生きる意味とは何か―「フレデリック」と「夜と霧」そして「チ。-地球の運動について-」から考えた―
「フレデリック」という絵本を初めて読んだとき、この物語を嫌いだと思った。
「こう みえたって,はたらいてるよ。」というフレデリックの言葉をするっと読み飛ばし、こう断定していた。食べ物もわらも集めないフレデリックは働いていないと。つまりそのときの私はまだ「アリとキリギリス」の世界に生きていたからだ。
幼い私は「アリとキリギリス」の世界に生きていた。なかなか定職に就かない父の分まで母は忙しく働いて、大体いつもイライラしていた。父はそのうち家を出ていって、養育費もろくに払わなくなった。そんな父を憎み、ひいては仲間のために働きもしないフレデリックを嫌いだと思った。
しかし果たして母はお金のため、物質的な豊かさのためだけに働いていたのだろうか。そしてそのお金があれば私は今の私に育っていただろうか。 寝る前に父にへんてこにアレンジされた昔話をしてもらわなくても? 母に野草や山菜の名前を教わらなくても?
大人になってからしばらく経って、フランクルの「夜と霧」を読んだ。宇多田ヒカルが話のなかで挙げていて興味を持ったのがきっかけだった。十年以上続く双極性障害との闘病のなかで、私は「なぜ生きるのか」という問いへの答えを渇望していた。久しぶりに一人で本屋に赴いて買った「夜と霧」は、五歳になった息子の「フレデリック」の絵本と同じ本棚に収まった。
月なみな感想だが、強烈な読書体験だった。
極限状態で人間を生かすのは結局のところ、希望である。愛する人が自分の帰りを待っているという希望だけを拠り所にして、過酷な環境を生き抜くことができるのだ。
つまり「とうもろこしと きのみと こむぎと わら」だけに依って耐えることは難しいのだ。人はパンのみにて生くるにあらず。収容者たちが愛する人を思い浮かべてかすかな、しかし確かにあたたかい希望を見出すとき、のねずみたちはフレデリックが集めた「おひさまの ひかり」のなかに自分たちを待つ「もえるような きんいろの ひかり」のあたたかさを感じていたのではないだろうか。
それでは、自分を待っている人がない者や、待っている人を失った者の絶望はどのような意味を持ちえるのだろうか。
以前、知人に「身寄りも希望もない人を生かすにはどうしたらいいのか」と社会福祉の文脈で聞かれたことがあった。絶望に溺れた人を誰かが生かすことはできず、できるのはただこちらが相手を待つこと、そしてそうして待っていることに相手が気付くこと自体を待つこと。当時はそう答えた記憶がある。
フランクルは人生が自分を待っているのだという。人生が自分に期待しているのだという。読了時は腑に落とすことができなかったが、思いもよらぬ場面で手がかりを見つけることになった。
「チ。-地球の運動について-」という漫画作品は、人間たちが知性を巡って苦難の中で希望を繋いでいく話だ。ハラハラしながら一気に読み進め、そして最終盤に唖然とさせられた。絶望ともいえる展開だった。しかしある登場人物のセリフが非常に示唆に富んでいた。自分の人生を賭けた努力が思ったように実を結ばずとも、それが何かに影響を与え、人類全体が少しずつでも良い方向に向かっていくことを信じている、というのである。
愛する人が自分を待っているという希望が絶望に変わったときにも、なお消えないもう一つの希望は、自分が人間であるということだ。一体自分の人生がわずかでもいつかの誰かに良い影響を与える可能性を否定できるだろうか。
例えば最古の日本人の人骨として博物館に展示される旧石器時代の彼は、生前にその可能性を想像できたか、ということだ。なにも自分の人間としての可能性を自分が今想像しうる範囲のみに限ることはないのではなかろうか。
死後にだって可能性が広がるのだから、生きているうちなど人生からの期待に応え放題だ。手始めにフレデリックのように「おひさまの ひかりや いろや ことば」を集めよう。生きることは、生きるために必要な希望をたくさん集めること。今度生まれてくる甥にも「フレデリック」を読んであげたいと思う。
