見出し画像

恋の嫉妬のあとに

僕が今よりも若く、傷つくことに対しての免疫が十分ではなかった頃のこと。

その頃の僕は自らの能力に自信を持ち、正しさを盾に自分を守り、仕事に対しては自他ともに厳しかった。10代に多くの人が思春期を通過するように、20代の僕は成熟した大人になる過程で、尖っていることで自身を保っていた。それは僕が通過しなければいけないひとつの在り方だった。

そんな未熟な頃に僕は彼女と出会い、自身の中に芽生えた嫉妬と対峙することになったのだ。

彼女が僕の職場に転職してきた初日、オフィスの扉を開けると周りを一瞥することなく僕のデスクの前に立った。

「あっ、一星沙希(イチホシサキ)と申します、よろしくお願いします」

「赤坂です。よろしくお願いします」

「おっ、赤坂さんですね、よろしくお願いします」

初めて言葉を交わしたときに、彼女が物事に動じることなく、相手の状況を的確に察知できる人だと僕の直感は悟った。

聞けば彼女は、高校時代にロンドンに留学していて、帰国後に難関大学に入り、今の僕が務めている会社でアルバイトをしていたようだった。     
当時の一星さんは社員顔負けの活躍振りで、大学を卒業した後には誰もが知る一流企業に就職した。

その会社を3年勤め上げた後に退職して、彼女は1年に渡りひとりで世界中を旅して、大学時代にアルバイトをしていた職場に戻ってきたという。だから僕の上司である山木さんは、大学時代から一星さんのことを知っていた。

「イチホシちゃん、大学の頃から変わらないねー」

「いやー見えないところが太ってきたし、わたしもだいぶ丸くなりましたよ。もうヤマキさんに逆らっりはしませんから、ヤマキさんには、はい」

山木さんは女性で唯一の管理職で、若手社員たちは山木さんを前にすると、みんな緊張していた。誰も言わないような正しく厳しいことを山木さんは相手の立場に関わらず率直に言うからだ。

そんな山木さんの采配で一星さんは僕の配下に所属することになった。すなわち、僕は彼女を教育する立場となったのだ。

僕の職場には、一星さんのようないわゆるエリートが集っていたから彼女の肩書き自体は珍しくはなかった。英語を扱う職種のため8割は帰国子女で、3ヶ国語を話す人も多かった。そして彼女たちは共通してプライドが高く、自分が仕事ができるという自負を持っていた。

そんな知性とプライドの高い帰国子女が集う職場で、まだ20代の僕が管理者として立ち振る舞うにはそれなりに尖っている必要があったのだ。

ある時、僕は神知さんという後輩の女性のミスを指摘した。神知さんは英語に加え、中国語をマスターしていて、仕事は誰よりも覚えるのが早く、吸収力と行動力に長けている一方で慎重さには欠けていた。

そんな神知さんが担当する、あるお客様へのメールは僕が内容を確認してから送ることが決まっていたが、彼女は僕に確認せずに送ったのだ。   

理由を問う僕に対して、神知さんは早急に送信する必要があったからだと自分の過ちを認めなかった。それなら事後にでも口頭で報告するべきだ、と僕は冷静に指摘した。

「そう言うなら今からでもメールの内容を確認して下さい。修正する内容があればすぐに訂正しますし、修正箇所がないなら結果的に問題ないですよね」
神知さんは挑むように言った。

そう言われて神知さんが送信したメールの内容を確認している間、彼女は不機嫌さを隠すことなく苛立っていた。僕は彼女の苛立ちを察しながらも、ゆっくりとそのメールを2回読み直してから言った。

「修正箇所はない。要点がまとまっていて分かりやすい文章だ」
「なら次からも確認しなくていいですよね」 
「いや、次からは決められたことに従って事前に確認するように」
「納得できません」

僕はそこで一息ついた。自分がこれから発する言葉を選び、その影響を考えた結果、留まる必要はないと僕は判断した。

「神知さんを納得させることよりも、何が正しいかの方が僕には重要だ。伴い、神知さんは正しい対応をすることと、自分のプライドを守ることのどちらが大事かを考えた方がいい」そう言うと、神知さんは僕の目を鋭くにらみ返した。

もっと別のアプローチで神知さんの過ちを正す方法はあっただろう、と今にしては思う。ただし、知性とプライドを隠す術を知らない精鋭たちが揃う職場で、まだ若い僕が管理者として振る舞うには、鋭い言葉で相手を制して、自分を誇示する必要があったのだ。そのように当時の僕は自らの在り方を正当化していた。

その点一星さんは自らの知性に無頓着であった。その知性を適切に発揮した直後には、自分の知らない分野の話を向けて遜り、相手を立てる。周りと壁を作ることなく器用に立ち回り、物怖じせず、小さなことにこだわらず、大らかで図太かった。大胆である分、小さなミスをすることがあったが、彼女は周りからの評価を気にしない器の大きさも持ち合わせていたのだ。

僕はわずか数日の間、一星さんの言動を見て、その知性に無沈着な彼女に好意を抱いていることを自覚した。そして僕は、その気持ちを誰にも悟られないように、一星さんを指導する立場という大義を盾に、彼女のミスに対して、その都度、厳しく冷静に指摘したのだ。

ある日僕が休憩から戻ると、7人グループの内、5人が英語で会話をして盛り上がり、残り2人は英語が話せずその会話に参加できずにいた。

その様子を見た一星さんは、間髪入れずにその輪に入った。

彼女たちは一星さんにも英語で話しかけたが、一星さんは日本語で応じた。

それでも彼女たちは英語での会話を誘導したが、一星さんは日本語で話し続けながら、さりげなくも英語が話せない2人にも話題を向けた。

そこでようやく英語で話していた5人は一星さんの意図を察したようだった。

一星さんの対応を見た僕は、上の立場として素直に感心することができなかった。僕は彼女と同じく、英語が話せない2人の気持ちを察知することはできても、一星さんのような対応はできなかっただろう。

一星さんは何の躊躇もなくその会話に入りながら、英語が話せない2人の気持ちや体裁には触れることなく、その場の状況を見事に解消したのだ。あえて2人のことを口に出さなかったのは、彼女なりの配慮であり、その場の全体の中和を図る最適な方法だった。

「イチホシちゃんらしい対応だったね。赤坂くんならどうするかな」

一連の対応を見ていた山木さんがそう尋ねてきたが、僕はそれに応じることができなかった。

「あれ、赤坂くんが答えられないようなことを聞いちゃったのかな」

無邪気さを装っていたが、その目は鋭く、僕は山木さんに自らの感情の奥を見られた気がした。 

そのときにようやく僕は、自分が一星さんに嫉妬していたことに気がついた。彼女は僕が手にしたかった様々な能力を無自覚に身につけていたのだ。

だから僕は一星さんのミスを指摘して自らを誇示することで、それを解消しようと努めていた。僕は自らの嫉妬を自覚して、その濁った気持ちから目を背けまいと自らに誓った。そして僕の心的動機が不純であっても、一星さんのミスを正すという行為そのものは、仕事においては正しいということだけが僕の心の拠り所となった。

「山木さんが思っている通りです。僕は不純な感情を抱いていることに今更ながら気がつきました」

「あらそう。ならその不純さとやらに存分に向き合ったらいいじゃない」

山木さんはそう言うと、困惑した僕を残して軽やかにその場を去っていった。

自らの不純を自覚した僕は、仕事においては動機よりも結果が優先されると言い聞かせて、一星さんのミスや不十分な対応に対して時に厳しく、時に諭すように指摘をした。彼女は理解力が高かったから僕の言葉の意図を理解して、僕を慕い、頼るようになり、対応が難しい仕事を僕に相談するようになったのだ。彼女からの信頼を感じることで、僕は部分的に満たされたが、心底満たされることはなかった。

そんな思いを抱えていたある日、職場で一星さんのことが話題になっていた。

「一星さんってずるいよね。自分だけいいところとって、山木さんにアピールしてるし」

誰からも評価され、慕われていた一星さんが批判されていたのを聞いた僕は、なぜか心地よさを感じていた。
その感情を紐解いてみると、一星さんへの批判は、僕に嫉妬ではなく、同情を芽生えさせ、それに心地よさを感じたのだった。

嫉妬が下から目線で相手を見上げる感情ならば、同情は上から目線で相手を見下す感情なのだろう。僕が彼女を上からの目線で見ることができたとき、自身の中にある嫉妬が一時的に解消されたことに気がついたのだ。

僕は自らの感情に耳をすませて、自身の感情の汚さと向き合いながら、それを誰にも悟られないように努めて、仕事と一星さんに冷静に向き合うことを決意した。

それは極めて緊張感を伴う作業だったから、まだ若かった僕は仕事に対して自他共に厳しさを求めて、人との距離を必要以上に保つようになったのだ。

人を好きになるということに喜びと苦しさが伴うとして、僕が苦しさの側面を味わう分、皮肉にも僕の仕事は評価されて一星さんとの信頼関係も深まっていった。

そんな感情を抱えながら2年ほど経った頃に、一星さんは「赤坂さんのおかげで本当にやりたいことが見つかりました」と仕事を辞めることを決意したのだ。

それを聞いた僕は一星さんと会えなくなることよりも、自分の状況に区切りをつけることができることに安堵した。

そして僕は長らく抱えていた感情から解放されるならば、その感情を一星さんに伝えようと決意した。

退職する日に自分のデスクが花束やプレゼントでいっぱいであることを見た一星さんは「ありがとうございます。でもまた戻ってきたらごめんなさい」と笑っていた。

その日山木さんは「イチホシちゃんは残った仕事を終わらせてから帰ってね。最後だからって容赦しないよ」と言い残し、僕と一星さん以外を定時で上がらせて、希望者を募って飲みに行った。

残された僕と一星さんがそれぞれの仕事を続けていると、彼女はコーヒーをふたつ買ってきて、そのひとつを僕のデスクに置いた。

「やっぱり山木さんは赤坂さんのこと、すごく評価してますよ。そんな赤坂さんにわたし、怒られてばかりでしたね。でも怒るのって怒られることより消耗するんだって赤坂さんを見ていて気づきました」

何もいえない僕は一星さんが買ってくれたコーヒーを飲み、彼女の言葉に救われながら、自分を理解してくれる人が去っていくことを悟った。

その場に相応しい言葉が見つからないまま22時が過ぎると、一星さんは最後の仕事を終えたようだった。

「やっと終わりました。山木さん、最後まで厳しいですね。赤坂さんもはうすぐ終わりそうですか」

「もう少し、かかるかな」
僕が引き留めるための理由を探していると、一星さんは、僕のデスクの空になった缶コーヒーを取り、そのまま出口に向かっていった。
僕はその背中が遠のいていくのを黙って見ることしか出来なかった。

そんな僕の心情を察したのか、一星さんは入口で立ち止まった。

「最後ぐらい飲みにいきましょうよ。前にみんなで行った中華料理屋で待ってますから」

背中を向けながらそう言うと、一星さんは僕の返事を待たずに職場を後にした。もう一星さんがここに戻ってくることがないと僕は悟った。

仕事を終えて中華料理屋に行くと、一星さんはすでにひとりでビールを飲んでいた。

「赤坂さんはビール飲めないから紹興酒ですよね。あと、餃子とチャーシューと野菜炒めはもう頼んでますから、他はお支払いされる赤坂さんが頼んでください」                     

「まぁ最後だからご馳走するよ」                  「ごちそうさまでーす、いただきまーす」

一星さんはそう言うと残りのビールを飲み干した。

「あれ、赤坂さん、元気ないですね。仕事で疲れたんですか。それとも何か悩んでるんですか」                         「まぁ、一星さんがいなくなると色々と大変だなと」

僕とは対照的に一星さんはいつも以上に陽気だった。

乾杯をすると僕らは2人だけの言葉で語り合い、久し振りに笑い合った。限りある時間の中での心地よい時間は、酷にも速やかに時を刻んでいった。

一星さんはビールに飽きるとハイボールを飲み続けて、僕は一星さんに負けじと同じペースでハイボールを飲んだが、全く酔うことが出来なかった。

終電が間近になった頃、僕は改めて一星さんのことが好きであることと、もう一星さんと会うことがないことを意識した。

「もう一星さんと会うこともなくなるんだね」

「そんな寂しいこと言わないでたまには飲みにいきましょうよ。赤坂さんのおごりなら、わたしいつでも行きますよ」

不自然に途切れた会話の間には、店主が中華鍋を叩く音が響いていた。もう今しかないし、それを逃したら後悔するだろうと僕は自らに言い聞かせた。

そして中華鍋の甲高い音が止まり、隣のテーブルに炒飯が運ばれた。僕は残りのハイボールを一気に飲み干した。

「あっ、炒飯頼み忘れましたけど、もう終電ですね」         「僕は」                            「えっ」                             「僕は、一星さんが」                       「はい」                             「僕は初めて見た時から一星さんのことが好きだったんだ」
「気づいてましたよ」

一星さんは間髪入れずに応じた。まるで僕の言葉を先読みして、予め用意されたセリフを言うように即座に答えたのだ。

「誰にも悟られないようにしていたんだけど」

一星さんは、時計を見てから言った。

「赤坂さん、わたしもう一杯飲みたいんですけどオーダーしてもいいですか。いいですよね」

「もちろん、一星さんが良ければ僕も飲むよ」  

「わたしからも赤坂さんに言いたいことがあるので」           

そう言うと一星さんは、ハイボールを2つオーダーした。

運ばれてきたグラスで僕らは2度目の乾杯をした。

一星さんが僕の気持ちに気づいていたことを踏まえて、この2年間を思い出すと、僕は自らの過去の言動に自信を保てなくなってしまった。

そんな僕の心境を読み解いたみたいに一星さんは言った。

「わたし、赤坂さんのことを職場では誰よりも信頼していました。仕事に対する姿勢とか物事を公平に見るところとか、相手に応じた説明をするところとか、感情よりも正しさを大事にするけど、人の気持ちを察するところとか、赤坂さんから学んだことがたくさんあります」

一星さんの言葉は、僕のある部分を満たしてはくれたが、喜ぶのはまだ早い。大事なのはこれから語られる言葉だ。

僕は一星さんの続きの言葉を覚悟して、グラスを取ったが、そこには氷しか残っていなかった。仕方なく僕は氷を口にしてそれを噛み砕いた。

「でも端的に言って、わたし好きな人がいるんです、ごめんなさい」

端的に言って、という前置きをつけるあたりが一星さんらしいと思った。

望ましくはない結論が示されたと理解して、僕は氷を飲み込んだが、喉は渇いたままだった。

「一星さんに振られてしまった」                  「はい、赤坂さんを振りました、着実に。でも赤坂さんは、まだわたしに言いたいことがあるんじゃないですか」

そう言いながらハイボールを飲み干した一星さんは、僕の空のグラスを見て言った。                             「すみませーん、ハイボールを2つと、炒飯をお願いします」

店内に一星さんの声が響くと、店主は中華鍋に油を引き、何かを察したように僕に向かって微笑んだ。

「わたし、終電には乗りませんからそのつもりで話してください」

ハイボールが2つ運ばれてきたが、一星さんはそれには手をつけずに僕の言葉を待った。
彼女を前に、もう全て話してしまおうと思ったし、その後どのような感情が流れてきたとしても受け入れようとも思った。一星さんの態度が、僕にそう思わせたのだ。

「端的にいえば、僕は一星さんに惚れていた。厳密にいえば、僕は一星さんの能力に嫉妬していた。隠さずにいえば、僕は一星さんに対して厳しく指摘することで、その嫉妬を解消していたんだ」

一星さんを覗くとその目は潤んでいた。何事にも動じなかった一星さんは、その潤んだ目を隠すことなく僕を見た。

「その告白は真剣に受け止めます、むしろ好きという言葉よりも刺さりました。赤坂さんはそんな自分の心から目を逸らさずに2年間も仕事をしていたんですね」

その言葉を聞いた僕はどうしようもなく喉が渇いたが、それを潤したくもなかった。目の前の一星さんは、目を潤ませたまま、ようやくハイボールに口をつけた。そして店主が叩く中華鍋は、さっきの炒飯のときよりも大きく、甲高い音を店内に響かせたのだ。

「振られてしまったけれど、一星さんの言葉には救われたよ」

「なんだか来たときよりもお腹が空きました」              そういうと一星さんは、炒飯を美味しそうに食べて、ハイボールを飲み続けた。

途中で店主が「これサービスです」と言ってニラ玉を出すと、一星さんは僕に断ることなく、独りでそれをたいらげた。ハイボールに飽きた僕は、ザーサイを肴に紹興酒をゆっくりと味わった。

「そういえば、わたし山木さんに聞いたことあるんです。赤坂さんのこと」
「え、何を」                           「赤坂さん、もっと自分の感情を出してもいいんじゃないかって」    
「山木さんは何て」                        「今の赤坂さんはまだそれでいいんだって言ってました」       
「そうか」                             「わたしも今になって山木さんの言っていたことと、赤坂さんの苦労が分かりました」                          

2年間の恋はあっけなく散ったけれど、その間の苦しさは、一星さんの言葉により昇華されたと実感した。

そのあとの時間はゆっくりと流れて、僕らは朝日が昇るまで飲み明かした。

彼女は気分良く酔っていたけれど、僕はいくら飲んでも酔うことは出来なかった。冷静な眼差しで一星さんを見ていたら嫉妬なしでも好きだと悟ってしまった。すぐ近くにある彼女の手は、僕が触れるにはあまりにも遠すぎたから、僕は仕方なく紹興酒の入ったグラスを強く握り締めた。

「今日はご馳走さまでした。そして赤坂さん、ちゃんとわたしのこと諦めてくださいね」

何も言い返せずに、僕は一星さんを見送った。その背中はどんどん小さくなり、やがて僕の視界から消えていった。

空を見上げると朝日が眩しく光り、新たな世界がはじまっていた。


いいなと思ったら応援しよう!