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雨をあつめる

「あいにくの雨ですね」

誰かが申し訳なさそうにそう言うたび、僕は心の中で小さく首を横に振る。本当は、雨の日が好きだ。
理由は拍子抜けするほど単純で、そして少しだけズルい。「今日は外に出なくてもいい」という、誰もが納得してくれる免罪符が手に入るからだ。

もちろん、濡れた傘を差して駅まで歩くのは億劫だし、靴のつま先がじわじわと湿っていく感覚には最後まで慣れない。
けれど、一歩家の中に入ってしまえば、そこは世界で一番安全なシェルターになる。

窓の外に暗い雨粒が流れ落ちるのを眺めながら、マグカップから立ち上る湯気を吸い込む。あの瞬間の、世界から少しだけ取り残されたような妙な充足感は、晴れた日にはどうしても味わえない。

雨には、季節ごとに違う表情がある。
春の細い雨は、音もなくいつの間にか街を濡らしている。まるで遠慮がちな訪問者のようだ。夏の夕立は潔い。「行くぞ」と決めたら迷いなく空を切り裂き、熱を帯びたコンクリートを力任せに冷やしていく。そして秋雨は長く、しとしとと静かに街の奥深くまで染み込んでいく。

同じ「雨」というたった二文字の言葉なのに、季節によってまるで別の生き物のようだ。最近では、窓から見える景色の霞み具合と匂いだけで、今日の雨がどの種類なのか、なんとなくわかるようになってきた。

雨には、固有の「声」もある。
トタン屋根を激しく叩くドラムのような音。深くなった水たまりにぽたりと落ちる清らかな音。差した傘の布地をすべり落ちる、ささやかな音。雨そのものは無音のはずなのに、触れる場所によってまるで違う声で語りかけてくる。

幼い頃、祖母の家の縁側で雨宿りをしたことをよく覚えている。 古びた庭石に跳ねる小さな雨粒を、ただぼんやりと眺めていた。祖母と何を話したか、あるいは終始無言だったのかさえ覚えていない。けれど、雨の音だけが庭を支配していたあの静けさと、不思議な居心地のよさは、今でも皮膚の感覚として残っている。あそこには、急かされるものが何ひとつなかった。

そう、雨はあらゆるものの境界線を曖昧にしてくれるのだ。
遠くのビル群は灰色のモヤの中に消え、誰かの足音も雨音にかき消される。世界と自分を隔てていたくっきりとした線がぼやけていくにつれて、自分自身の「外側」と「内側」の区別もうやむやになっていく。

だからこそ、雨の日は少しだけ余分に自分を許せる気がするのだ。 大きな決断をしなくてもいい。誰かと自分を比べて焦らなくてもいい。SNSのタイムラインを追いかけるのをやめて、今日くらいは、ただぼんやりと立ち止まっていていい。

雨の日にしかしない、小さな儀式がある。
本棚の奥で眠っていた読みかけの小説を引っ張り出す。普段は面倒で淹れない、少し上質なお茶の葉を選ぶ。窓のすぐそばに椅子を寄せ、特に何も考えずにただ外の景色を眺める。

晴れた日には「何か生産的なことをしなければ」という無言のプレッシャーに追われて思いつかないような時間が、雨の日には驚くほど自然に流れていく。

こうして僕は、雨の日の記憶を少しずつ集めてきた。
傘のずっしりとした重さでふと思い出す、遠く離れた誰かのこと。 雨上がりの濡れた石畳から立ち上る、雨の匂い。 窓を叩く規則的なリズムに合わせてめくった、本の中の好きな一節。 雲の隙間から一瞬だけ顔を出した、ちいさな虹のかけら。

雨をあつめている。
けれど本当は、雨そのものを集めているのではないのかもしれない。 社会という速すぎる流れの中で、傷つかずに「立ち止まる理由」をあつめているのだ。

「今日は雨だから仕方ない」
そうやって自分を甘やかし、走り続けなくてもいい日の記憶を、胸の奥の小さな箱に、ひとつずつ、そっとしまっておくために。

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