見出し画像

松前城

松前郡松前町 国指定史跡 日本百名城No.3

【立地】

沖口広場(沖口役所跡)

 松前城は松前町中心市街地の中央、福山の台地に位置します。地元では福山城とも呼ばれます。南は曰本海に面し、対岸は青森県津軽外が浜に対峙し、周囲を見渡す眺望にも恵まれています。
 前面の海岸は約4kmが岩礁で、岩礁を利用した船着場や切り通し状の船着場を持った港町となります。海岸から松前城までの距離は100m、城跡から背後の山地までは700mといった立地を持ちます。 

【歴史】

築城

松前藩屋敷入口

 甲斐源氏の流れを組むと伝わる松前家の前身蠣崎(かきざき)氏は、大館を拠点とし、五代慶廣(よしひろ)のとき、豊臣秀吉、徳川家康によって大名となり、姓を松前と改めました。慶長5年(1600)初代藩主となった慶廣は、大館の南方にある、福山台地に新城(福山館)を築城、6年の歳月を費やし、慶長11年(1606)に完成しました。 

 時は流れ嘉永2年(1849)、幕府は蝦夷地近海に出没する外国船に対し、要害を固めるよう、17代崇廣(たかひろ)に築城を命じました。崇廣は、翌三年に築城に着手、縄張の設計には幕末の三大兵学者の一人として名高い高崎藩の市川一学(いちかわいちがく)を登用、総奉行には家老の松前内蔵廣当(くらまさひろ)を抜擢、五年の歳月を経て、安政元年(1854)に竣工しました。竣工とともに、幕府目付堀織部正利熙(ほりおりべのしょうとしひろ)らが新城を検分し、松前城と名付けられ、我国最北に位置する、日本式城郭としては同時期に造られた五島列島の福江城と並び最後の城となりました。 

戊辰戦争と松前城

五番台場跡

 明治元年(1868)10月、旧幕府軍は、榎本釜次郎武揚(えのもとかまじろうたけあき)を首領として蝦夷地(現森町鷲ノ木)に上陸。さらに五稜郭を占領し、その後、かつての新選組副長土方歳三が率いる、彰義隊、陸軍隊、額兵隊、新撰組ら約700人で組織する旧幕府軍が松前城を襲いました。

二ノ丸二重太鼓櫓台跡

 一方、松前藩上層部の重臣は当初独断で奥羽越列藩同盟への参加を決めますが、新政府軍を支持する他の家臣は「正議隊」を結成、重臣たちを排除して実権を握りました。また、松前藩主松前徳広(のりひろ)は生まれつき病弱で、旧幕府軍の攻撃前に館城へ移り、松前城には南門(搦手門、大手門、天神坂門)に45名、北門(寺町御門)に50名の兵だけを残し、旧幕府軍に対峙しました。

東郭隅櫓

 土方歳三率いる旧幕府軍は松前城の東側の高台に位置する法華寺を本陣とし、海上の回天丸とともに砲撃を仕掛け、同時に陸からは額兵隊と彰義隊が城内への侵入を試みました。しかし、砲台を備えるなど海防を重視した大手門をはじめとする城の南側の構えは固く、また、守る城方は扉内で大砲に弾丸を装填し、扉を開けて発射するという戦法をとるなどし、旧幕府軍の侵入を退けました。ところが、財政難から急遽陣屋を改築した松前城の北側の構えの薄さに気が付いた土方歳三は北側の寺町御門から侵入、松前藩は死力を尽くして防戦しましたが、落城し、城内の一部と寺町を焼いて敗走しました。
 明治2年(1869)4月には、旧幕府軍の占拠する松前城を官軍が奪回するなど、2年にわたる松前城の戦いは、城下町の3分の2を焼き、城内にも大きな被害をもたらしました。

廃城後

取り壊された石垣

 明治5年(1872)、松前城の取り壊しが決定。明治8年(1875)までには、天守、本丸御門、本丸御殿を残し、他の建物や石垣、堀などは破壊されました。

 昭和10年6月7日、松前城は国史跡の指定を受け、昭和16年(1941)には天守と本丸御門および東塀が旧国宝の指定を受けました。 
 昭和24年6月5日、町役場の火災の飛火によって天守・東塀は焼失し、本丸御門(大手門)と御殿の一部を残すのみとなりました。 

復興天守

 昭和35年には鉄筋コンクリート製の復興天守が完成。翌年、付帯施設が竣工するとともに、復興天守は松前城資料館としてオープンしました。 

【遺構・建物】

天神坂

 松前城は本丸、二ノ丸、三ノ丸の順に、より重要な曲輪をコの字に囲む梯郭式の縄張りが採用されています。
 建物は天守1棟、二重櫓3棟、渡櫓門3棟、多聞櫓2棟、城門16棟を備え、特に海岸に近い三ノ丸には海防を重視し、台場7基を配備しました。 

天神坂門

 城内への入口は、馬出口・天神坂・馬坂・湯殿沢口・新坂の5ヶ所になります。天神坂は細いながらも風情ある石段で、平成14年(二〇〇二)に天神坂門が再建されました。

馬坂口

 馬坂口では、重臣は馬で、一般藩士は徒歩で登城しました。大坂冬の陣直前、初代藩主松前慶広の四男数馬之介が豊臣方へ味方をしようとし、この坂で斬られたため、古くは数馬坂と呼ばれていたと伝わります。

搦手二の門と土塀

 三の丸から搦手に入ると平成12年(2000)に再建された搦手二の門の前に出ます。搦手二の門の高さは約六・四メートル、間口(幅)約四・二メートルの規模を持つ瓦葺の高麗門形式の門として再建されました。
 搦手二の門とともに再建された周辺の白い土塀には鉄砲狭間が見られますが、松前城築城時は、すでに兵器の中心が銃や大砲となった幕末であり、矢狭間は作られていないのが特徴です。

表御門と復興天守

  天守は昭和35年(1960)に造られた鉄筋コンクリート製の復興天守です。内部は資料館となっており、三重目の屋根は入母屋造の銅板葺、鯱は青銅製の金箔押になっています。
 天守台に続く石垣には、緑色の凝灰岩が使われています。見た目が亀の甲羅に似ているので亀甲積と呼ばれます。降雪で中に水が溜まって石垣が崩れないように、目地が無いように積んだ切込接の積み方になっています。天守台石垣には、戊辰戦争時の銃痕がみられます。

本丸表門(重要文化財)

 松前城で唯一残った本丸御門(重要文化財)は、昭和25年(1950)8月29日重要文化財に指定されました。切妻造り、銅板葺き、三間一戸両脇戸付き櫓門となります。南を正面とし、東に天守との間に塀が並びます。 
 南を正面とし、東に天守との間に塀が並びます。さらに屋根は、神社の社殿で良く観られる流造となっており、城門としては珍しい造りをなしています。また、屋根の長さは場外側が正面に対し短く、城内側の本丸に対し長くなっています。

表御殿(北海道指定有形文化財)

 表御殿は松城小学校校舎として使われましたが、明治33年に新校舎建築の際に撤去されました。しかし、この表御殿だけは、小学校正面玄関として利用され、昭和57年までの間、原形を保っていました。現在は、そのまま曳屋され、保存されています。
 この玄関は、京都伏見城の一部を移したものと伝えられていますが、唐破風の曲線や懸魚は、桃山時代の流麗な作風をもち、また外部の松竹梅に鶴亀、内部の五・三の桐と相対する沢瀉(おもだか)の紋章をはめこんだ蟇股(かえるまた)は、桃山時代の特徴をよく示したものとして評価されます。 

外郭の堀と復興天守

【主要参考文献】
永田富智 『日本城郭大系第一巻北海道・沖縄』 1980年新人物往来社
小和田哲男など『週刊日本の城』 ディエゴスティーニジャパン
松前町公式ホームページ

いいなと思ったら応援しよう!