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絵画のなかのサスペンス


見ていたはずなのに、見つかる

目が合っただけなのに、なぜこんなに怖いのか。

絵の中の人物は何もしてこない。猫も、ただ見ているだけかもしれない。けれど視線に気づいた瞬間、こちらが絵を見ていたはずなのに、いつのまにかこちらが見つかってしまう。

その不安は、正面のまなざしよりも、反射の中に現れた目によって強くなる。

刃物は、見るための鏡になる

韓国・ソウル出身、1989年生まれのMinyoung Kimによる《The Knife》は、一見するとキッチンの絵である。食卓にはパンとジャムがあり、奥には誰かの足元が見える。日常的で、少しほほえましい場面だ。

けれど、包丁を見た瞬間、その印象は変わる。左下から伸びる黒い毛の手が包丁を握り、刃の反射の中には黒猫の顔が映っている。黄色い目が、こちらをじっと見ている。

怖いのは、包丁があるからだけではない。その刃が、見るための鏡になっているからだ。食べ物を切る道具の中に、画面外の存在が現れる。日常は壊れていない。けれど、もう安全には見えない。

1966年生まれ、アメリカ・サウスカロライナ州出身のDuane Keiserによる《Self Portrait in a Silver Knife》では、黒い背景に、一本の銀のナイフが立っている。その細い反射面に、作家自身の顔がぼんやりと映る。

これは自画像である。けれど、顔は堂々とこちらを向かない。刃の中で歪み、縦に引き伸ばされ、表情もはっきりしない。自分の顔が、鋭いものの中に閉じ込められている。

その目は、なにを見ているのか

1987年生まれ、バングラデシュ・ダッカ出身のSrijon Chowdhuryによる《Eye (Morning Glory)》では、画面いっぱいに、鋭い眼差しの巨大な目が描かれている。赤く濡れたような瞳の中には、ナイフを持つ手と花が入り込んでいる。

ここでは、もう刃物に目が映っているのではない。目そのものが、刃物を抱え込んでいる。花は美しく、ナイフは冷たい。相反するものが、ひとつの瞳に閉じ込められている。

そして、1994年生まれのアメリカ・バージニア州出身のTrey Abdellaによる《Knotted》では、狂気はかわいさの奥から出てくる。画面いっぱいに広がる金髪をブラッシングしていくと、ブラシの背面に赤くただれたような顔と黄色い目が現れる。

タイトルの《Knotted》は「結び目」を意味する。髪のもつれであり、感情のもつれでもある。かわいさ、装飾、清潔なイメージ。その奥に、ほどけない何かがある。

反射は、画面の外を暴露する

この4つの作品では、狂気は大声を出さない。血が流れるわけでも、誰かが叫ぶわけでもない。ただ、刃物の中に目がある。ナイフの中に顔がある。瞳の中に刃物がある。髪の奥に、別の目がある。

反射物は、ときどき画面の外を暴露する。鏡や刃物の反射は、描かれていないはずの空間、見えないはずの人物、こちら側にあるはずの気配を、ふいに画面の中へ呼び込んでしまう。

サスペンス映画に近い感覚だ。けれど絵画では、カメラが動いて真相を明かしてくれることはない。反射の中の目は、ただそこに留まり続ける。だから見る側は、その不穏さを自分で見つけてしまう。

ベラスケスの《ラス・メニーナス》や、マネの《フォリー=ベルジェールのバー》がそうだったように、反射は「絵の中」だけで完結している世界を壊す。見ている者もまた、見られている。

だから絵の中の目と視線が合った瞬間、私たちは気づいてしまう。

見ていたのは、自分だけではなかったのだ。

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