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「神さんの堪忍袋の緒が切れる音、聞いたことおすか?」

「神さんの堪忍袋の緒が切れる音、聞いたことおすか?」

「沈黙する神と、許しの哲学」

【京都・十日ゑびす】笑う神さんが、堪忍袋の緒を切るとき。

「商売繁盛で、笹もってこい」

賑やかなお囃子が、冷たい風に乗って祇園の路地を吹き抜けていきます。

今日は十日ゑびす。
私たち京都人にとって、お正月が「ハレ」の静寂なら、えべっさんは「ケ」の始動。日常という戦場へ向かうための、腹ごしらえのような日やもしれません。

我が家には、江戸の世からずっと家を見守り続けてきた、一柱のえべっさんがいてはります。

我が家では江戸の時代から
この布袋さんをえべっさんと見立てて手を
合わせてまいりました。


長年の煤(すす)と埃(ほこり)をまとい、黒光りするその御姿。
神社でお見かけする石像のあけすけな満面の笑みとは少し違う、どこか口元を堅く結んだような含みのある笑顔をしてはります。

そして、この後ろ姿。
丸うて、ちいそうて。そやけど、なんと重たげな背中やこと。
背中に入った一本の筋(すじ)は長いこと重い袋を背負い続けてきた証(あかし)みたいにも、あるいは堪えきれずに裂けそうになるのをじっとこらえてはるようにも見えます。


「えべっさんはなあ、普段は温和な神さんやけど、一度怒らせたら怖いで」
幼い頃、古老たちからそう聞かされました。
えべっさんが脇に抱え、背中で支えてはるあの大きな袋。あれは福が詰まった袋やと誰もが思いますよね。

そやけど…
我が家ではこう教わってきました。

「あれはな、堪忍袋(かんにんぶくろ)や」と。

来る日も来る日も
人の欲や愚痴、理不尽な振る舞いをえべっさんは「へえ、へえ」と正面からは笑顔で聞き流し、その袋の中にすべて飲み込んで堪(た)えてはる。

私たちは正面から手を合わせるばかりで、神さんの背中を見ようとはしません。
笑顔の裏側でその背中がどれほどの重みに耐えているのか、想像もしないのです。


「堪忍袋の緒が切れる」という言葉があります。
人間が怒りを爆発させる時によく使いますが、もしも、神さんの堪忍袋の緒が切れたら……それは怒りではなく静かなる「別れ」なんやないやろか…とふと思いますねん。

神さんが怒らはるのは、私たちが失敗した時やありません。
私たちが「謙虚さ」や「感謝」を忘れ、その笑顔に甘えきってあの背中の重みを忘れてしもうた時。

その時、ふつりと緒が切れ!
袋の中に溜め込んでいた徳がすべて逃げていく。
手を合わせる…ということは「願いを叶えてもらう」ことやのうて、神様の袋の緒が切れぬよう、自らの心の澱(おり)を点検する作業なのかもしれません。

黒いえべっさんの、ひび割れたようにも見える背中。
「まだ、切れてへんよ。そやけど、お気張りやすや」

そう言われている気がして
私は今日もまた
背筋を伸ばすのです。

ここ大事どす。

「名は体を表す」と言いますが、信仰の世界では「祈りが神を作る」とも申します。

江戸時代「神さんの堪忍袋の緒が切れる音、聞いたことおすか?」から続く「我が家のえべっさん」が、袋(堪忍袋)を持ってはる。
うっとこはお商売をしている家ではありません。
学問の家。
それは、「釣り竿(技術)よりも、袋(堪忍・度量)の方が大事やで」 という、ご先祖さんからの言葉…遺言のような気がしてなりません。

【追伸どす】

「二つの顔を持つ、我が家の福の神」

【十日ゑびす】竿(さお)で釣る福と、袋で堪(た)える福。

「商売繁盛で、笹もってこい」
今、祇園のまちに響くお囃子とともに、神社の境内に鎮座してはるのが、この石のお像。
右手に釣り竿、左脇に大きな鯛。
これぞ「えべっさん」のまことのお姿どす。

ここで少し、えべっさんの謎解きをしまひょか。
七福神の中で唯一、えべっさんだけが日本の神様やと言われますが、なんで「網(あみ)」やのうて「竿」を持ってはるか、ご存知どすか?

網を使えば、魚は一網打尽。
せやけど、えべっさんはそれを「欲」として嫌わはるんです。
「汗をかいて、知恵を絞って、自分に必要な分だけを一本釣りする」
それが商いの、ひいては人の道の基本やと教えてくれてはる。
あの釣り竿は「足るを知る」という戒めの棒なんどす。

さて、そないな由緒正しきえべっさんの話を書いておりましたら、ある方からこないなメッセージを頂きました。

「あんたの家の黒い神さん、あれはえべっさんと違う。袋を持ってはるさかい、布袋(ほてい)さんやないか」と。(この投稿の一つ前の話どす)

ご明察、その通りどす。
お寺や教科書で言えば、あの黒いお姿は布袋さん、あるいは大黒さんと呼ばれるのが正解でしょう。
そやけど、不思議なもんでございます。
我が家では江戸の昔から、あの大きな袋を背負ったお方を「えべっさん」と呼び、手を合わせてきました。

なんでか。

それはきっと、ご先祖様さんにとって「心のあり方」の秘訣が、魚を釣る技術よりも、その背中の袋――すなわち「堪忍袋(かんにんぶくろ)」にあったからやないですやろか、と思うのです。
商売をしてる家ではない。
学問で人様の役に立ちたい。
ずっとずっと古よりそのように学んでまいりました家どす。

理不尽を飲み込み、苦労を笑顔に変えて、じっと堪える。
その「堪忍」の先にこそ、本当の「福(えびす)」がやってくる。
そう信じたからこそ、我が家では布袋さんのお姿に、えべっさんの心を重ねてきたんやと思います。

「名を捨てて、実を取る」
それもまた、古からの京都の家々に息づく、ひとつの信仰の形。

竿で糧(かて)を得る、表のえべっさん。
袋で徳を積む、我が家の裏のえべっさん。

二人の神様に見守られて、今年もまた、賑やかな一年が始まります。

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