古いイタリア映画を観る

半年ほど前から月に一度、イタリア映画会なるものに参加している。知り合いの70代くらいのおばあちゃんが誘ってくれて、それから参加するようになった。

総勢10人やそこらへん。周りはみんな還暦を過ぎたおじいちゃんとおばあちゃんばかり。大学生は僕だけ。

映画の街イタリアの1930年代後半から1950年代の古い映画。

正直にぶっちゃけると、あんまりわからない。

この間見たのは、ラファエロ・マタラッツォ監督の「絆 Catene」(1949年公開)。
これに関しては、面白いのはわかった。昼ドラでやってそうな感じ。

夫グリエルモと妻ローザ、2人の兄妹、義母。そしてローザの元婚約者、エミリオ。

再開したエミリオがローザに復縁を迫る。(これがかなり執拗かつ狡猾である)。ローザ自身はエミリオを拒絶していたものの、夫グリエルモは2人の関係を怪しみ結果的にエミリオを射殺してしまう。

裁判にかけられたグリエルモは、懲役数十年。
ローザが潔白であったという司法判断に基づいた結果である。
ここで弁護士が一声ぼやく。
「不倫関係にあったなら、正当防衛と看做され、無罪になったのに」

そうして、ローザはエミリオと不倫関係にあったと証言しようと決意する。たとえ自分が追い詰められる結果になろうと、愛が証明されるなら。

結果、グリエルモは無罪。
最後は家族5人が抱き合ってテロップ。

邦題では「絆」だが、原題には鎖という意味もあるそうで、僕はどちらかと言えば「鎖」の方が合っていそうだなと思った。

繋げるという意味での絆と、切れないという意味での鎖。
家族の絆と家族の鎖。

この映画は、というかネオレアリズモなるものが、日本では本国よりかは評されることなく、その大半が公開されることはほぼなかったらしい。少しわかる気がする。なにしろ大体ストーリーはワンパターンで、御涙頂戴って感じ。けどそれは僕がある程度恵まれて育ったからであって、ネオレアリズモ映画が「刺さる」世代ではないからかもしれない。

戦後のイタリアの街では、こういった映画を見て、映画館で涙ぐむ人々が多かったらしい。もしも僕が、戦後のイタリア社会を生きていたとしたらきっと、この映画を見に行って、涙ぐんでいただろうと思う。


さて、問題はこれ。本気で何を描いていたのかわからなかったのは、家でアマゾンプライムで見た、フェデリコ・フェリーに監督の「8 1/2」である。

これは本当にわからなかった。けれどもコアな映画ファンの中では評価は高いらしく。

僕がこの映画に面白みを見出せるようになったら、映画好きと答えるようにしようかな、と思う。
世の映画好きな人からの評価が高いならきっとそういうことなんだろう。

なにしろ本当にわからなかった。

けど少し学んだ。
主人公の空想の中?(全然わからなかったので調べた)で、ロープで繋がれて宙に浮かびながら自転車を漕いでいる描写があるのだが、それはスティーブン・スピルバーグ監督の映画、「E.T.」のポスターの背景にある空飛ぶ自転車にオマージュされているらしい。

それと、この話はフェデリコ・フェリーニ監督本人の、監督としての葛藤や悩みみたいなものを投影した映画らしいこと。本当にそれだけ。


あんまりにわからなかったもので、フェデリコ・フェリーニ監督の他の作品も見ようと思いたって、「道」を観た。これはおそらく、僕の中で忘れられない一本。

ここであらすじは不要。この映画を、自分の目で見てほしいと思う。この映画は先ほど触れた御涙頂戴の映画とは、全く異なっている。

この映画の感想を一言でまとめてしまうのは、無謀とも言える行為だが、相当な言葉を列挙してみると、「残酷」、「後悔」、「悲哀」「愚直」、あたりだろうか。

冒頭、ザンパノにジェルソミーナが売られたシーン。違和感を抱いた。先にザンパノに売られたローザが死に、その代わりにわずか10000リラで売られたジェルソミーナ。ここで母親は確かに涙を見せた。けれども、心なしか目先のお金欲しさにジェルソミーナを売ったように見えた。ローザを売った縁で、ジェルソミーナを買いに来たことに、少なからず安堵していたんじゃないだろうか。仮に母親がそう思っていたとしても、兄弟が多いジェルソミーナの家族を養っていくには、他に手段がなかったのかもしれない。
母親の元にローザの遺骨は帰ってきたのだろうか。作中ローザには触れられていないが、きっとローザは見ず知らず土地で埋葬されたのだろう。そこでジェルソミーナを売るしかなかった母親。

「残酷」と表現したのは、結局ジェルソミーナはザンパノに捨てられた後、救われないまま死んでいったからだ。誰にも言えない秘密を抱えたまま、口も聞けず、朝も昼も夜も歌い続けたのだろう。ザンパノもザンパノで、孤独と生き続け、ジェルソミーナの死を知った後も、何も変わらずあのまま鋼鉄の肺の男を続けていったのだろう。友人や恋人というものを知らず、孤独の殻に閉じこもったまま。

「後悔」というのは、ザンパノの慟哭が物語っている。彼はきっと、馴染んでいたメロディーを耳にした瞬間、ジェルソミーナがそこにいたことを確信しただろう。同時に孤独が押し寄せた。
それはきっとジェルソミーナの母親にもあっただろう。ジェルソミーナが去るという時、ローザと同じく最後の別れになることも想像したことだろう。結局ジェルソミーナは母の元に帰ることはなかった。きっと兄弟姉妹、母親の元を去ってしまったジェルソミーナにも。

「愚直」というのは、ジェルソミーナの表情を眺めていればよくわかる。笑顔と泣き顔、切り替わりの演技がすごく良かった。そして、ザンパノに対して、愚かさを孕んだ素直さとも言えるような感情を抱いているように見えた。それは、あくまでも自己の内面が屈折することなく現れるからであって、どこかでみた映画紹介のコメントのように、ジェルソミーナを「発達障がい」であると片付けてしまうのは、あまりに雑すぎると思う。この映画において、彼女が発達障がいであるかどうかは、問題ではない。
ザンパノに対しても、愚かさを孕んだ素直さという部分で同じことが言える。人間が必ず持ち合わせている「影」の部分。暴力性、孤独、頑固さ、怒り。これに向き合うことができなければ、ザンパノに対する嫌悪感と、ジェルソミーナに対する同情しか残らない。

ジェルソミーナの愚直さ、同じくして、ザンパノの愚直さ。言うなれば、この映画は見る我々に、自己の内面の光と影に向き合うことを強いる。

ところで、「すべては何かの役に立っている」とアルレッキーノに言わせたわけは、今だにわからないままだ。僕の稚拙な感想に言わせれば、「役に立たないこと」の反証ではないか。まず、彼は誰かの役に立っただろうかというところを考える。アルレッキーノの言葉で、果たしてジェルソミーナは救われただろうか。どんなわけがあって揶揄っていたか作中触れられていないが、ザンパノも嬉しいはずはない。サーカスのまとめ役にも「あいつはクビだ」と、半ば呆れられているようにも見える。結局は自己の行いでザンパノを激情させ、命を落とした。この部分で、アルレッキーノは、「必ず役に立っている」ことへの反証を表している。そして、作中を通して、それでも「生きていかねばならない」というメッセージを与えているように感じた。

この映画の何が僕を惹きつけるのか、今後明らかにしていきたい。フェリーニはクリスチャンだったそうで、この映画においても色濃く影響を与えている。せっかくミッション系の大学に通っているのだから、そういった視点でこの映画を見てみたいと思う。


こんなことを考えて、3度目の「道」をみながら文章を書いていたものだから気づけば前回の更新から6日も経ってしまった。
バイト漬けの日々を送っているもので、通勤の電車の中で書き進めた。
稚拙な感想を終わりまで読んでくださった方は、数少ないと思う。感謝です。時が進むにつれて、この映画に感じることは少しずつ変わっていく気がする。というか、間違いないこと。

ただの日記。ご愛嬌。

また、楽しい時間を過ごしていこうと思う。









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