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駐在帯同中、がんばらなくちゃが止まらない

妻の駐在に帯同して、アメリカで暮らし始めて半年。3歳の娘が、週に3日(月・水・金)、ローカルの保育園に通い始めた。

最初の2週間は「行きたくない!」と泣いていた娘も、最近は泣かずに登園できるようになった。ただ、完全に慣れたという感じでもない。楽しいとは言うものの、友達と英語で会話ができるわけでもなく、どこか気を張っているような表情を見せることもある。

それでも、少しだけ不安そうな顔をしながら、自分の足でしっかりと園の中へ入っていく。
その小さな背中を見て、私は「すごいな」と心から思う。

一方で私には、娘を送り出したあと、まとまった「自由な時間」が生まれた。

新卒で働き始めてから約10年、こんなふうに自分で時間を組み立てられる生活は久しぶりだ。
「この時間があれば、なんだってできる!」最初は、そんなポジティブな期待で胸がいっぱいだった。

2年後には日本に帰り、また働くつもりでいる。そのときに、この期間を振り返って「自分はこんなに成長できた」と胸を張れる自分でいたい。
キャリアを中断してまで生まれた貴重な時間だ。これを最大限に活かして、自分の可能性を広げてみたい。

やりたいことや、自分のプラスになりそうなことは、探せばいくらでも出てきた。
「やりたいことを全部やりきって、最高に充実した2年にしよう!」
本気でそう思っていた。

だから私は、やりたいことをどんどん考えた。

語学学校に行って、英語のレベルを上げたい。
キャリアコンサルタントの資格も取ったし、実務経験も積んでおきたい。
地域のボランティアも、日本の団体でのオンライン活動も面白そうだ。
痩せたいからマンションのジムに通おう。
料理だって工夫して楽しみたい。
記録としてnoteも毎週書いていこう。

やりたいことは、考えれば考えるほど溢れてくる。やらないと、きっと後悔する。

そして私は、あろうことか、そのすべてを同時にスタートさせてしまったのだ。

たとえば月曜日。
朝5時に起きて英語の勉強をして、お弁当の準備と娘の登園準備。
妻を会社へ、娘を保育園へ送り、そのまま日中まで語学学校へ。(我が家には車が1台しかない)
帰宅して家事と料理をこなし、合間にnoteを書き、英語ニュースを聞きながらジムでエアロバイクを漕ぐ。
夕方になると妻と娘を迎えに行き、ご飯やらお風呂やら歯磨きやら。
娘が寝た後は、深夜まで日本のNPO団体でオンラインミーティングに参加する。

金曜日は、さらに現地のボランティアにも参加していた。

やりたいことができて毎日がとても充実していたし、少しずつ成長できている実感もあった。

でも頭の中では、「まだ足りない、もっとできるはずだ」と、自分を励ますように、ずっと追い立てていた。

英語の勉強もNPO活動の勉強ももっともっとしたくて、朝起きる時間がどんどん早くなる。

最初は「やりたい」というワクワクだったはずなのに、気づけば頭の中は「しなきゃいけないこと」に占領されるようになっていた。
この時間は2年間しかない。全然足りない。しなきゃいけないことばかりだ。

「誰か僕に、しなきゃいけないことをください!」


「……パパ、スマホ見ないで!」
はっとして娘を見ると、娘は積み木で遊ぶ手を止めて、こちらをじっと見つめていた。

大好きだった、娘と遊ぶ時間。
気づけば、その時間でさえ、心はここにいなかった。

もともと、子どもと遊ぶときはスマホをなるべく見ないと決めていたはずだった。
それなのに、娘が隣で積み木を積んでいる横で、私は無意識にスマホを握り、英語アプリのノルマを消化したり、ボランティアの連絡を返すことに集中していた。

本来は一番大事にしたかったはずの娘との時間なのに、それが自分の「やるべきこと」ができない時間のように感じてしまっていた。

目の前で成長している娘ではなく、日本に帰った時の「履歴書に書ける自分」ばかりを見ていたのかもしれない。

ふとアルバムを見返すと、最近、娘の写真をあまり撮っていないことにも気づいた。以前は、何気ない日常の表情さえ逃したくなくて、同じような動画で容量がいっぱいになっていたのに。

「これが、本当にやりたかったことなのかな」

少し自分を振り返る。
実際、どれも自分でやりたくて始めたことだし、日本でフルタイムで働きながら子育てをしていた頃に比べれば、時間の余裕もあってはるかに恵まれている。

だから、「大変だ」なんて思ってはいけないと感じていた。
駐在で外国人と一緒に働く妻や、日本でずっと働いている元同僚たちと比べて、責任も軽い立場にいる自分は、もっと頑張らなければ価値がない。そう思い込んでいたのかもしれない。

どれだけ頑張ったかなんて、誰かと比べるものでもないのに。

次の月曜日、私は、試しに語学学校を休んでみることにした。

その日は、ゆっくりと部屋の掃除をして、娘の大好きなかぼちゃのスープをコトコト煮込んだ。それから、今度一緒に行きたい公園のことを調べた。英語をゆったり勉強して、エレキコミックのpodcastを聞きながらジムで適度に汗を流す。

それだけのことなのに、不思議なくらい気持ちに余裕が戻ってきた。

夜、湯気の立つスープを囲み、家族と向き合う。
そのゆっくりとした時間は、何かの合間ではなく、かけがえのない「そのものの時間」として感じられた。

そのまま、私は語学学校を辞めることにした。

後悔がないわけではない。続けていれば、もっと英語が伸びた未来もあっただろう。
それでも、あの時の私には、何かを手放す勇気が必要だったのかもしれない。

学校という枠組みに頼らなくても、英語は自分の工夫次第でいくらでも学べる。それよりも、決められた時間に縛られて家族にも自分にも少しずつ無理を強いていくことのほうが辛かった。
私が語学学校へ行くために、まだ眠たい娘を通常より1時間早く起こし、妻の会社の送迎に付き合わせることもなくなった。

そう決めてから、学校を辞めたあとも、英語の勉強は毎日続けられているし、現地ボランティアもNPO法人への参加も行なっている。

ただ、全部ノルマをこなすようにやるのではなく、今の自分が大切にしたいものの温度感を守りながら、成長を感じられるペースにできている。

帯同中の2年は、何でもできる魔法の時間ではない。むしろ、限られた時間の中で「何を選び、何を捨てるか」を問われる時間なのだと思う。

結局、どこにいても私は私のままだ。
環境を変えたところで、性格まで都合よく超人に変わるわけではない。

だったら、自分をすぐに変えようと焦るよりも、今の自分のままで地に足つけて成長できるようにしていきたい。

「またかぼちゃスープ作って〜」と笑う娘の横で、今はそんなふうに思っている。

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