「40年ぶりの再会」能登半島地震後を生きる・№55(2025/07/11)
わたしの学生時代(1979~1983)
学生時代――47年前~42年前――わたしは京都市左京区岩倉のあおい荘というアパートに住んでいた。
このアパートは,玄関が一つで公衆電話も一つ。風呂も共同。トイレは学校みたいな感じで,広い台所には洗濯機やコンロが数個あったはず。
玄関に靴を脱ぎ,自分のスリッパを履いて廊下を歩いて部屋へ行く――という感じである。
もちろん個室(4畳半と1畳の押し入れ)はあるけれども,廊下を隔てているだけなので,お互いの部屋を自由に出入りしていた。
お風呂掃除は,住民たち――ほとんどが学生たち――が輪番制でやっていた。
だから,けっこうみんな仲よしだったのである。
ここには,京都市内のいろいろな大学・専門学校のメンバーが住んでいた。京都は学生の街でもある。
一緒に住んでいたのは,京都大学,立命館大学,同志社大学,京都産業大学,京都コンピューター学院などだったと思う。
しかも,このアパート自体が新しかったために,新入生の入居者が多かった。先輩も数名はいた。
同級生がやってきた
その同級生の1人――愛知県在住・同じ歳――から,先日メールがあり,「珠洲で会いたい」という。願ってもないことだったので,時刻を合わせて,自宅で会うことにした。

彼はバイク旅が好きらしく,バイクで1人でやってきた。
65歳とは思えない若さと行動力だ。

自宅で少し話をした後,能登町にある「ほらや」でラーメンを食べ,その後,少しだけ宝立町内の地震被害のようすを車窓から見てもらった。
たくさんお見舞もいただき,とても恐縮している。

地震による+とは
こんなに遠くまで,元知り合いを尋ねてきてくれて,本当に感謝しかない。
能登半島地震がもたらしたもので,+があったとすれば,それは旧友が尋ねてきてくれたこともその一つである。
能登半島地震発災当時,わたしのことを心配して連絡をくれた旧友や親戚が多くいたけれども,直接連絡してこなくても,頭のどこかで「あいつ大丈夫か」「どうしているのだろう,家はあるのか」と心配してくれている人がもっといたのだなと思った。
わたしの友だち,みんな,ありがとう!
わたしは元気です!
って,このnoteに気づかないと,わたしのこのメッセージも伝わらないけれどもね。
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