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駐在夫1年目の『生きててよかった10個の事柄』

33歳で10年勤めた会社を退職し、2歳の娘(現在は3歳)と一緒に妻のアメリカ赴任へ帯同してもうすぐ1年が経つ。今日は、この1年間の日々を振り返り、『生きててよかった』と思えた瞬間を10個書きたい。

生きててよかったなんて、大げさなタイトルだなと思うだろう。僕もそう思う。
でも、何としても、生きててよかった10個を書かなければならない理由がある。
それは、駐在帯同前、僕が密かに掲げていた“ある目標”、それがもう叶わなくなってしまったからだ。

僕の目標、それは、大好きなエレ片のラジオ番組の名物コーナー「生きててよかった10個の事柄」にメールを送ることだった。
エレ片は、エレキコミックのやついさん、今立さんと、元ラーメンズの片桐さんによる3人組のお笑いユニットである。
「生きててよかった10個の事柄」は、彼らのラジオの中の【エレ片リスナーでも生きててよかったことはあるはず、人生で何としても10個見つけて送ってもらおう】という名物企画だ。

高校卒業を控えた春。
浪人が決まっていたけれど勉強に身が入らず、深夜ラジオを聞き漁っていた中で、偶然エレ片に出会った。そして、彼らのトークを聴いて衝撃を受けた。
とにかくバカでくだらないのだ。

二人からお前は不細工でモテないと言われたやついさんが、「でも、俺は誰よりもカッコいいと思われたがっているんだ!だからモテるんだ!」と謎の精神論を主張し続ける。意味が分からなすぎて、深夜1時の暗闇で大爆笑した。
修学旅行の夜に友達と布団に潜って話しているような、不思議な親近感があった。

緻密な台本や構成はなく、話も行き当たりばったりで脱線ばかり。
でも3人の掛け合いが、時々予想外の角度から大爆笑の内容に展開する。
まるで打率は2割しかないけれど、ホームランを40本打つバッターのような。

浪人生の夏。
模試の成績が悪く、毎日開いていた単語帳がどうしても開けなかった、予備校帰りの成田線。
そんな時、やついさんが一人でハワイアンズに行き、踊り子さんを女風呂の前で出待ちする話を聴いたら、あまりにバカバカしくて自然と笑ってしまっていた。
聴き終わったら、また単語帳を開いて電車に揺られた。

大学生1年目。
お笑いサークルでコントに夢中になるが、何度やっても笑いが取れない。学園祭でもスベって、実行委員が打ち上げる小さな花火を見ながらもう辞めようかと思った。
でも、今立さんが、キングオブコント最下位のショックで行方不明になる話を思い出し、また笑ってしまった。
後日、その花火を見ながら思いついたネタで爆笑を取るのだが、それはまた別の話。

入社1年目。
全く仕事ができず、毎日上司に怒られていた。
最寄り駅の一つ前で電車を降りて、イヤホンを付けながらとぼとぼ歩く。
片桐さんが、「腹筋1回出来たら可愛い女の子とキスさせて!」とお願いする回を聴いたら、泣きながら笑ってしまっていた。
家に帰り、翌日の仕事を整理して手帳に書きだすと、不思議と頭がすっきりした。
その習慣は、気づけば10年続く僕のルーティンである。

僕が人生で俯きそうになるたび、エレ片はとても大きな笑いの力で僕の背中を押してくれた。そんな時は、必ずホームランを打ってくれた。

「俺たちの方がバカだから何にも心配いらないぜ」
「そんなことどうでもいいから一緒に笑おうぜ」
なんて、役に立つアドバイスも解決策も何もくれないけれど、いつも変わらず隣にいる存在だった。

33歳で会社を退職して、主夫としてアメリカで生活する。
これからきっと大変なこと、辛いこと、色々なことがあるだろう。それでも、どんな出来事も、エレ片があれば笑いに変えてくれるはず。

そうだ、2年間のアメリカ生活が終わったら、『生きててよかった10個の事柄』のコーナーにメールを送ろう!その時こそ、人生の節目として、胸を張って10個を書こう。
そう心に決めていた。

夕食を作りながらエレ片のpodcastを聞く。アメリカでも変わらないルーティーン。
イヤホンから聞こえる「2026年3月で番組が終了する」というアナウンス。
高校生の頃から15年以上、毎週欠かさず聴いていたエレ片が終わる。

胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたようだった。
喪失感を紛らわすように、この文章を書き始める。
本当は2年間の帯同生活を終えた後に書いて送るはずだったメール。
でも、もう送る場所はない。
だからせめて、気持ちの区切りとして、ここに書いていく。

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やついさん、今立さん、片桐さん、こんばんは。

​アメリカ在住、34歳の男です。
​10年勤めた会社を退職し、主夫としてアメリカで暮らしてからもうすぐ1年が経ちます。
この1年の間に、生きててよかった10個がたまりましたので、送ります。
長文になり失礼しますが、良かったら聞いてください。

① 妻のアメリカ赴任が決まる

2024年8月のお昼休み。仕事中には珍しく妻から電話がかかってきた。
娘が保育園で熱でも出したかな、と心配しながら電話に出ると、「2年間のアメリカ赴任を打診された」と告げられた。
驚きよりも先に、良かった、そう思った。

妻は結婚前から「いつか海外で暮らしてみたい」と話していた。数年前にも妻に海外赴任の話があったが、その当日に娘の妊娠が発覚し、辞退した。

子どもができた喜びと、赴任ができなくなった悔しさが入り混じった表情。
生まれてくる子どものためにも、悔しいとは決して言わなかった妻。
だからこそ、再び巡ってきたチャンスを心から応援したいと思った。

問題は、僕と2歳の娘がどうするかだ。

会社には帯同休職制度がなく、帯同するには退職する必要がある。
一方で日本に残る場合は、僕は働きながら2歳の娘を一人で育てることになる。

自分のキャリア、娘の育児、お金、考えるべきことはたくさんあった。
本来なら、様々な相談や検討を要する重大な決断だ。

でもその日の夜、僕は家に帰るなり、「会社を辞めてアメリカに行くよ」と言い切った。

決して大層な理由はなく、
「家族みんなで一緒に暮らしたほうが、普通に楽しい」
直感的にそう思ったからだ。

ジャングルぐるぐるをドヤ顔で踊ったり、
小さいすべり台の頂上で大号泣したり、
抱っこでいつの間にか眠ったり、
この“今しかない時間”を、僕は見逃したくなかった。
小さい娘と一緒に過ごせる時間は、今しかない。
日本に残っても、仕事と育児に追われて、僕一人で娘を楽しませる自信がなかった。

それならば、この2年間は割り切って、家族との時間を最優先にした生活を選ぼう。
そのために自分が主夫になるのが一番しっくりくる。

人生何が起こるか分からない。でも、この時だけははっきり分かった。
一番大切なものが何か。

生きててよかった!

② 父に激怒される

「会社を辞めて、主夫としてアメリカに行く」
実家で父に伝えたところ、

「自分のキャリアをちゃんと考えているのか!」
「再就職はどうするんだ!」
「自分でお金を稼がないなんて、男として恥ずかしくないのか!」
と、ものすごい勢いで反対された。

僕の父はとても寡黙な人で、これまで一度も怒られたことなどなかった。
その父が、初めて僕の決断に反対した。
だからこそ、父の言葉は胸に深く刺さった。

僕は、何も言い返せなかった。
「家族一緒のほうが楽しい」という感覚だけで、決断していい話ではなかった。
父のほうが、僕のキャリアを真剣に考えてくれていた。

その日を境に、僕は初めて自分のキャリアや人生について真正面から考えるようになった。

大卒で10年、メーカーの人事として働いてきた。
30代半ばになり仕事は充実していた。
人にも恵まれ、これまでの経験は確かな財産になっていた。
駐在帯同の話がなければ、この会社で、もっとキャリアを積んでいきたかった。

一方で、海外生活や子育ては、新しい価値観に出会える機会でもある。
人事の資格を取ることもできるし、英語力を伸ばすこともできる。
この2年間をただの空白ではなく、経験を深め新しい視点を得る時間にすることができれば、決して無駄ではないはずだ。

日本に帰ってくる頃、僕は35歳。2年間の職歴の空白がある。
就職活動が上手くいく保証はない。それでも、胸を張って成長したといえるだけの自信を、2年間で積み上げていこう。

後日、実家を訪れ、父と向き合って話した。自分の将来のこと、家族のこと、思いを全部。真剣に見つめなおした自分のキャリアプランを話すと、最終的には父も賛成してくれた。僕の決断を受け止めようとしてくれた父に感謝した。

30歳を過ぎて、父にこんなふうに向き合ってもらうとは思わなかった。
30歳を過ぎて情けないが、父のおかげで初めて自分のキャリアを真剣に見つめなおすことができた。

生きててよかった!

③ 会社を辞める

2025年1月中旬。
会社の年頭方針説明会も終わり、お正月気分もすっかり抜けた頃、上司に退職を伝えた。

突然の報告に驚きつつも、子ども3人を育てるお父さんでもある上司は、家族と過ごしたいという僕の決断を尊重してくれた。
再就職に有利な資格や経験の棚卸など、もうすぐ退職する僕に親身になって教えてくれた。

退職届にサインをし、同じフロアの人事担当者に提出する。
僕が新入社員の頃、お世話になった先輩だ。
同期・先輩・後輩・昔の上司。
退職の報告をするたびに、自分がどれだけ人に恵まれた社会人人生を送ってきたのかを実感する。

PC作業をしていると、7月末日の退職者リストが人事メーリングリストに送られてくる。
僕の名前が載っている。
退職手続きのチェック項目が次々と埋まっていくたび、本当に会社員生活が終わるのだと、現実感と寂しさが込み上げてくる。

この頃から、朝5時に起きて勉強する習慣ができた。

日本にいるうちにキャリアコンサルタントの資格を取るため、子どもが起きる前のフリーな時間を使って必死に勉強した。
もうすぐ会社員でなくなる焦りも、2年後の再就職への不安もあったと思う。
でも、それ以上に、前向きに何かを学ぶことが楽しかった。

今まで勉強なんて全く続かなかったのに、本気になれば、忙しい中でも時間を作れるのだと知った。時間があり余っていた頃でさえできなかったことが、バタバタの毎日の中で自然とできるようになっていった。

生きててよかった!

④ 日本での娘との2人暮らし

2025年6月、妻が先に渡米した。
2か月半後に僕と娘は合流する予定だ。こうして、2人きりの日本生活が始まった。

フルタイムで働きながら、保育園の送り迎えをし、ご飯を作り、お風呂に入れ、寝かしつける。実家は遠く、頼れる人もいないワンオペ生活だった。

6月最後の金曜日、終業間際に緊急の仕事が入る。
何とか仕事を終わらせて18時ギリギリに保育園にお迎えに行くと、娘と先生が2人きり、大きな部屋の隅っこで小さなパズルで遊んでいた。
教室の前に立つ僕を見つけた娘が、ゲートにぶつかりながら走り寄ってくる。

保育園を出ると、夕暮れの徳持児童公園でかくれんぼをした。
茂みの陰からのぞく不安そうな横顔と、目が合うと途端に笑顔に変わるその一瞬が目に焼き付いている。

毎日のルーティーンをこなすだけで精一杯だったし、こなせない日も普通にあった。
二つ結びに10分かかるし、慣れない料理に苦戦するし、洗濯物もたまる。たった2カ月なのに本当に大変だった。
世の中には一人で育児をしている人も沢山いる。
みんな凄すぎるし、もっと社会全体で助け合わなきゃダメだと身に染みて分かった。

でも、大変なだけではなかった。
2人でよみうりランドのアンパンマンプールで泳ぎ、7,000円のテラス席に優雅に寝そべった。
縁日でバイキンマンのお面を買い、冷やしパインを一緒にかじった。
アメリカ行きの段ボールに、2人で絵本やおもちゃをぎゅうぎゅうに詰め込んだ。

娘と2人で支え合って暮らした日々は、きっと一生忘れない。

大変だったけど、生きててよかった!

⑤ 実家に帰る

アメリカに旅立つ2週間前、退職し賃貸も引き払った僕は、娘と一緒に実家でお世話になることになった。
久しぶりの実家での生活は、娘がいることでとても賑やかだった。
駐在帯同に反対していた父も、娘と一緒にたくさん遊んでくれた。娘の前ではすっかり表情が緩んでいる。

船便で娘のおもちゃをほとんど送ってしまい、実家には何も持っていかなかった。
すると、母が押し入れから大小さまざまな紙袋を出してきた。
中には、僕が小さい頃に遊んでいた電車や積み木、人形がぎっしり。

30年も大切に取っておいてくれていたのか。
1万日ぶりに日の目をみるおもちゃたち。
娘にたくさん遊んでもらえて嬉しそうだ。

僕はそのおもちゃで遊んだことを全く覚えていなかったが、当時のことを母に聞くと「これは誕生日に買ってね」「お友達と一緒によくこの電車で遊んでたよ」と、昨日のことのようにスラスラとエピソードが出てくる。

ふと気づく。娘も、今の2歳・3歳の記憶は、きっと大きくなったら忘れてしまうのだろう。
だけど、僕は全部覚えていよう。そう心に誓った。

親の愛の深さを知った。

生きててよかった!

⑥ 妻との再会

2025年8月21日。
13時間のフライトを、ほとんど抱っこで乗り切った。娘も眠れずにぐずり続けていた。こうして、ついにアメリカに到着。

ジョン・F・ケネディ空港の到着口を出ると、妻が手を振って待っていた。
3カ月ぶりに会う妻は、どこか少し痩せたように見えた。

へとへとだった娘は、妻を見つけた瞬間「ママ~」と小さく叫び、顔いっぱいに笑顔を広げた。その笑顔を見て、妻も同じように大きな笑顔になった。

周りの人たちが家族の再会に気づいて微笑む。僕はそっと娘を妻に手渡した。妻は両腕でしっかりと受け止め、 娘はその胸に顔をうずめるようにして抱きついた。僕たちらしい静かで胸に沁みる再会だった。

妻の上司が車でアパートメントまで送ってくれた。車が動き出すと、娘は安心したのか、すぐに眠りについた。きっと幸せな夢を見ていたのだろう。

そして、新居に着いてしばらくすると、
娘はまるで電池が復活したかのように元気いっぱいになり、「ママ見て!ママ来て!」と妻を独り占めしようと大はしゃぎし始めた。3か月分の甘えんぼうが一気に溢れ出したようだった。

夫婦の話は尽きなかったが、娘は、僕たち2人だけが話をしていると決まって割り込んでくる。
この家族の中心は私だと言わんばかりに、全身で必死にアピールをしてくる。
結局みんなで、いないいないばあや動物クイズをして笑いあう。

トレーダージョーズで買い物をしたり、近所の公園で遊んだり、一緒に料理を作ったり、車の免許を取ったり、アメリカでの新生活が始まった。

家族3人が一緒にいられる喜びと、これからの楽しい日々への期待で胸がいっぱいだ。

生きててよかった!

⑦ 英語が全く話せない

アメリカに来てからというもの、人様にご迷惑とご心配をかけすぎている。

公園で遊ぶ僕と娘に、「She is so cute! How old is she?」と優しく声をかけてくれたおばあちゃんへ。
「Three years old」すら出てこず、無言で指を3本立てて、苦笑いでスリーピースをして申し訳ございません。

スタバの店員のお姉さんへ。
「Where are you from?」と他愛ない雑談をしてくれたのに、注文が通っていないかと思い、必死に「カフェラテ、プリーズ!」「カフェラテ、プリーズ!」と連呼してびっくりさせて申し訳ございません。

アパートメントの修理のおじさんへ。
「これは君がぶん殴って壊したのかい?」と場を和ますジョークを言ってくれたのに、意味が分からずとりあえず「Yes! Yes!」と笑顔で答えて変な空気にして申し訳ございません。

英語が全く話せず、家族で楽しむどころか、日常生活すらままならない。

こんなはずではなかった。
TOEICは750点取れた。単語も文法も知っている。
アメリカに来て会話に慣れれば、自然と英語は話せるようになると思っていた。

でも、英語がテストの科目から生活の道具に変わった瞬間、僕は何も出来なかった。
社会の一員として生活をし、パパとして家族を楽しませるために、本気で勉強しないといけない。

毎朝、娘が起きる前、朝5時に起きてオンライン英会話をするようになった。
街に出て積極的に会話をした。
日々の生活で言えなかったフレーズをメモして、何度も口ずさんだ。
家事をしながら英語ニュースや洋楽を聴いた。

12月の雪の日、屋上で絵本を読んでいると、子連れのパパから話しかけられた。
「How old is she?」
今度は苦笑いしないで、相手の目をしっかり見て、
「She is three years old. How old is your child?」

たどたどしいけど、しっかり返せた。
相手は少し微笑んで会話は自然に続き、近所の美味しいレストランの話や病院の話なんかをした。

1年経った今も英語はうまくない。
いつも聞き返してばかりだし、失敗して謝ってばかりいる。

でも、こんな小さな積み重ねが、今はとても嬉しい。

生きててよかった!

⑧ 語学学校に通う

2025年の冬。
アメリカで暮らし始め半年が経ったころ、娘が週に3日、ローカルの保育園に通い始めた。

最初の2週間は「行きたくない!」と泣いていた娘も、最近は泣かずに登園できるようになった。楽しいとは言うものの、友達と英語で話せるわけではなく、どこか気を張っているような表情を見せることもある。
それでも、少しだけ不安そうな顔をしながら、自分の足でしっかりと園に入っていく。

一方で僕には、娘を送り出した後、まとまった自由な時間が生まれた。
新卒で働き始めてから約10年、こんな生活は初めてだ。

やりたいことはいくらでもあった。

語学学校に通い、英語力を上げよう。
オンライン英会話も1日2回受けよう。
キャリアコンサルタントの資格を活かして、日本のNPOで相談ボランティアをしよう。
社会貢献として、地域のボランティアにも参加しよう。
痩せたいからジムに通おう。
料理を工夫してこだわろう。
記録としてnoteを毎週書こう。

考えれば考えるほどやりたいことが溢れてきた。
再就職までの時間は限られている。
やらないと、きっと後悔する。

そして僕は、あろうことか、そのすべてを同時にスタートさせてしまった。

たとえばある日。
朝5時に起きてオンライン英会話をし、妻のお弁当作りと娘の登園準備。
我が家に1台しかない車で妻を会社へ、娘を保育園へ送り、僕は昼過ぎまで語学学校。
帰宅後は家事と夕飯作り、合間にnoteを書き、洋楽を聞きながらジムでエアロバイクを漕ぐ。
夕方に2人を迎えに行き、夕飯、お風呂、娘の寝かしつけ。
娘が寝た後は、日本時間に合わせて深夜までNPOのオンラインミーティングに参加した。

毎日忙しく行動し続けることで、前に進んでいる気がした。
でも、まだ足りない、もっとできるはずだ、と自分を追い立ててしまう。
駐在帯同の期間は2年間しかない。あとは何をすればいいんだ。

誰か僕に、しなきゃいけないことをください!


「……パパ、スマホ見ないで!」
はっとして娘を見ると、娘は積み木で遊ぶ手を止めて、こちらをじっと見つめていた。

大好きだった、娘と遊ぶ時間。
娘が隣で積み木を積んでいる横で、僕は無意識にスマホを握り、英語アプリのノルマを消化し、ボランティアのメールを返していた。
早く娘が寝てくれれば、もっと自分の時間が出来るのに、なんて考えながら。

アルバムを見返すと、最近、娘の写真をあまり撮っていない。
以前は同じような動画で容量がいっぱいだったのに。
目の前の娘よりも、2年後の自分の姿ばかり気にしていた。

外国でバリバリ働く妻や、日本で活躍する元同僚たちと比べて、時間に余裕がある自分は、もっと頑張らなければ価値がない。
そう思い込んでいたのかもしれない。
どれだけ頑張ったかなんて、誰かと比べるものでもないのに。

次の月曜日、僕は、試しに語学学校を休んでみた。

妻を見送り、いつもより1時間遅く起きた娘と、ゆっくり歩いて保育園へ向かう。

ゆっくりと部屋の掃除をして、娘の大好きなかぼちゃのスープをコトコト煮込む。
娘と一緒に行きたい水族館を調べる。
エレ片のpodcastを聞きながらジムで適度に汗を流す。
やっぱりバカでくだらないなあ。

それだけのことなのに、不思議なくらい気持ちに余裕が戻ってきた。

そのまま、僕は語学学校を辞めた。

英語力が伸びる機会を逃した後悔もある。
でも、限られた時間の中で、一番大切なものを見失わないようにしたかった。

夜、湯気の立つかぼちゃスープを囲み、家族と笑いあう。
そのゆっくりとした時間は、何かの合間ではなく、かけがえのない、そのものの時間に感じられた。

大切なものに改めて気が付くことができた。

生きててよかった!

⑨ ボランティアの経験

語学学校を辞めてからも、ボランティアは続けている。

地域のチルドレンズ・ミュージアムでは、館内スタッフのボランティアをしている。
アメリカで暮らす以上、地域の役に立ちたいという思いと、英語を実践的に使う機会がほしかった。

最初は子供たちの英語の質問が聞き取れず、笑ってごまかすことばかりだった。
本末転倒だが、なるべく話かけないでくれと祈りながら立っていた。

ある日、カリンバという民族楽器の前で、ママと3歳くらいの男の子が、遊び方が分からずに困っていた。
僕は勇気を出して、「Tap it with yourfingernail like this」と言って楽器を叩いてみせた。
男の子はパッと顔を輝かせて、何回も嬉しそうに音を鳴らした。
ママは僕に向かって「Thank you!」と笑顔で返してくれた。

どこの国でも子どもはかわいいし、子どもを見つめる親のまなざしは変わらない。
遠い国の、名前も知らない家族の笑顔を作れた喜びがあった。

取得したキャリアコンサルタントの資格を活かし、日本で暮らす外国人大学生向けの就労支援NPOにも参加した。
言葉や文化の壁に苦しみながら必死に生きる彼らの姿は、日本にいた頃の僕には見えていなかった。コンビニで普通に働く外国人店員さんは、本当にすごい。

そして、本業の傍らボランティアで働く日本人スタッフが沢山いることにも驚いた。
世界は自然に回っているんじゃなくて、見えない誰かが必死に回してくれていた。

夕方、保育園へお迎えに行くと、娘が僕の胸に飛び込んできた。
「パパ、今日ね、お友達と手を繋いだよ!」
笑顔で報告してくれる娘をいつもより高く抱き上げた。

保育園の入口からは、次々と子どもが走り出し、パパママの胸に飛び込んでいく。どの国にいても、家族一緒に過ごす喜びはみんな変わらない。

そんな当たり前のことに気が付くことができた。

生きててよかった!

⑩ ありふれた日常

この1年間の日々を振り返り、思い出すのはそう、どれも特別な出来事ではなくありふれた日常ばかり。

ジョン・F・ケネディ国際空港で、3ヵ月ぶりに抱き合う妻と娘

IKEAのショッピングカートで眠る幸せそうな娘の横顔

Oyster Bayの浜辺で「パパのおにぎりはまん丸だね~」とほっぺを膨らませる姿

ママの誕生日ケーキを作るため、クリームチーズとヨーグルトを一生懸命に混ぜる小さな手

セントラルパークでリスを追いかけて走り回る娘と妻の後ろ姿

大きいカボチャを必死に持ち上げようと全身で踏ん張る娘の横顔

ママが仕事から帰ってくると、塗り絵のクレヨンを放り出して玄関まで走っていく足音

僕がストレッチをしていたら、さっきまで寝ていた娘がいつの間にか隣で真似して前屈をしている

ディズニーワールドで、ゴーカートもう一回乗る?と聞いた時の喜びのジャンプは、娘の3年6ヵ月の歴史で一番大きいジャンプだった

このありふれた日常、かけがえのない瞬間を、僕はきっと一生忘れないだろう。

退職して駐在帯同をした選択が正しいのかは分からない。
キャリアブランクの不安もあるし、これから先どうなるか分からない。
日本に残っていたら、もっと充実した人生が待っていたのかもしれない。

それでも、この1年間、家族3人で笑って、食べて、遊んで、眠って。そんな当たり前の日々を幸せに暮らせたことが何より嬉しい。
何気ない日々の生活が一番の宝物だ。

番組は終わってしまい、エレ片にメールを送ることは叶わなかった。
でも、この文章を書きながら気づいた。
改めて自分の人生を振り返り、これまで家族・同僚・世界中の見えない誰か、そしてエレ片に、多くの笑顔を与えてもらって生きてきた。

エレ片が、ただ僕の隣にいてくれたように、僕もまた、家族やこれから出会う誰かのために、寄り添い、笑顔を与えられる存在でありたいと思う。
生きててよかった!



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おわり

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