恋と呪い③
パラレルワールドと山吹
夏の長期休暇になる前、大学三年生の私はそれは有意義に過ごそうと考えていた。海外でも国内でも好きな景勝地に赴き、その土地の郷土料理に舌鼓を打ち、旅を満喫する。映画や本を読んでゆっくりする。やったことのないスポーツ、例えば、スカッシュや乗馬、フットサルなどで汗を流すのもいい。大好きな日本文学の研究をするのもいいだろう。
しかし、現実はそんなに甘くはなかった。現実の私は冷房を効かせた涼しい部屋で、肉と大きく書かれた奇妙なシャツを着た山吹と向き合っている。
「それで、どうします?これから」
山吹は神妙な面持ちで言った。山吹はご飯をあまり食べていないのか、頬がこけ、不健康に見える。もともと細かった手足も骨骨しく痩せており、摂食障害のように思えた。
「とりあえず、ご飯食べに行かない?もうすぐお昼だし」
山吹からの返答はない。その間、冷房の稼働音だけが室内に響いていた。
「なにか頼もうか。ピザとハンバーガー頼んでおくね」
「ありがとうございます」
やっと話したかと思えば、山吹はそれ以降、また押し黙ったまま、自分の携帯でyoutubeをじっと眺めていた。
台湾に行った後、山吹のyoutubeチャンネルにはとてつもない批判のコメントが届いた。しかし、山吹はそれを意に介さず、それからも幽霊が出ると噂される場所に行き、動画を撮っていたようだった。迷惑をかけるかもしれないからと私を誘うことなくだ。
山吹にしてみれば、批判されようが、あの動画で注目を浴びたのだから、動画を更新すれば良いコメントがそのうち増え、批判的なコメントをする人は飽きていなくなるだろうと考えていたようだった。しかし、批判する人たちは後を絶たず、どれだけ動画を公開しても心無いコメントが目立つばかりだった。
私は夢を見たこともあり、山吹に声をかけた。電話に出た山吹の声は明らかに弱っており、消え入りそうで、何があってもおかしくはないと思った。だから、今日、山吹を呼んだのだ。
「どうしたら信じてもらえるんですかね」
批判的な人たちのほとんどが「信じられない」「嘘つき」というようなコメントを残している。私たちからしてみれば、赤い女の子が現れて、消えたという事実だけで十分なのだが、今の時代は素人でもCGで映像の加工ができる。テレビの心霊番組がほぼすべて作り物だという噂がネットで出回っているのも相まって、映像で見る心霊現象など誰も信じてくれないのだ。
「視聴者の一人を同行させて心霊現象に合わすっていうのは?」
「そんなことやって本当に事件があったら責任取らされそうです。やめましょう」
「じゃあ、どうする?」
「あ、この前、コメントでパラレルワールドに行ける方法っていうの見かけたんですけど、やってみます?」
山吹のyoutubeのコメントにはあらゆる噂も書き込まれる。ここのこの場所がおすすめだとか、中には本当に危なそうな場所まで視聴者が「行って調べてきてほしい」と思った場所が何件も書き込まれるのだ。その一つに、きさらぎ駅のような場所に行ける方法があると書き込みがあった。
「本当にそこに行けたら証拠にもなりますし、そのコメントがいうには、そこの生物はみな縦長で奇妙な形をしているらしいです。会って話せたらすごいですよね」
ふふふと笑う山吹は少し怖い。頬の肉がこけるだけでこんなにも印象が変わるのかと驚いてしまう。魔女みたいだ。
「まあ、そうだけど、とりあえずご飯食べようか。あと、あんまりコメントは読まない方がいいと思うよ」
ちょうど、頼んでいたピザとハンバーガーが届いた。冷たく張り詰めた部屋の中に良い匂いが充満する。私はコップにお茶を用意すると、山吹の前に置いた。
「腹が減っては戦はできぬって言うしさ。いただきます」
「いただきます」
山吹は普通にピザに手を伸ばして食べ始めた。どうやら摂食障害ではないらしい。単に心労からくるものだったのだろうか。ハンバーガーを食べると「アボカド入ってる」と笑顔を見せていた。
「それで、パラレルワールドって本当に行けるの?赤い女の子とか猫の王様よりも非現実的な感じがするんだけど」
「まあ、非現実的ですね。でも、可能性はありえなくはないらしいですよ」
「どいうこと?」
「量子力学とか宇宙の話しになるので、先輩にわかりやすく説明すると、宇宙っていうのはまだ解明が進んでいない道の部分が多くて、広大な宇宙のどこかにパラレルワールドがあるということが否定できないんですよ。つまり、宇宙人や幽霊を否定できないのと同じです。否定するのはとても難しいんです。否定するには存在しているということを証明しないといけませんからね。それができない限りは否定はできない。だからあるかもしれないんです。宇宙人ってすごいテクノロジーが発達していて瞬間移動とかできるって聞くじゃないですか。何万光年先の星からやってくるとか。そんな感じで、パラレルワールドでもテクノロジーが発達していて、こっちの世界に干渉してきて、うっかり私たちがあっちの世界に行っちゃう可能性も無きにしも非ずなんですよ」
「ふーん。よくわからないけど、可能性はあるってことね。それで、どうやって行くの?」
「これから聞きに行く予定です。その人は会ってくれるみたいなので。この後ですね。二時くらいに待ち合わせしてます。東京に住んでるようなので、すぐに会えますよ。食べたらすぐに行きましょう」
お茶を飲み干すと山吹は「楽しみですね」と笑った。少しは元気を取り戻したようだ。心なしか顔も健康そうに見えてきた。目に生気が戻ったからだろうか。
「やっぱり怪異でしか得られない栄養ってものがあるんですよね。私の主食は怪異なのかもしれません。平行世界に行こうかい。今の韻の踏み方良くないですか?」
良くはない。
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テーマパークのように大きな東京駅の構内にあるお洒落なカフェに入ると、すでにその情報提供者は来ていた。首元が伸びきったシャツに何年前に買ったのかわからない色の褪せたジーンズを着た明らかに不健康そうに痩せた男だった。その男は近づいてくるなり「こんにちは。待ってました」と目も合わせず言うと、すぐに自分のいる席まで歩いて行った。近く寄ったときにふんわりと煙草なのか何なのかすえた臭いがして、私は眉間に皺が寄ってしまっていた。
「それで、さっそくなんですけど、そのパラレルワールドに行く方法っていうのはどういう方法なんですか?」
「え、えぇ、それなんですけど、僕自身行ったことはないですし、あくまで噂というか、聞いた話というか。へへ」
「なんでもいいですよ。知っていることを教えてください」
男はちらちらと山吹を見ては視線を外し、恥ずかしそうにしている。たまに胸元を見ているように感じるのは気のせいだろうか。気持ちが悪い。しかし、山吹はそんなのは慣れているようで、なんとも思っていないのか、いつも通りだった。そういえば、高校生の頃も誰にでも話しかける人だったと聞いている。それこそ、ろくに勉強もしないような人にも、スポーツを頑張っている人にも、友達がいなさそうな目の前の男のような人にも誰にでも話しかけていた。だから好かれていたのだが、それは今でも変わっていないらしい。
「知っているのは、八高線の八王子から高麗川の駅の間で夜の二時に電車が走っているらしいんですよ。その電車に乗るとパラレルワールドに行くらしいですよ。あくまで噂ですけどね。ちなみに僕も見かけたことはありまして。まあ、結局怖くて足が竦んでしまい、駅に近づけなかったわけですがね…写真ありますよ…見ますか?」
男が携帯を差し出す。画面には男の皮脂がべっとりと着いていて触りたくない。しかも、前のめりになった山吹の胸を覗いているではないか。気色悪い。
「これですか。中に人がいますね」
写真に写る電車の中には人がいて電気も通っていて明るかった。しかし、中にいる人たちは真っ黒で男なのか女なのかもわからない。気味の悪い写真だ。
「この人たちは帰ってこれなかった人たちっていう噂があります。興味本位や偶然、電車に乗っちゃって帰ってこれなかった人たち。つまり死んじゃった人たちですね。お二人も乗るつもりだと思いますけど、気を付けてくださいね。怪異に危険はつきものですからね。実は僕の知り合いも漫画の影響で呪物を集めてたら変死しちゃいましたし。本当に危ないですよ」
男は山吹の手を握り、山吹に顔を近づけた。山吹は無言で顔を引き、手を離すと「ありがとうございます。今日はもう大丈夫です」と言って、千円出して店を出た。
「本当かなあれ。作り話の可能性もあると思うんだけど。それにあの男の人かなり胡散臭そうな感じだったしさ。臭いきつかったよね。お風呂入ってるのかな。洗濯もしてるかわからない服着てたし。髭もすごかった。どうしてあれで人に会おうと思うんだろう。理解できないよ。それにあの人、ずっと山吹の胸元見てたしさ。気付いてたでしょ?」
しかし、そんな私の言葉は山吹の耳には一切届いていないようだった。
「あの写真、気付きました?あれ、電車がかなり古かったんですよ。ところどころが錆びていてぼろぼろになってました。あの電車は今使われている電車じゃないんですよ。写真は信ぴょう性が高いです。あの人は臭かったですけど、あの写真は臭くないですね」
ふっふっふと笑う山吹は楽しそうだ。写真が本当ならあの電車に乗ろうとしている私たちはかなり危険なことをすることになるのだけれど、山吹はそこに疑問はないのだろうか。最悪、戻ってこれなくなるというのに。
「それで、八高線の八王子から高麗川の間を走ってるって言ってたけど、どうなんだろうね。二時になったら八王子に列車が出現するのかな」
「そこなんですよね。二時に駅に入れるわけがないじゃないですか。だから基本的に人は入れないわけなんですよ。でも、入って戻れなかった人がいるって言ってたじゃないですか。私が考えるに、おそらく、二時じゃないんですよね」
「ん?どういうこと?」
「怪異を調べてるとよくあるんですけど、時間に差があるんですよ。異世界系の話しは特に。迷い込んで数時間後に戻ってきたら現実世界では数日後だったとか、数時間後に戻ってきたはずなのに現実世界では数分だったとか。そんなのは普通にあるんです。だからあの列車はこの世界の二時に走っているわけではないと思うんですよね。そもそも、列車だけが異世界に行くというのもおかしな話しです」
山吹は歩きながら饒舌に語り続けた。私はまだ、あの男の胡散臭さと体臭の臭さを思い出しては顔をしかめ、今日、あの男に会ったことを後悔するばかりだった。
「夜の二時に駅を走っていたら確実に問題ですからね。住民の誰かから通報されて調査が入るはずです。でも、この目撃情報の無さからすると、おそらく通報も調査もされていないんですよね。そもそも、見た人もほとんどいないのではないでしょうか。ということは、あの列車と駅と路線は全部異世界なんですよ。もしかしたら、世界全体が異世界なのかもしれません。あの男の人は異世界に迷い込んでて、それで二時に電車を撮って帰ってきたのではないでしょうか」
「ふーん」
「だから、私たちがやることは、電車を見つけることじゃなくて、異世界に入る方法を見つけるってことですよ。というわけで、またあの男の人に会いましょう。まだ近くにいると思いますので」
「えぇ…帰っていいかな」
「駄目です。私に何かあったらどうするんですか」
あの男の顔を思い浮かべてみる。失礼だけれど、確かに女性に危害を加えそうな顔をしているとは思う。
「しょうがないな。ついていくよ」
「よっ。優男!やさお!」
私たちは来た道を戻り、あの男と同じ場所で待ち合わせた。先ほどあったばかりだというのに、男は先程よりも砕けた様子で「どうしたの?なんでも話すぜ」と山吹を見つめて言った。この男は怪異なのではないだろうか。山吹もそう思ったのか「すみません何度も」という声は少し震えているように感じた。
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生温い湿った空気が肌にまとわりつくように感じる夏の夜。私たちは八王子駅まで来ていた。終電は十二時半だ。あと数分で終電は去り、私たちはこの駅を去らなくてはいけない。
「案外、終電間際でも人いるんですね」
山吹はあたりを見回しながらそう言った。学生やサラリーマンが携帯を忙しそうに触っているのがちらほらと見える。中には私たちと同じ目的なのか、やたらとそわそわしている人もいる。
「もう少しですね。なんだか緊張してきました」
約十時間前、私たちは男に異世界への生き方を聞いた。男は自分でもよくわからないと言っていたけれど、オカルト仲間の情報だと終電の車両が去った後、怪談を上り、駅員に「終電に乗り遅れた。トイレだけ貸してくれ」と伝え、トイレの個室に入り、数分間じっとしていると、ドアをノックされる。大丈夫ですか?と聞かれるので、「もう少しいさせてくれ」と伝え、さらに数分待つ。すると、今度は駅長と名乗る人物が来て帰れと言われる。それを無視して、さらに数分待つ。その後にトイレを出ると、異世界の駅になっているということだった。無視をしないとその時点で連れていかれるとかなんとか。不快だったのであまり聞いていなかったけれど、こんな話だったはずだ。
「本当にそんなことがあるんですかね。漫画やアニメの世界みたいですよね」
「そんなこと言ったら、猫の王だって赤い女の子だって全部漫画の中の世界だよ。しかも、もう赤い女の子には会ってるんだ。信じられないことじゃない」
少し前の私だったら、これを聞いて、ありえない。馬鹿みたいだと笑い飛ばしていただろう。しかし、赤い女の子をこの目で見てから、馬鹿になどできるわけがない。幽霊や妖怪の類は実際にいるのだ。だから、今回の事も実際に起きるのだろう。そう思うと、少し怖い。
終電の電車がやってきて、学生やサラリーマンを乗せて去って行った。残ったのは私たち二人とそわそわしていた男が数人。
「よし、じゃあ行くか」
「はい」
私たちは聞いたとおりに階段を上がり、駅員に「終電に乗り遅れたので、トイレだけ貸してください」と伝えた。その時に他のそわそわしていた男たちもすぐに言ったため、かなり怪しんでいたけれど、それはしょうがない。明らかに不審者のような風貌の男たちが悪いのだ。私たちは不審者ではない。
トイレに入る前に山吹に健闘を祈り、男子トイレに入った。私が一番奥。そわそわしていた男たちもそれぞれトイレの個室に入ったようだった。
「すみません。大丈夫ですか?そろそろ駅閉まっちゃいますけど」
先ほどの駅員の声でドアをノックされた。困っているのか、疲れているのか声に覇気はない。
「もう少しだけいさせてください」
「わかりました。早く出てきてくださいね」
駅員は三人にそう言うと、トイレから出て行ったようだった。トイレの中には静寂が訪れた。ここから先が本番だ。今、トイレの世界は異世界へと変わりつつあるのだろうか。そして、山吹は大丈夫なのだろうか。そんなことが頭の中を駆け巡っている。
その時、目の前のドアが勢いよく叩かれた。ノックという行為ではなく、ドアを殴り蹴るような勢いだ。
「おい!ここで何してんだよ!帰れよ!早く!帰れよ!」
声は野太く、時折、雑音が混じっている。拡声器を通して発せられているかのような声で、先ほどの駅員ではないことも、人ではないこともわかる。今、この声に反応してしまったら私は連れていかれるのだろう。
しばらくすると、その声は静まった。恐怖を覚えながら、数分待ち、個室のドアを開けると、トイレには誰もいなかった。トイレを出て、辺りを見回してみても、個室に一緒に入った男たちも駅員もいない。山吹の姿さえ、見当たらなかった。
「山吹どこ?いる?」
女性用トイレに声をかけても返事はない。私の声が無駄に駅構内に響くだけでその他に音は一切なかった。
山吹の事だから一人でホームまで行ってしまったのかもしれない。ここに来るまでにかなり饒舌に話していたし、楽しみにしていた。一人でホームまで行き、この異様な雰囲気を楽しんでいても不思議ではない。
私は急いでホームまで階段を下りていく。下に行くにつれて、徐々に白い靄のようなものが足元に溜まっているのに気が付いた。
「山吹さーん?」
ホームにはうっすらと靄がかかっている。明らかに異様な雰囲気だ。山吹ならさぞかし喜ぶのだろうが、あいにく、私には今の状況は恐怖でしかない。息が浅く、体が震える。こんなところを山吹に見られたくはないが、今回ばかりは見ててもいいから傍にいてほしい。
「山吹ー。怖いよー。出てきてくれよー」
半べそをかきながらホームをさまよっていると、遠くの方から光が見えた。暗くてよく見えないけれど、間違いなく例の列車だろう。あの列車に乗ると、異世界に行き、私は黒い人たちの仲間入りをするのだ。よく見ると、光に照らされて長細い見たことのない生物が周りにうようよといるような気がする。
「ママー!パパー!助けてよー!」
半狂乱になりながら、電車がホームに入ってくる前に自動販売機の後ろに身を隠した。よくよく見れば、自動販売機はかなり古く、錆びついており、見たこともないようなジュースが売られている。
電車はホームに入ってくると、速度を落とし、停車した。写真で見た通り、かなり古い。開いたドアからは誰も下りず、誰も乗らず、しばらくドアは開いたままだった。
「ママ…パパ…怖いよぅ」
電車の中を見てみると、黒い靄がかかった人間のような形をした何かが立っているのが見える。顔も体型も服装もわからない。ただ黒い何かがいるということしかわからない。
「なんだよ…あれ…」
しばらく開いたままだったドアはアナウンスもなく閉まり、電車はそのまま走って行った。私は思わず安堵し、胸を撫でおろしたのだが、大変なことに気が付いた。
帰り方がわからない。山吹とあの男が話していた内容をほとんど聞いていなかったから、山吹がいないとどうしようもないのだ。
「山吹ー!どこー!」
私は必至で走り回った。目からは涙が溢れ、鼻からは鼻水が出続けている。汗もびっしょりと全身を濡らしている。途中、黒い何かが視界の端に写り、私はさらに全身の穴という穴から体液を垂れ流しながら、走り回った。
クスクスクス。クスクスクスクス。
後ろの方から若い女の子の笑い声が聞こえる。私はさらにスピードを上げて走った。後ろは絶対に振り向かずに。
「先輩。先輩。私ですよ。山吹です」
そう呼ばれて後ろを向くと、カメラを持ってこちらを撮影している山吹が見えた。少し離れたところから見る山吹は見るからに楽しそうな表情をしていた。
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気が付くと、私たちは朝の駅にいた。時刻は五時になる少し前。会社員や部活動の高校生がちらほらと見える時間帯だ。
「先輩。そんなに怒んないでくださいよ。私だって怖かったんですから」
「うるさい。あれは意地悪だよ。さすがに」
私が駅に一人でいた頃、実は山吹は遅れて誰もいない駅にやってきたようだった。そこで、私を見かけ声をかけようとしたのだが、私が「ママー!パパー!」と叫び始めたので、面白くなって声をかけずにカメラを回し始めたということだった。
「そんなことより、先輩。バッチリ撮れましたよ。電車も駅も全部」
「本当に?すごいじゃん。これをyoutubeに投稿したら信用してもらえるんじゃないかな」
「でも、実際、トイレをバンバン叩かれる方が怖くなかったですか?私、もう怖すぎて震えちゃいましたもん。『何してるんだ!開けろ!帰れ!』って聞いたこともないような声で言われたんですよ」
「それはこっちも言われたよ。ドアが壊れるんじゃないかってくらいの勢いだったから怖かったよ。それにあれ、途中で話しかけたり開けたりすると連れていかれるんでしょ?もう本当に怖かった」
話していて、私はあることを思い出した。男二人はどうなったのだろう。一緒にトイレに入って以降、見ていない。
「そういえばさ、男の人たち見なかった?たぶんあの駅にいたはずなんだけど」
「男の人ですか?見なかったですよ。私と先輩しかいなかったです」
「そっか」
深く考えるのはやめよう。あの二人だって危険を承知で向かったんだ。覚悟はできていただろう。
「あ、電車来ましたよ。帰りましょう。あ、怖いですか?電車に乗るの?大丈夫ですよ。ここは現実です。先輩のママとパパもいますよ」
「わかってるよ。うるさい」
そう言うものの、やはり電車に乗るのは躊躇いがある。私は思わず、山吹の手を握って電車に乗り込んだ。電車の中は冷房がきいていて、肌寒いくらいだ。
「先輩。私はママじゃないですよ。何やってるんですか」
「いやごめん。なんとなく。ごめん」
そんな簡単に切り替えられるわけがないじゃないか。あんな怖い経験をしたのは初めてだ。笑っている山吹がおかしいのだ。
私たちを乗せて、電車はゆっくりと走り出す。乗客と車掌は私たちに起きたことなんて知る由もなく、寝たりスマホを見たりしている。そんな光景を見て、私は安堵して目を閉じた。
「先輩。着きましたよ」
目を覚ますと、私の家の最寄り駅についていた。慌てて、降車して改札を出る。山吹もなぜかついてきているが、どうせ私の家で動画の編集でもするのだろう。
家に着くと、案の定、山吹は動画の編集を始めた。私もそれを見ているのだが、山吹はトイレに入った時から動画を回していたらしく、ドアを叩く機会のような音の声もはっきりと入っていた。
「思い出すだけで怖いな。声がまずおかしいもんね。人の声じゃない」
そして、駅に到着し、隠れる私と、電車が映し出された。電車は私が見た通り、古く、中にいる黒い人たちの容姿は全くわからない。
『ママー!パパー!助けてよー!』
「ここカットで」
「嫌です」
「頼むからやめてくれ。山吹のyoutubeチャンネルは人気なんだよね?大学の人たちが見てたらどうするの?休み明けにマザコンとか言われたらどうするの?不登校になっちゃったらどうするの?」
「大丈夫ですよ。マザコンは悪いことじゃありません。両親と仲良くして何が悪いんですか。むしろ好印象ですよ。それに、ママとパパも喜んでくれるんじゃないですか?あらあら、拓海ったら。いつまでも子供なのねって言ってくれますよ」
「リスクが圧倒的に高い…」
結局、山吹は言うことを聞いてくれず、その動画はしっかりとyoutubeに投稿されることになった。
「よし。投稿完了!」
山吹は満足そうな顔であくびをした。忘れていたけれど、私も山吹も寝ていないのだ。昨日からおかしなことばかり起きていたから忘れていた。気が付いたとたん、私にも強烈な眠気が襲ってきた。
「山吹。そろそろ寝るから。帰ろうか」
「勝手に寝ててください。すごいですよ。すでに反応があります。あの男の人からもありますよ」
ーお二方、先日はありがとうございました。本当に行けたんですね。無事で帰ってきたようで何よりです。動画、とても面白いです。正直言うと、男の人は仏頂面でとても感じが悪かったので『ママー!パパー!助けてー!』と叫んでいるところはとても笑ってます。何十回も見ようと思います。これからも何かありましたら協力しますのでよろしくお願いします。
気に入らないところはあるが、見た目や言動に反して、案外、律儀な性格なのかもしれない。
「あ、先輩。ここ見れます?男の人たちってこの人たちですかね」
山吹に言われて動画を見ると、男二人があの列車の中で人に捕まっているところが映っていた。顔を覚えているから絶対にあの二人だ。
「違うでしょ。無事に帰ったと思うよ」
こんなことをしている以上、こうなることもある。それは山吹だってわかっているはずで、覚悟はできているはずだ。
「でも、今回は本当にちょっとやばかったですよね。今までで一番危険だったかもしれないです」
眠くなったのか、山吹は徐々に瞼を下ろし、完全に目を閉じた。その横顔は幼く見えるけれど、睫毛が長く、血色のいい綺麗な肌と唇、筋の通った鼻が目立っている。
もし、山吹がいなくなってしまったら、どう感じるのだろう。少なくとも探し回るだろう。あの駅でそうしたように。
「何見てるんですか。ママとパパに言いつけますよ」
山吹はにやりと笑う。その顔も不思議と可愛らしく感じて、私は思わず目を瞑った。
