びた村のシェルターで、唯一生き残った村娘みたいだ」と兄が言った。
「幸運な人ね。彼女はどうなるの?」
「だれもいなくなった世界で、ここから出してって叫び続ける」
 彼女は微笑み、「ロンドンの幽霊のコスプレなの。切り裂きジャックに殺されたメアリー・アン・ニコルズ」
 女性はマコと名乗った。本名ではなく、SNSに登録しているアカウント名らしい。兄と彼女が話しているあいだにSNSを覗いてみると、吉田類の悪口がポストの大半を占めていた。酒場詩人? おまえが詩人を名乗るな! おまえが酒場を語るな!
「いい匂いがする」とマコが言った。
「一度も洗ったことがないんだ」と兄は自慢げに、自分が履いている熟成されたバスケットシューズを指さした。
「ううん、そうじゃなくて」とマコはあたりを見まわした。「野鳥が燃える匂い」

 兄とマコはSNSで出会った。兄がフォローして、ブラッドベリの『華氏451度』について語り合った。紙の本は燃えてなくなり、窓の向こうに降り積もる灰を見つめ、灰は背の高い王妃になって窓の外から二人を見つめ返した。
 二人が直接会うのは、今日が2回目だった。初めて会う約束をしたとき、二人は陸橋がある交差点、角地にあるセブンイレブンの前で待ちあわせした。しかし二人が出会ったのは、なぜか陸橋の上だった。おたがいに目的の人かもしれないと認識したが、二人は黙っていた。二人ならんで転落防止柵の隙間から、セブンイレブンの前を行き交う人々を見下ろしているだけだった。
 私は定型的な挨拶だけして、そのあとは兄とマコが話しているのを聞いていた。入場するときになって「チケットは?」と私はたずねた。しかし、それはあまりに軽率な質問だった。私のチケットはマコに渡されており、兄の困惑した視線にさらされて、私はランドセルの底で潰れたマーガリンのような脂汗をかいた。
 兄とマコと別れ、当日券を購入するために窓口の列にならんでいると、後ろから若者の話し声が聞こえた。
「クランプスマンって知ってる?」
「プロレスラーでしょ? 昔の」
「昔の?」
「獣神サンダーライガーとかと同世代じゃないかな」
「それはもう御老人のレベルでは?」
「うん、経験値を上げ過ぎると衰えていくゲームだよね、人生って」
 窓口の壁には、今日開催されるイベントのポスターが貼られていた。急遽参戦が決まったらしいクランプスマンは、小さな丸いシールのなかで腕組みしている。おそらく全盛期の写真だ。おそらくは魚肉ソーセージのおまけとして配られていたシールで、子どもの頃に収集した宝物を入れたクッキー缶を開ければ、同じシールが実家にもあるかもしれない。
 プロレスラーの記憶Web版には、次のように記載されている。

 リングの上では勝手に体が動くように鍛えてるからね、俺らはね。脳震盪を起こしてても試合できるの。で、試合が終わって控え室に戻るでしょう? 何も覚えてない。頭をかなり打つからね。試合中のことはもちろん、プライベートのことも忘れてる。妻との約束も、息子の誕生日も、両親に愛されていた頃の懐かしい記憶も失われていく。たぶん、俺だって愛されていた時代があるんだ。手をつないでデパートなんか歩いたりしてね。だから、もう一度愛されたかった。悪役レスラーだとしても——それがたとえ、魚肉ソーセージのおまけだったとしてもね。


 3.女性は何を飲むのか?

 クランプスマンのマスクは、アルミホイルを溶かして塗り固めたような銀色だった。小学生が悪ふざけでつくった鬼のようにも見えたし、イルミネーションの簡略化され過ぎた、がらんどうの眼窩を向けた鹿のようにも見えた。
 入場と退場のときがクランプスマンの見せ場だった。入場するとき、クランプスマンは観客席を蹴倒しながら最短ルートでリングに向かった。女性客が悲鳴をあげて、男性客はなぜかこういうとき、神妙な顔つきをして避難するのだ。
 反則負けで退場になると、クランプスマンはマイクを手にして、短歌をひとつ詠むのだった。

 夜に爪噛むのをやめて食べているまだ見ぬきみの爪も食べたし

 そういった知的要素も、私たち兄弟のこころを掴んで離さない理由のひとつだったのかもしれない。スポットライトを浴びたクランプスマンのマスクは、ときに物悲しい髑髏にも見えた。
「よう、女性というのはいったい何を飲むんだ?」
 兄とマコを探して会場を歩いているときだった。自動販売機の前に立っている兄と遭遇した。
「何でも飲むと思うけど」と私は応えた。
「親愛なる弟よ。俺だって知ってるさ。彼女たちはスターバックスしか飲みませんみたいな顔をしてるが、いざ喉が渇けば泥水だって啜るだろうさ」
「ミルクティーとか、オレンジジュース?」
「憐れなネットポルノ中毒者よ。おまえは何もわかってない」
「ネットポルノ中毒者は兄さんだろ?」
「そうなんだ」と兄は頷く。「告白するよ、アーニー・グレイプ。頭のなかで露出狂のジョンとヨーコがダンスパーティーをしてるんだ。毎晩、平和とセックスを訴えてきやがる。こいつらをブロックする方法があったら教えてくれ」
「らくらくフォンにすればいいと思うよ」

 私が9歳のとき、兄は11歳だった。その年齢差はいまも縮まっていないが、当時の兄は神童と呼ばれていた。町内でも有名人で、皇族みたいに鼻を大きく膨らませて歩いていた。大人に挨拶するときは、まるで舞台袖から顔だけ覗かせるデザイナーのように、謙遜と媚びへつらうことを忘れなかった。
「俺が言いたいのはこうだ。男どもは射精することだけを考えてる。しかし、セックスというのは会った瞬間から、いや、会う前からはじまってるんだ。爪を切ったり、お腹の調子が悪くなったらどうしようと不安になったり、肛門の毛を剃ろうとしているところを母親に見られたり」
 兄がまだ神童と呼ばれていた頃、テレビ番組のクイズ大会で優勝し、それは『アタック25』という長寿番組だったが、もしかしたら知らない人もいるかもしれないので少しだけ内容を説明すると、4人の参加者が早押しクイズでパネルを奪い合っていく。クイズに正解するとパネルを一枚獲得し、自分のパネルで挟むとオセロのように相手のパネルも獲得できる。最終的に勝者はエールフランスで行くパリ旅行に挑戦するのだが、最後のクイズは毎回、人物や地名を当てる映像問題だった。
 ある人物の名前を答えてください。獲得したパネルの部分に映像が映し出される。兄は「蒼井そら!」と回答した。正解は、蒼井優だった。
 兄は小学生にしていくつかの戯曲を発表していた。『サンドウィッチの具たち』という戯曲は、演者は地方劇団の市民だったが実際に上演されて、その年の演劇オブザイヤー、低俗でもっとも下品な芝居のひとつに選出された。
「つまり飲み物を選んでいるこの時間も、俺は彼女とセックスしているんだ。彼女の性感帯がどこなのか、指先で探している状態だ。わかるだろ? ミルクティーやオレンジジュースは、乳首や生殖器だ。そこが気持ちいいのは、だれでも知っている。しかし、女性の体はいわばビュッフェスタイルのドリンクバーだ。いま彼女が求めているのはファンタかもしれないし、スプライトかもしれない。ステレオタイプな愛撫で満足するような愛のない前戯はしたくないんだ」
 そういう兄だったので、特別扱いされるのも当然だと理解していた。たとえばハンバーグ。兄のほうがひとまわり大きく、チェダーチーズがのっていた。兄のハンバーグと比べれば、私のハンバーグはミートボールほどの大きさもなかった。
 夕食中、兄は自作した詩を市民劇団の子役みたいにいけすかない抑揚で朗読したりした。母はうっとりとして、「おかわりは?」と兄の皿にコーンスープをよそった。
「気持ちはわかるけど」と私は応えた。「何が飲みたいか、マコさんに聞いてみたら? コミュニケーションもセックスだと思うよ」
 兄は私を見つめた。口のまわりにはいつのまに食べたのか、ポテトチップスの破片が付着していて、なぜか兄はこのタイミングで指先でつまんで食べた。
「ドクターペッパーにしてみようか?」と私が言うと、兄は黙って頷いた。

 幼少期、そんな兄とただひとつ共有できる時間があるとしたら、土曜日の夕方に放送されていたプロレス鑑賞だった。そのときだけはリビングのソファに二人ならんで座って、まるで仲のよい兄弟のようにテレビを観た。ブラウン管が発する青ざめた光のなかで、ポテロングの箱に手を伸ばす。からっぽになった箱のなかで兄の指と交錯する。
 ハッシュタグ。がんばれクランプスマン。
 永遠のような月日が流れたような気がしたが、振り返ってみるとクランプスマンが活躍していたのは一年足らずだった。その後はインディーズ団体で活動していたらしいが、詳しいことは知らない。その後、兄を現在の兄にたらしめた忌まわしい出来事があり、私たち家族は解体され、母親と兄と私は、渡り舟に偶然乗り合わせただけの見知らぬ人になった。


 4.中国拳法vs居合い抜きの達人

 リング上では、中国拳法の達人の腕が斬り落とされた。血飛沫があがり、観客席の足踏みが会場全体にとどろく。

 腋という腋から、もしくは股という股から、観客たちは宿便と発酵したフェロモンを漂わせて、場内は異様な熱気に包まれていた。できれば二度と肺に入れたくない。公衆トイレの自分の前に使用していた人間の臭いだ。ただし数分もその場所にいれば、感覚が麻痺していく。自分の臭いと他人の臭いが混ざり合い、ウォッシュレットの接吻が恍惚をもたらしてくれる。
 紙コップのビール(私だけビールにした)を手にして席についたとき、中国拳法と居合い抜きの達人の試合がはじまったところだった。
「えっと」と私はとなりにいる兄に話しかけた。「これって格闘技?」
「格闘技といっても、アンダーグラウンドだからな」
「武器の使用もありなんだね」
 居合い抜きの達人は微動だせず、やや前傾姿勢に構えていた。中国拳法の男は警戒しながら、少しずつ間合いを詰めていった。中国拳法の男が右腕を伸ばした。挑発のつもりだったのかもしれないし、踏み込むタイミングをはかるつもりだったのかもしれない。その右腕が次の瞬間には斬り落とされていた。
「銃器武装した人造人間が参戦したこともある」と兄は言った。「その試合では観客にも多くの犠牲者が出た」
 中国拳法の男は、リングに転がる自分の腕を不思議そうに見つめた。厳しい修行を乗り越え、今日まで鍛えあげてきた右腕だ。それで勝負が決まったかに思えた。しかし中国拳法の男は諦めていなかった。腕の切断面から毒の血霧を浴びせかけると、居合い抜きの男に飛びかかった。背後にまわり、腰まである弁髪で男の首を絞めあげた。
 居合い抜きの男は抵抗しなかった。あの一刀で息の根を止めることができなかった時点で、もしかしたら覚悟を決めていたのかもしれない。白目を剥き、喉の血管が破裂するのが見えた。
 試合が終わり、私はすぐにクランプスマンの対戦相手を確認した。南米の巨人ディアゴ・ウルフと記載されている。知らない選手だ。スマホで検索しても『デアゴ/ウルフWR1』というミニカーの紹介記事が表示されただけだった。
 となりでは兄とマコがお喋りをはじめていた。二人の会話は、スタンダールの『恋愛論』における岩塩鉱に投げいれた小枝のようだった。会話の内容がどうあれ。
 マコが錠剤を舌の上にのせて、ドクターペッパーで流しこむ。
「それは?」
「抗鬱剤」
「美味しい?」
「とっても大好き、シャブえもん」

 それからもいくつかの試合がおこなわれたが、どの試合も凄惨をきわめた。リングは血と肉と吐瀉物にまみれ、試合が終わるたびに意識を失った選手が担架で運ばれていく。試合と試合のインターバルには、ブラシを持った清掃員が数人、泡だった血を拭う作業に追われていた。
 会場には、胃のなかに溜まったガスが噴出される屠殺場の悪臭が立ち込めていた。
「お腹が空いたね。何か食べる?」
「バンズがぐちゃぐちゃに濡れた自動販売機のハンバーガーがあったら」
 ついに次がクランプスマンの試合というときになって、「ちょっとトイレ」と兄が席を立った。アナウンスによれば、20分の休憩時間があった。パイプ椅子をひとつ空けてマコと二人きりになり、私が手持ち無沙汰にスマホを操作していると、予期せずマコのほうから話しかけてきた。
「クランプスマンって強いんですか?」
「強いというか」と私は口ごもった。「弱くはないけど、プロレスラーだからね、ここのルールでどこまで通用するか」
「猟奇殺人鬼?」
「何のこと?」
「先週もドラッグストアの女店員が殺されたの。裸の女が何百メートルもアスファルトを引きずられた。乳房は剥がれて骨までむき出しになってた。指は1センチしか残されていなかったって。この意味わかる?」
「ごめん、あまりニュースを観ないから」
「ニュースを観てても同じ。オールドメディアは報道しない」と言ってマコは席を詰めてきた。「あなたのお兄さんって、どんな人?」
「兄は——」
 と言いかけた私の脳裏に、ひとつの怖れが横たわった。それは物心ついて兄という存在を知ってから絶えず危惧している、いつもは気づかないふりをしているが、けっして消え去ることない不安だった。
 いつの日か、兄は警察のやっかいになるかもしれない。いつの日か、取り返しのつかないことになるかもしれない。
 私の脳裏に渦巻いているのは、先週の金曜日、兄はほんとうにスニッキーを目撃したのだろうか? という疑惑だ。
 あの子は善悪の区別がつかず、赤ん坊のように何でも口に入れてしまう。地球を丸ごとぜんぶ口にするまで、あの子にはその判断ができないかもしれない。
 スーパーボールを喉に詰まらせて、兄が病院に搬送されたときだ。真夜中にVRゴーグルをつけた母親が言ったことがある。その椅子をどかしてちょうだい。そこにスフィンクスとピラミッドができるはずなの。
「子どもの頃だけど」と私は話しはじめた。「クリスマスにポップコーンメーカーを買ってもらったことがあるんだ。知ってる? 乾燥したトウモロコシ入れて、5分ぐらいでポップコーンができる」
「知ってる。あたしの家にもあったから」
「感動したんだ。鳩の餌みたいなトウモロコシがポップコーンになるなんて、魔法みたいだと思った。それでこのポップコーンメーカーを10台ぐらい買いそろえれば、ポップコーン屋さんができると思った」
「キャラメルとかバジルとか、フレーバーにこだわって?」
「いや、塩味だけ」
「ヒマラヤの岩塩とか?」
「いや、ふつうの塩」
 マコの目元に疑問が浮かんだ。ホンビノスガイのような灰色の瞼がまばたきした。
「大人たちには笑われた。クラスメイトも私のことを嘲笑った」私はそのときのことを思い出しながら言った。「兄だけが笑わなかった。笑わないどころか、私のことを褒めてくれた」
 兄がトイレから戻ってきて、会話が途切れた。
 ズボンのポケットのあたりで手を拭きながら、「オナラだけだった」と兄は言った。私とマコが黙っていると、苦しまぎれの言い訳をするように「便意はあるのに、肛門の奥にある小さな口が閉じている感じなんだ」と兄は私の肩を揺すりながら「それはきっと、エイリアンの口みたいな構造になってて、なかの小さな口を自分ではなく、多重人格のちっぽけな他人に操縦されてるみたいなんだ。それってすごく不快なんだよ。なあ、わかるだろ?」


 5.クランプスマン

 愛されていたのは、6歳までだったかな。離婚して、母親は人が変わったようだった。駅裏にある喫茶店でウェイトレスをしていた。どれぐらいの給料だったのか知らないけど、夜遅くまで働き、そのまま客を家に連れて帰ってくることもあった。その間、俺は押入れのなかに隠れているんだ。母親に対して「好きだ」「愛してる」って告白する男たちがいてね、不思議だったよ。俺からしたら母親は大人だったからね。

 会場の照明が落ちると、ザ・トラッシュメンの『サーフィンバード』が大音量で流れはじめた。それはいま思えば、騒々しい葬送行進曲だった。
 この夜、クランプスマンは亡くなった。62歳の若さだった。
 プロレスラーの記憶Web版が更新されていることに気づいたのは、帰りの電車のなかだった。泣き疲れて、路上に捨てられたレインコートのように濡れそぼった兄を実家まで送る途中に、私はその記事に目を通した。肩に乗っている兄の頭からは埃っぽい砂利道みたいな匂いがした。車窓に目を向けると、すっかり夜になっていて、信用金庫の看板がなぜ懐かしい漢字圏の異国のように思えた。

 台風が近づいている夜のことだった。押入れが開かれて、そこには知らない男が立っていた。「この子は?」と男はたずねた。もちろん母親にたずねたんだが、男はじっと俺の顔を見ていた。男が母親に金を手渡した。もう何枚かの札を握らせると、母親は黙っていたが、最後に頷くのが見えた。
 何をされるのかと思っていると、男はいきなり俺を殴りつけてきた。俺が倒れると、男は馬乗りになってさらに殴ってきた。いや、本気ではなかったと思うよ。大人の男が本気で殴ったら、子どもなんて死んでしまう。それぐらいの手加減はしていたと思う。
 男は笑っていた。笑いながら俺を殴り続けた。ベランダからは母親の咆哮が聞こえた。鼻血やよだれで真っ赤に染まった視界で、俺はそれを愛だと勘違いした。俺にはマスクが必要だった。恐怖や苦痛を感じないためのマスクだ。


 クランプスマンのマスクは、全盛期と同じ銀色だった。しかし、その体は年相応に衰えていた。たわんだ皮膚の内側で筋肉が溶け出し、手足はヤギのように痩せ細っていた。いまでは凶器ではなく、杖と介助が必要な状態だった。
 獲物をしとめる眼をして、対戦相手のディアゴは四つん這いになってクランプスマンの様子をうかがっていた。丸太のように太い腕で、クランプスマンの足首をつかんだ。巨人に似つかわしくない俊敏な動きだった。仰向けに倒され、後頭部をリングに打ちつけたクランプスマンは一瞬、意識を失ったように見えた。その体にディアゴは覆いかぶさり、クランプスマンの肩口あたりに噛みついた。
 私たちは観ていた。
 猛獣の檻のなかだ。ワニの群れのなかに生きたアヒルを投げいれる動物園のショーだ。
 肩の肉を喰いちぎると、容赦ない鉄槌をクランプスマンにくわえた。2メートルを越す巨人の鉄槌が幾度となくクランプスマンの顔面に振り下ろされた。そのたびに地響きのような肉と骨が砕かれる音が響き、マスクの下の顔がどんなことになっているか? 私たちにはその無惨に変形した外面からしか、はかり知ることができなかった。
「もう無理だと思うよ」とマコが言った。「だれかが言わないといけないことだから、あたしが言うけど、もう無理だと思う、クランプスマン」
 クランプスマンのマスクは、中央に新たな窪地ができていた。万力で捻じ曲げられたように額とアゴがくっつきそうな有様だった。それでもクランプスマンは、どうにかディアゴの体の下から逃れようとしていた。その右腕をディアゴが捻りあげた。手首から肘関節、肩までの骨が連続して折れる音が響いた。
「それより、ごはんでも食べに行かない? フライドチキン」
 リング上では、南米の巨人が食事をはじめていた。クランプスマンの下腹を少し丈夫なビニール袋を破くみたいに引き裂くと、内臓を鷲づかみにして大腸を引きずり出した。
「美味しい店を知ってるの。何十年も地下室で育てたブロイラーを調理してくれる」
 となりから、兄の言葉にならない声が鳴っているのが聞こえた。足元に目を落とすと、兄が貧乏ゆすりをはじめているのがわかった。
「ねえ、行きましょう?」
「黙れ」と兄が言った。
「黙れ」と念押しするように、兄はもう一度言った。「頼むから黙っててくれ。ひとりの人間が命を賭して何かを訴えようとしているんだ。わかるだろ? 縺れた糸を解くみたいに、何かに気づきそうなんだ。わからないのか?! この脳内乞食女め!」
「これが最後の忠告。あたしたちはいますぐフライドチキンを食べるべき」
「どこかで間違えてしまったんだ。きみは無限にある選択肢のなかから、最悪を選んでいる。教えてくれ、いったいどこからやり直せばいい? 出会ったときから? きみが受精卵のときから? 明治維新から? 縄文時代から? もしもイエスが磔にされなかったら、きみとうまく会話できたかもしれない」
「これが2回目の最後の忠告」とマコが言った。「あたしはフライドチキンを食べに行くけど、あなたは?」
 そのときだった。ディアゴが苦しみ悶えながら、食べたばかりの内臓を吐瀉しはじめた。その隙にクランプスマンは立ち上がった。
 場内に、歓声と割れんばかりの拍手が鳴り響いた。クランプスマンは肩がなくなり、右腕が骨と筋肉の繊維だけでぶら下がっている状態だった。内臓は喰い荒らされて、パーツごとに内部を確認できる人体模型のようだった。
 会場を照らすライトのなかで、クランプスマンはしばらくぼんやりとしていた。まるでこの歓声や拍手が自分に向けたものだと気づいていないみたいだった。しかし、この瞬間だけはここが世界の中心だったと断言できる。銀色のマスクが神々しく、奇跡を成し遂げた王冠のように光り輝いていた。

 俺はプロレスラーになった。臆病な素顔をマスクで隠してね。場を荒らすだけの悪役だったが、結婚して息子も生まれた。俺みたいな人間の人生としては上出来なほうさ。
 それからは?
 だれの人生も同じだよ。奪われていくだけさ。記憶も肉体も時間には逆らえない。それでも、俺はもう一度戦うことを決めた。人生には戦わなければいけないときがあるかって? そんなものはないと思うね。戦わないに越したことはないよ。ただ、忘れてしまいそうになるんだ。子どもの頃に感じた恐怖を——恐怖を忘れた人間は、ろくなことを考えないからね。
 癌になってから、そんなことを考えてる。病床で新聞を読んだり、自分の人生を振り返ることが多くなった。幸せと不幸は、かならずワンセットだね。どちらか片方ってことは絶対にない。俺はマスクの下で、だれにも見せたことはないが、泣いたり笑ったり忙しいんだ。


 これは試合後にわかったことだが、クランプスの体のいたるところに転移し、クランプスマンを蝕んでいた癌細胞は、南米の巨人ディアゴの捕食によって見事に摘出されていた。癌細胞がどんな味がするのか、食べた場合にどんな影響があるのか、私は知らない。知らないが、そのためにディアゴは苦しみはじめたのだ、とネット記事はもっともらしく結論づけていた。
 どちらにしても、それがクランプスマンの唯一の反撃になった。
 クランプスマンはコーナーポストによじ登った。このタイミングでムーンサルトプレスを決めるつもりなのだと、会場はどよめき、騒然とした。
 しかし回転が足りなかった。
 コーナーポストの最上段から後ろ向きに跳んだクランプスマンは、回転不足で失速し、脳天からリングに墜落した。
 首の骨が折れる絶望的な音がした。
 二度と起き上がることはないだろうことは、だれの目から見てもあきらかだった。
 兄を挟んだ向こう側で、マコが席を立つ気配を感じた。足音が遠ざかっていく。マコは来たときと同じように黒い滲みになって、非常口の看板が点灯している会場出口に姿を消した。
 兄は泣いていた。体を小刻みに震わせて、ぎりぎりと歯軋りする音が聞こえた。私は何か言葉をかけたい気がしたが、世界に現存するどんな言葉も、いまの兄に寄り添うことはできなかった。
 手のひらで顔を覆って、指の隙間からこぼれる眩いばかりの天井を見つめ、子どもの頃に夜店で買ったヒヨコを誤って玩具の自動車で轢き殺してしまった日のことを思い出していた。それでようやく、私も兄と一緒になって涙を流すことができたのだった。

 みんな鳥について聞いている
 鳥、鳥、鳥、鳥は単語
 鳥のことを知らないのか?
 みんな鳥が単語だって知ってるぜ
 鳥、鳥、鳥、鳥は単語
 鳥のことを知らないのか?
 みんな鳥について話しているんだ

Surfin' Bird/The Trashmen

(了)

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