見出し画像

終活という、現実的な話。

最近、終活という言葉をよく耳にするようになりましたね。
でも何となく自分には程遠いもの、そう私は思っていました。

まだ元気な人が考えるには早すぎるし、
弱ってから考えるには重すぎる、そんな言葉。

でも最近、終活が
とても現実的な重さを持って目の前に現れたのです。

母方の祖父が介護施設に入ることになったからです。

祖父には大きな財産があるわけではなく
むしろ借金があり
年金の額は月に約12万円。
要介護3という状態で
家族だけで支えるには限界がありました。

こうした現実を目にすると
「終活」という言葉は
キレイな準備でも、前向きな自己啓発でもなく
とても生々しい現実的な問題として目の前に立ちふさがります。

終活とは
自分がどう死ぬかを考えるのではなく
自分が元気に生きられなくなったとき、亡くなったときに
誰がどれだけの重さを引き受けるのか
想像することなのだと、私は感じました。

準備せずに老いていくことは
そのまま家族の負担になります。

それは誰かが悪い、という話ではなく
「考えられなかった」
「考えないまま時間が過ぎた」

その積み重ねの結果なのだと思います。

終活は
自分の人生を美しく終えるためだけのものではなく
残される人の人生に
必要以上に干渉しないための準備なのかもしれません。

誰かに迷惑をかけないため、という言い方は
少し冷たく聞こえるかもしれないけれど
私はそれを
「最後まで責任を引き受ける姿勢」
だと思っています。

老いや死は
スピリチュアルな話題である前に
私たちが必ず直面する現実的な出来事です。

だからこそ、
元気なうちに、考える価値がある。
向き合えるうちに、話しておく意味がある。

終活は
死の準備だけではなく
生きてきた時間を
きちんと次の人に手渡すための行為なのだと
私は思っています。

いいなと思ったら応援しよう!

- 拝み屋 ねこの手 - よろしければサポートお願いします✨ サポートいただいた分は今後の活動費にさせていただきます(* ᴗ ᴗ)⁾⁾