30年前と変わらない「白いぼうし」の行間を改めて読んで
子どもの国語の教科書に「白いぼうし」があった。私の時代からある教材だけど、30年以上ぶりに読んで「これ、難しくない?」と思った。

国語の教科書に載っている文章を読み解くにも段階がある。私が読み解いた過程を書き下すと、以下のようになる。
文字通りに文章を読む
文章から情景が浮かべられる
場面の繋がりや伏線や行間を読む
作品としての意味を見出す
ようやく評論ができる
上に図解したのは「2.」までの話となる。その先「3.」以降で、登場人物の人柄を想像したり、意味を見出してその手掛かりとなる表現の断片を味わったりする。
もし、この作品と同じテーマで令和に書かれていたとすれば、「女の子の正体は、ちょうちょだったんだ!」とオチを作中描写してしまうだろう。みなまで言うのは野暮にも思えるけど、そこまで書かないと面白さが伝わりにくいご時世になった。素晴らしい作品も、まずは読んでもらって伝わってナンボだ。
文章中で説明がなされると、「3.」「4.」の過程はすっ飛ばされてしまうが、それでも「5.」の評論はできる。「その発想は興味深いですね」や「途中の表現が伏線として効いてましたね」は言える。
行間を読んで意味を見出すスキルは重要?
読解力を高める意味では、「3.」「4.」ができるに越したことはない。だけどそれは、説明的な文章に溢れた世界では優先度が下がったんじゃないかと考えている。
イメージ的には「よく連絡する電話番号を暗記するスキル」「土鍋を使ってごはんを炊くスキル」「運転者が自動車整備するスキル」に近い。
年寄りが「ワシの若い頃はなぁ…」と言いたくなるスキルの多くは、昨今、必須ではなくなり、一部の愛好家が趣味として「あえてやる」ものになった。
その代わりに「居酒屋でのQRオーダー」など、日常生活には新たな別のスキル習得が課された。一概に「最近の若者は退化した」という話ではないように私は思う。
仕事の現場で求められる国語力に関して言えば、書き手としては行間を作らず一意に読めるよう書かねばならない。読み手としては、そのように書かれた文章を、論理的に読み解けなければならない。
こういった時代の流れがあるだろうと思っていたら、高校の国語教育は既に「現代の国語」と「言語文化」に分かれていた。文学作品は古典とともに後者「言語文化」に押し込まれている模様。
そうなる過程で、反対意見が出たことも想像できる。記事にも書かれていた「言葉のニュアンスや意味の違いに敏感になる」のが大事だから、文学作品に触れるのも一理あるなと思った。
きっと、高校の要領を変えるのも苦渋の選択だったんだと思う。そちらで手が打たれているなら、小学生くらいは作品を味わってもいいよねとも思いなおした。
時代の流れに歯止めをかけるべきか?必要に迫られて後からでも学べる修養ではなく、学校ではじっくりと教養に重きを置くべきでないか?は悩ましい問題でもある。
文学作品はどちらに向かってゆくのか?
改めて読んで「白いぼうし」のリズム感は素晴らしいし、それらの作品が解説なしに味わえないのも勿体ないのは認める。
ただ、行間を読めなくなった現代人とっては、分かりにくい文章であるのもまた事実だとは思う。分かりにくさがあるから、試験の問題として出しやすい事情もあるだろうし、作品に権威を求めることも少なからずあるだろう。
昔のことを想像するに、四書五経などの「大説」と比べれば、「小説」は教養のない人が読むサブカルだったとか。そうであれば現在、「小説」や教科書に載るような文章と比べて、より軽い「ラノベ」や「漫画」に置き換わっても不思議はない。
私自身はあまり「ラノベ」の類を読まないけれど、読書や国語に馴染む入り口としてはアリだよねと思っている。そこから、より教養めいた作品に進んでゆけば理想。
もしかすると、入り口から奥に進んでも「小説」や「大説」に繋がっていない可能性もある。だけど、そこだけで新たな文化が盛り上がって、必要とされるスキルセット群が生まれるなら、それはそれで文学の進化であるようにも思う。
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