四稜郭
函館市 国指定史跡
【立地】

四稜郭は、五稜郭の鎮守である北海道東照宮を守るため、五稜郭の北方約3kmの権現山前部の傾斜地上の標高101mの地に築かれています。この地は五稜郭および函館市内を眺望することのできる要害の地で、五稜郭の鬼門に当たるところから、ここから約1km西南には、幕府の箱館奉行小出大和守が元治元年(1864)に東照宮を祀り、その四囲を土塁で築いた権現台場があります。また、四稜郭は隠し砦の役割も果たしていました。
四稜郭は五稜郭に対して稜堡が四つであることから明治以後につけられた呼び名で、当時は新台場、神山台場の名で呼ばれていました。
【歴史】
明治元年10月25日、箱館を占拠した旧幕府軍は五稜郭を政庁として、北海道を一時的に支配しました。翌3月、新政府軍の奪回を予想した脱走軍は、五稜郭と箱館湾口の弁天台場を核として防衛の態勢を固めましたが、平野部の中にある五稜郭を固めるため、各所に支城にあたる台場を持つ必要がありました。とくに主戦場となることが想定される渡島平野南端の押さえとしてこの地に四稜郭が築かれました。

明治2年4月、旧幕府脱走軍は士卒役200名と付近の住民約100名を動員して、昼夜問わずの工事で数日のうちに完成させたと地元では伝わります。
明治2年(1869)年5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を開始しました。松岡四郎次郎率いる旧幕府軍は四稜郭の防御に努めましたが、新政府軍には松前藩兵も加わり、さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退路を断たれることを恐れた旧幕府軍は五稜郭方面へと退却しました。伝承によれば、四隅の砲座のうち、実際に発砲したのは北側の二隅だけと伝わるので新政府軍は郭の北側から進入したものと考えられます。同年5月18日には旧幕府軍の榎本武揚以下が降伏し、箱館戦争は終わりました。
旧幕府軍の降伏という形で箱館戦争が終結した後、四稜郭はかなり荒廃がすすんでいました。しかし、昭和9年1月22日に史跡に指定されて以来、地元の方々をはじめ、市民の手厚い保護を受けて、今日までその原形を保つことができました。

亀田町(昭和46年に市制施行、昭和48年に函館市と合併)では、この史跡保存に万全を期すため、昭和四四年度から47年度にかけて、国・北海道の補助を受けて土塁の修復等の環境整備工事を実施しました。また合併後の函館市としても、平成2年度以降断続的に再整備事業を実施し、この史跡を歴史学習や市民の憩いの場として、利活用がされています。
【遺構】

四稜郭は、蝶が羽を広げたような形で四隅に堡塁を設ける洋式の城郭です。

東西約100m南北約70mの範囲に、幅5.4m、高さ約3mの土塁が巡り、その周囲には幅2.7m、深さ0.9mの空堀が掘られています。

また、土塁の南西側には門口が設けられ、郭内(面積約2300㎡)の4隅には砲座が配置されていますが、建物は造られませんでした。

【主要参考文献】
永田富智 『日本城郭大系第一巻北海道・沖縄』 1980年 新人物往来社
函館市公式ホームページより
