「自己決定の落とし穴」の穴を優しさで埋めたい
「あなたが決めたんだもんね」「自分の責任だよね」。教室の温度を一気に冷やす言葉だ。モノが豊かで選ぶことができる社会の中へと進歩した現代。自分で選び、自分で決めることには、いつも周りの目がついて回る。
筆者は「自己決定にはふたつの側面」があるとしている。
自己決定には、個々人の権利を守るという側面と、個々人に責任を負ってもらうという側面があります。前者は立場の弱い人びとの権利を守るという視点で使われれることが多く、後者は当事者に責任を負わせるという文脈で使われることが多くなりがちです。
「自分で決められる」という権利の面から捉えた場合、自己決定はとても魅力的なものに見えます。一方、「責任を負わされる」という義務的な面から捉えると、自己決定はとても重たいものになります。
学校教育の場面においても、小さな自己選択や自己決定の場面を大切にしていくことが主体性へと結び付くということをよく耳にする。私自身も、そうだと感じる。一方、こうした「自己選択・自己決定」という言葉を子どもの権利や主体性を育むために使うのか、大人の持つべき責任を子どもへと押し付けるために使うのかで、意味合いは大きく異なる(まさにそれは、ヒドゥンカリキュラム的に表れるのである)。
小学生に主体性を発揮してもらうと、教師の描く理想の主体性もあれば、教師が意図しない主体性も生まれてくる。これが似たタイミングで用いられる、言われたことを一生懸命に行う「自主性」との大きな違いだと言える。
昨今、流行りの自由進度学習はどうだろうか。教師が学習計画を渡し、子どもたちは、それを見ながら進度を自由に進めていく。単元末のテストなり、まとめなりで評価がつく。「事前に評価も渡しているんだから、やらなかったのは君だよね」みたいなことが起こっていないだろうか。
著者の石田は、こうも語る。
責任の体系は、いずれも力をもっているものに作られていることがわかります。自由に選び決定してもよいけれど、そこに課せられる責任の体系は力のある人がつくりがち。これが自己決定の思想が強者の論理と言われるひとつの理由です。
教室の中で、どうしても権威性をもちやすい教師によって作られた、学習における責任の体系が「自由進度学習」となってしまっていないだろうか。
「自由進度学習にしたら、余計に見取りが大変ですよ」
が決まり文句になっていて、結局その見取りや学習デザインの問い直しを怠っていないだろうか。もっというならば、今日の学習や今回の単元において子どもたちにたどり着いてほしいことを、実は教師が言語化できていないことはないだろうか。
子どもたちに「自己選択・自己決定」の機会を保障していくことは、きっと必要だ。そこに潜む責任を負わせる構造と向き合わねばならない。権利を保障しているはずの自分が、権利を奪う真似をしてはいけない。
必要なのは何か。システムを包括するような教師と子どもの関係性だ。子どもたちを、ただレールの上を走らせているわけではない。いつだってレールすら外れられる、だってそれは教師が見てくれているから。「監視」や「統制」のための見取りではなく、優しさに包まれるような穏やかな視線があったらいい。
