蟻はどこにいった?
7月も、もう半ば。北海道の短い夏が、そのピークを迎えようとしている。アスファルトは気だるい熱を放ち、窓を開ければ、もわっとした草の匂いが部屋に入り込む。
完璧だ。夏が来た。 なのに、今年はまだ、あいつらが来ないのだ。
毎年暑くなると家にでてきた、あの黒い小さな兵士たち。そう、蟻の軍隊である。 我が家の台所を目指し、彼らはいつも、一糸乱れぬ3列部隊を組んで行軍していた。その見事な統率力には、毎年頭が下がる思いだった。
もちろん、こちらも黙って見ているわけではない。チョークで国境線を引こうが、ガムテープで道を塞ごうが、彼らは巧みな工兵部隊を繰り出し、いとも簡単に障害を突破していく。市販の毒餌、アリの巣コロリを設置しても、見向きもされず、数日後にはホコリをかぶって「閉店ガラガラ」状態だ。
なぜなら、彼らはグルメなのだ。 そんな人工的な餌には目もくれず、彼らが目指すのは、我が家の三ツ星レストラン。そう、子供らのゴミ(アイスやお菓子の残骸、袋)である。床に落ちた、ほんのひとかけらの甘い誘惑を、彼らは決して見逃さない。その鋭い嗅覚と味覚、そして執念は、もはや知性と呼ぶにふさわしかった。
そんな知性的な彼らとの戦いの末、最終的にはスプレーで撃退するのだが、それはもはや、夏の始まりを告げる儀式のようなものだった。あんなに戦っても、彼らは毎年、必ず帰ってきたのに。
今年は、いない。 もしかして、去年の私の総攻撃が、彼らの文明を根絶やしにしてしまったのだろうか。なんだか、逆に気になる。歓迎できるわけじゃないが、いないとなると、どうにも落ち着かないのだ。
そんな、かつての好敵手に思いを馳せながら、うっかり半日置き去りにした生ごみの入った、赤い燃えるゴミ袋を、ゴミステーションに運びに行こうとした、その時だった。
「ママ! 生まれたてのウジだよ!!!」
家の中から聞こえたのは、息子の、この世の終わりでも目撃したかのような、悲痛な叫びだった。
恐る恐るゴミ袋の口を覗き込むと、そこには、息子の言う通り、生まれたての小さな命たちが、うごめいていた。
一方、ウジくんたちは、グルメなどではない。 そこに知性や統率はまるでない。ただ、本能のままに生まれ、うごめくだけの、混沌と、生命力だけの、おぞましい光景だった。
『たすけてえ、連れて行かないでえ』
彼らの、声なき声が聞こえるようだ。私は、悲鳴を押し殺し、震える手でゴム手袋をしながら、その赤い袋を固く、固く縛った。
そして、悟ったのだ。 私は、間違っていた。蟻たちは、厄介ではあったが、まだ対話の余地がある、美食家の隣人だった。それに比べて、こいつらはなんだ。私は、秩序あるグルメ軍団を駆逐してしまった代わりに、無秩序な暴食集団を誕生させてしまったのだ。
ああ、今なら、心の底から叫べる。
ほんとに、あいつらどこいったんだ! 帰ってきてくれ、蟻たちよ! 君たちのほうが、まだ百万倍マシだった! この夏の静けさは、平和の証などではなかった。それは、より恐ろしい何かが始まる、前触れだったのだ。
ねえ、どこいったの? お願いだから、帰ってきて、こいつらをどうにかしてくれ!
