大條宗道(大條家第十一世)【中】
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幾多の試練を乗り越え、波乱万丈でドラマチックな生涯を駆け抜けながら大條家の未来を切り開いた、大條宗道について記述いたします【中編】
1. 奉行就任と江戸中期の儀礼的役割
貞享3年(1686年)に若年寄へ就任したばかりでしたが、わずか翌年の貞享4年(1687年)、
ついに仙台藩の最高職である奉行(家老)に就任しました。
大條家から奉行職を出すのは、これで5人目の快挙となります。
天正14年(1586年)、伊達家(後の仙台藩)に初めて奉行職が設置されてからの100年間で、奉行に就任したのはわずか43名に過ぎません。
その中で大條家と茂庭家がそれぞれ5名を輩出し、全家臣団の中で最多を誇っています(大條家:5名、茂庭家:5名、片倉家:4名、古内家:4名、津田家:3名)。
仙台藩は常時約8,000名もの家臣を抱えていましたが、100年という年月の中で奉行の座に就けたのは実質的にごく限られた一握りの人物のみであり、極めて狭き門でした。
奉行職は卓越した能力はもちろんのこと、高度な家柄と格式が厳しく問われる最高位の要職であり、藩政の中枢として絶大な権限と重責を担っていたのです。
奉行職への就任直後における大條宗道の動向は、当時の記録に詳しく残されています。
貞享4年(1687年)5月21日
今日評定日。大条監物初て評定所へ出席
貞享4年(1687年)8月5日
孝勝寺殿月忌供養。孝勝寺殿へ代参大条監物。
孝勝院:伊達忠宗(二代目藩主)の正室 振姫
貞享4年(1687年)11月17日
保春院殿月忌供養。保春院殿名代大条監物。
保春院:伊達政宗(初代藩主)の母親 お東の方
貞享4年(1687年)12月28日
陽徳院殿へ代参大条監物。
陽徳院:伊達政宗(初代藩主)の正室 愛姫
この時代の仙台藩奉行職は、戦国時代のような軍事的役割が影をひそめ、儀礼や外交が主たる職務となっていました。
大條宗道が奉行職に就任した貞享年間(1684年〜1688年)は、江戸時代の中でもとりわけ平穏な時期にあたり、諸藩の重臣には各種儀礼や祭祀、幕府への対応や礼儀作法に意を払うことが求められていたのです。
実際、大條宗道の動向を見ても、月忌供養の代参や名代としての役割が多く記録されています。
これらは、藩内外における格調や秩序を重んじる武家社会において、極めて重要な職務でした。
とりわけ伊達家の歴代藩主やその一族にまつわる各種儀式は、藩の威信と伝統を維持する上で欠かせないものであり、奉行職はその中心的な取り仕切りを担っていたのです。
2. 居城・蓑首城の修繕と奉行たちとの調整
そしてちょうどこの時期、大條宗道が仙台藩へ提出した坂元蓑首城(大條家の居城)の絵図が現代に残されています。

佐藤司馬『大條家坂元開邑三百五十年祭小志』1966年
奉窺候覚
亘理郡坂本私居所
惣堀前々より毎年
夏中藻草為取申候
埋り候所者少々泥をも
為拂其限ニ而土手之
少破繕も為仕候間如
跡々之申付度奉存候
以上
大條監物
貞享四年六月廿五日
お伺い申し上げます。
亘理郡坂元の私の住居の周りの堀について、
以前から毎年夏になると藻草を取り除いており、
埋まっているところは少し泥を掻き出し、
その範囲内で土手の小さな破損も修繕してきました。
今後も同様に指示を出したいと考えております。
以上、お伝え申し上げます。
大條監物
貞享四年六月二十五日
仙台藩では、要害(居城)を拝領した家臣(計20家)がその修復を行う際、事前に藩の承認を得ることが義務付けられていました。
この規定は奉行職であっても例外ではなく、大條宗道も同様に藩へ修復の申し出を行っています。
その後の詳細なやりとりは、野本禎司氏の「仙台藩奉行大條家文書―家・知行地・職務―」(2022年)に翻刻されています。
ここではその記述を引用し、現代語訳を交えてご紹介いたします。
なお、掲載している現代語訳は個人による意訳であり、学術的な正確性を保証するものではありません。あくまで参考程度にご覧いただき、正確な内容については原本や専門資料をご確認ください。
⑫(達書、要害屋敷堀藻草取払いにつき)
貞享四年八月九日 1―47―2―3
(現代語訳)
亘理郡坂本の要害屋敷の堀については、以前から毎年夏の間に藻草を取り除き、
泥を掻き出しており、その泥を使って土手の小さな破損を修繕したいとの旨を願い出ていたところ、
その内容がようやく披露されました。
ついては、これまで通りに(藻草取りや泥掻き出しを)命じるようにとの御意(お上からの指示)がありました。
恐れ謹んで申し上げます。
貞享四年八月九日
冨田壱岐氏紹
佐々豊前定隆
柴田内蔵宗意
大條監物殿
2022年
こちらの翻刻を私が現代語訳してます
⑬(返書、要害屋敷堀藻草取払いにつき)
(貞享四年)八月九日 1―47―2―2
(現代語訳)
御奉書を拝見いたしました。
私の居所である亘理郡坂本の要害屋敷の堀について、以前から毎年夏の間に藻草を取り除き、
泥を掻き出し、その泥を使って土手の小さな破損を修繕したいと、絵図を添えて願い出ていたところ、
願いの通りに(作業を)命じる旨の御意(お上からの指示)を賜りました。
このようなご配慮をいただき、恐れ入り、感謝いたします。
恐れ謹んで申し上げます。
大條監物
八月九日
柴田内蔵様
佐々豊前様
冨田壱岐様
2022年
こちらの翻刻を私が現代語訳してます
⑩奉窺候覚(坂本要害修補)
貞享五年五月二九日 1―10―4
(現代語訳)
奉窺候覚(坂本要害修補)
亘理郡坂本の私の居所である要害屋敷の本丸東側にある掛作(土手の一部)の下の土手について、
東側から南側にかけて折れ曲がった部分、
二十七間四尺(約49メートル)の場所は、元来塀がありませんでした。
この場所の土手が少し破損していたため、元通りに修補したい旨を貞享三年(1686年)七月に申し上げたところ、
願いの通りに修補するよう命じられ、修補をいたしました。
しかし、以前よりも土手が少し高くなり、不安定で危険な状態となっております。
そのため、絵図に記した通りに柵を設けたいと考え、絵図を添えてご相談申し上げます。
以上
大條監物 宗道(花押)
貞享五年五月二十九日
柴田内蔵様
佐々豊前様
冨田壱岐様
江戸から返送された覚書でございます。
2022年
こちらの翻刻を私が現代語訳してます

(山元町公式HPより)
3. 絵図が裏付ける大手門の歴史
書状に名の見られるこの3名(冨田壱岐・佐々豊前・柴田内蔵)は、当時、大條宗道と同じく仙台藩の奉行職を務めていた面々です。
互いに同僚という間柄でありながら、形式に則った実に行儀正しく丁寧な書状を交わしている点は大変興味深いところです。
なお、この貞享4年(1687年)の絵図には、現代と同じ位置に「大手門」の記載が確認できます。
これにより、この建築物が少なくとも江戸時代初期から中期にはすでに存在していたことが裏付けられます。

佐藤司馬『大條家坂元開邑三百五十年祭小志』1966年
※大手門の部分を拡大

(山元町公式HPより)

仙台藩では、寛永13年(1636年)に御牒蔵が火災に見舞われ、検地帳をはじめとする藩政関係の重要書類が多数焼失しました。
この出来事を契機として家臣らの家譜を改めて整備する必要が生じ、各家において由緒や記録の再編が進められることとなります。
こうした背景のもと、大條家においても大條宗道の時代を中心に記録の整理・再編が行われ、当時の様子を今日に伝える貴重な史料として残されることとなったのです。
4. 藩主御成りの名誉とさらなる試練へ
貞享5年(1688年)2月16日には、藩主 伊達綱村が大條邸を訪れ、大條宗道に佩刀一口を賜るという格別な栄誉に預かっています。
こうして仙台藩奉行として順風満帆な歩みを始めた大條宗道でしたが、やがてその人生において最大の試練と対峙することとなります。
波瀾万丈に満ちた彼のドラマチックな晩年については、次回の記事で詳しくご紹介いたします。
◼️参考資料
野本禎司『仙台藩大條家文書 -家・知行地・職務-』2022年
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
佐藤司馬『大條家坂元開邑三百五十年祭小志』1966年
平重道『伊達治家記録』1973年
