パルダリウム #第3話(全7話)
「ねぇ、そう言えばさ、柔軟剤変えた?いつもと匂いが違う気がする。」
普段利用しているスーパーからの帰り道、マコトくんは柔軟剤の匂いが変わったことを言い当てた。申し訳ないけど「柔軟剤」って言葉を知ってたことに少し驚いてるのが正直なところ。
「やるじゃん。柔軟剤は液体のものから、今流行りのビーズに変えてみたんだ。在庫処分セールだったヤツ。」
「なにそれ、売れてないヤツじゃん。」
マコトくんはこういうところに結構敏感で、自分で確かめたセール品には太鼓判を押すんだけど、目の届かない所でアタシが買ってきたセール品には懐疑的になる癖がある。
「マコトくんが気付いたってことは、ちゃんと効いてる証拠。だから大丈夫。てかさ、もうちょっとアタシの方にも傘ちょうだいよ。さっきから雨当たりまくってんだけど。」
「え~、でもこれ以上そっちにやると俺の右肩がびしょびしょになるんだよな。」
普段は受け流せるはずの一言にも今日に限って反応してしまう。マコトくんもいちいち反論しないと気が済まない性格を何とかして欲しい。売り言葉に買い言葉でピリついた空気が頬を刺してくる。
「アタシが濡れても良いってわけ~?スーパーで買ったヤツももう濡れてるし。てか袋持ってよ。」
「俺は傘持ってるから無理。てかさ、ちゃんと傘持って来いよ。雨降るってわかってただろ?」
「は~?マコトくんが入れてくれたら問題ないじゃん。」
ほらね、やっぱりこうなった。最近は普通の会話を続けることさえ難しい。そもそも会話をするにも精神的な助走が必要で、やっと走り出したと思ってもすぐに石に躓いてしまう。そのせいで会話の流れがひっくり返ることが多くなった。現に穏やかに済むはずだった会話が見事に言い争いに発展してしまっている。そして最後に残るのは疲労とわだかまりだけ。
「どう考えてもこの傘で2人が入りきるわけないだろ。せっかくのお気に入りの服ももう濡れてきちゃってるし…。」
アタシと服のどっちが大事なの?って聞きたかったけど、服って言うだろうな。
「どうせ洗濯すんのアタシじゃん。」
「それくらいやってくれても良いじゃん。俺は働いてるんだし。」
「アタシだって働いてるわ。」
「俺の方が大変な業界なの。」
「出た出た。それ、もううんざり。」
突き放す言葉が雨音でかき消されていく。マコトくんはわざとらしく「はぁ…。」とため息をついて前を向いたまま何も言わない。
傘が閉塞感を助長していて風通しが悪い。自分から険悪な雰囲気の中に頭を突っ込んでいるみたいでいつまでも息苦しい。耳に入ってくるやかましい雨音は、このギスギスした空気を変えるにはちょっと力不足だ。
マコトくんは傘を半分くれたまま。でもそんなことはどうでも良い。
————わかってた。雨が降りそうなことくらい。わざと傘を持って行かなかっただけ。
あの動画を見て以来ずっと胸の中がザワついている。アタシと別れたハルくんが、アタシと一緒にいて幸せになれなかったハルくんが、すごく幸せそうだったから。
アタシと別れたから幸せになれた。アタシがいなかったから、あんな混じり気のない笑顔で知らない女と笑うことができてる。その事実が喉元をずっと締め付けてる。アタシだってやれる。アタシだって幸せを見つけられる。アタシだって……。
ハルくんの隣りにいただけで幸せって思っていたのは、アタシのエゴだったんだ。それなのにアタシはマコトくんからも欲しがった。きっとマコトくんだって負けてない。相合傘をすれば、ハルくんみたいな言葉をくれるに違いない。優しさも、匂いも、体温も。あの時の感情を上書きしてくれるって。
勝手に期待して、勝手に落ち込んで。
「…救われないね。」
雨音を味方につけて、マコトくんに聞こえない程の小さな声で呟く。
今日は特別、家までの距離が長く感じる。雨の冷たさとスーパーの袋の持ち手が食い込んで痛い。袋を持ち替えてもマコトくんが代わりに持ってくれそうな様子もない。それが、ただただ悲しい。
アタシはマコトくんに悟られないように冷たくなった唇をぎゅっと噛んだ。
————―————―————―————―————―————―————
玄関を開けるなり、マコトくんは乱暴に靴を脱ぎ捨てた。濡れた靴を揃えようともしない。
「あ~ぁ、この靴もお気に入りだったのにな。」
「洗えばまた履けるでしょ。」
スーパーの袋を置きながらアタシが口を開いた時には、マコトくんは既に上がり框を踏んでいた。
アタシがたまに遊びにくるマコトくんの賃貸マンション。そう長くもない廊下は、数歩進めばすぐに居間にも風呂場にもたどり着く。こっちを振り返りもせずにさっさと風呂場の方に行ってしまったマコトくんの背中を、アタシは口を尖らせて睨みつけた。
遅れてアタシも靴を脱ごうとするけど、濡れた靴下がスニーカーの素材に張り付いて手間取ってしまう。
「もう…!なんで脱げないの…!」
力ずくで脱ぎ捨てたいところだけど、スーパーの袋を持ち続けながら冷たい雨に打たれた左手の感覚が鈍くて上手く力が入らない。結局、床に腰を下ろして、靴ひもまでほどいてやっと脱げた。
「なにやってんだろ…。」
濡れた靴下のまま廊下を歩いてやる。後で掃除するのはアタシだもん。別に良いじゃん。
雨に濡れた服が容赦なく体温を奪っていく。けれどなんだか濡れた服を着替える気にもなれず、そのままの格好で買った食材を冷蔵庫の中に入れる。
冷たい服、冷たい身体、冷え切った関係、漂う冷気、アタシを取り巻く温度が、アタシのやるせなさを写しているようで涙があふれてくる。
マコトくんがこの場にいないことにかこつけて、アタシは思いっきり冷蔵庫の扉を閉めた。
