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前世の因果に逃げるな。見えない世界の嘘から、自分の足裏を取り戻す話

台所で水を飲んでいた。

夜中の三時。電気をつけずに、コップ一杯。ちゃちゃは冷蔵庫の横で丸まって寝ている。
私の手元のスマホには、見知らぬ女性からのメッセージが入っていた。

「前世のカルマだと言われて、五十万を払いました。
鑑定の最中は涙が止まらなくて、これで楽になれると思ったんです。
でも、家に帰って布団に入ったら、胸の奥がざわついて、息が浅くて、眠れません。
喉がカチカチに固まって、唾も飲み込めない。
足先が氷みたいに冷たいんです。
私、まだ救われていないんでしょうか」

これを読んで、私は水をもう一杯飲んだ。

あなたの身体は、嘘をついていない。
鑑定師の言葉に頷いた頭ではなく、布団の中で固まっている喉と、冷え切った足先のほうが、本当のことを言っている。

胸の手前で息が止まる。吸い込んでも、肺の半分までしか入ってこない。
肩甲骨の間に、平たい石が一枚、はめ込まれたような硬さがある。
みぞおちは、こぶしほどの大きさの何かが詰まったまま、温かい飯も水も通したくないと閉じている。
目の奥は重いのに、まぶたは閉じない。
足先だけ、自分のものじゃないみたいに冷たい。

「カルマです」「前世の因果です」と言われて納得したつもりでも、身体だけはその嘘に気づいて、全力で拒絶している。
胸のざわつきも、喉の硬直も、肩甲骨の石も、みぞおちのこぶしも、足先の冷えも、全部「やめてくれ」のサインだ。

頭は騙せる。身体は騙せない。

世の中には、人の不安に値段をつけて売り買いする商売がある。
前世だ、カルマだ、ご先祖の因縁だ、宇宙の計画だ。
言い方は色々あるが、構造は同じだ。見えないものを持ち出して、今のあなたの困りごとに説明をつける。

説明がつけば、人は一瞬だけ楽になる。
だからそこに金を払ってしまう。

しかし、少し冷静に計算してみてほしい。

縄文時代の地球上の人口は、せいぜい数百万人だったと言われている。
中世の世界人口でも、四億人や五億人だ。
それが今は、八十億人を超えている。

魂が輪廻転生で回っているのなら、その足りない七十五億人分の魂は、どこから湧いて出てきたのか。
誰かが新規に作ったのか。
それとも、一人の魂をカルピスのように水で薄めて、人数分に増やしたのか。

計算が、合わない。

それから、もう一つ聞きたい。
本当に神様がいて、人類に伝えたい真理や攻略法があるのなら、なぜわざわざ霊媒師や鑑定師を通すのか。
全人類のスマホに、一斉送信すれば済む話だ。
LINEでも、メールでも、緊急速報でもいい。
それくらいの手間を惜しむ神様に、自分の人生の舵を預けるのか。

しないだろう。
できないからだ。

最初から、いない。
あるいは、いたとしても、人類のスマホに通知を送る暇はない。

もう一つ言わせてくれ。

同じ人間が、別の鑑定師のところへ行くと、まったく違うことを言われる。
ある鑑定師は「あなたは戦国時代の武将だった」と言い、別の鑑定師は「平安時代の貴族の娘だった」と言い、また別の鑑定師は「エジプトの神官だった」と言う。
本当に過去が見えているなら、答えは一つのはずだ。
過去は、もう起きてしまったことだ。
書き換わるはずがない。

それでも答えが鑑定師ごとに違うのは、答えそのものが存在しないからだ。
彼らは、あなたの目の前で、今、その物語を作っているだけだ。
あなたの服装、表情、声のトーン、相談の切り口を見て、いちばん響きそうな物語をその場で組み立てている。

それは霊感ではない。観察力だ。
そして、観察された側は、自分のことを言い当てられたように感じて、涙を流す。

証明されない攻略法に、五十万を払う。
鑑定師ごとに違う物語に、自分の身体を明け渡す。
計算の合わない人口に、自分の人生を結びつける。

それは、信仰ではない。
ただの、現実からの逃避だ。

ここで読者を突き放したいわけではない。
なぜ人がそれにすがってしまうのか、私にはわかる。

この世は、レリゴーだ。
ありのまま、残酷で、理不尽だ。

生まれつき病気の子がいる。
親が選べない子がいる。
真面目に働いているのに、なぜか報われない人がいる。
誠実に生きてきたのに、不運だけが続く人がいる。

理由なんか、ない。
ただ、そうなっている。

これを正面から受け止めるのは、しんどい。
「自分はなぜ、こんな目に遭うのか」という問いに、納得のいく答えなんか、本当はどこにもない。
答えがないままでは、夜、眠れない。

だから人は、前世の罰というファンタジーに逃げる。
私が悪かったから、今これを背負っていると思えば、世界に説明がつく。
理不尽が、因果になる。
偶然が、運命になる。

鑑定師の前で涙が止まらなかったのは、悲しみではない。
あれは、安堵の涙だ。
やっと、自分の人生に説明がついたと思った瞬間の、肩の力が抜ける涙だ。

説明がつくと、人は泣く。
ずっと抱えていた「なぜ?」が、一つの物語に収まったからだ。
鑑定師は、その説明がついた瞬間の涙を商品にしている。

しかし、その物語は、外から借りてきたものだ。
あなたの身体の中から、湧き上がってきたものではない。
だから家に帰って布団に入ると、身体は容赦なくサインを出す。
胸がざわつき、喉が固まり、足先が冷える。
身体は、そっちじゃないと教えている。

借り物の物語を自分の人生の説明書にすることはできない。
できないから、あなたの身体は今夜、固まっている。

ここまで読んで、もう気づいているはずだ。
あなたの今夜の苦しみは、見えない世界の話ではない。

胃が重い。
喉が固まっている。
胸が浅い。
足先が冷たい。

これは、物理現象だ。
霊でもカルマでも前世でもない。
氣道が詰まっていて、毛細血管が縮んでいて、血が頭にのぼったまま下りてこない。
それだけだ。

精神論で「気の持ちようだ」と言われても、治らない。
スピリチュアルで「魂を浄化しましょう」と言われても、治らない。
鑑定師に追加で十万払っても、治らない。

ここで、宣告する。

あんた、見えん昔の話に、今の自分の身体を明け渡すな。
あんたが今、抱えとるんは前世のカルマやのうて、ただの氣の詰まりや。
それを五十万で買わされとっただけや。

書いた瞬間、自分でも声が低くなった。
だがこれは怒っているのではない。
あなたをこっち側に引き戻したいだけだ。

私自身、泥の中にいた頃がある。 47歳で事業が崩壊した。とんでもない額の負債を抱えたが、最終的に事業を売却して、なんとか完済した。
借金は消えた。だが、47歳から49歳までの二年間、私は酒浸りで部屋から出られなかった。

ある朝、安いウイスキーの瓶を握ったまま、布団から起き上がれなかった日のことを覚えている。カーテンの隙間から日が差している。喉が渇いている。台所まで水を取りに行きたい。でも、起き上がる理由がなかった。

借金は返した。仕事は終わった。誰も待っていない。立ち上がる用事が一つもなかった。

その朝、ふと天井を見ながら思った。
「あ、俺、今、過去の自分の物語に殺されかけとるな」と。
借金を返した男、事業を畳んだ男、何者でもなくなった男。
そういう物語の中に閉じ込もって、目の前にある水道の蛇口まで歩く力を自分で殺していた。

人間は、見えないものを考えすぎる。過去のこと、未来のこと、人にどう思われとるか、自分は何者か。
そういうもんを抱え込みすぎて、目の前の蛇口をひねる手のことを忘れる。

五十歳で大腸がんが見つかった病室の夜、消灯のあと天井を見ながら「もう全部、終わりや」と何度も思った。

その夜、私を救ったのは、霊力でも神の啓示でも、ありがたいお告げでもない。看護師さんが置いていった、紙コップに入った水道水だった。

口に含んで、ゆっくり飲み込んだ。
喉を、ぬるい水が通っていく感覚。
それだけだった。

「あ、まだ俺、水を飲めとる」

それだけのことが、私を翌朝まで生き延びさせた。

飯と、水と、足裏で感じる床の冷たさ。
生きるってのは、結局そういうことだ。
誰も、上から救い上げてはくれない。
高い石も、特別な儀式も、要らない。

私を救ったのは、紙コップの水と、翌朝に運ばれてきた病院食の薄い味噌汁だった。

過去生を癒しても、明日の朝の胃の重さは消えない。
カルマを浄化しても、明日の生活費は降ってこない。
あなたが本当に取り戻さなきゃいけないのは、見えない物語じゃない。
床を踏んでいる、自分の足の裏だ。

今夜やってほしいことを最後に書く。
道具は要らない。金も要らない。

画面を閉じる。
台所まで歩いていく。
コップに水を一杯入れて、ゆっくり飲む。
急いで飲み込まない。喉を、水が通っていく感覚を確かめる。

そのまま布団に戻る。
うちのちゃちゃが、冷蔵庫の横で丸まって寝ているように、あなたもただ布団に入って、身体の力を抜く。
口を閉じる。鼻でゆっくり息を吸う。少しだけ長く吐く。

吸うとき、頭のてっぺんから空気が入ってくると思って吸う。
吐くとき、その空気を胸から、みぞおちから、腰から、股関節を通して、足の裏まで押し下げると思って吐く。

これを繰り返す。
最初は、足裏まで届かない。胸の手前で止まる。
それでいい。何回かやっているうちに、だんだん下まで降りてくる。
腰まで降りたら、もうしめたものだ。
そのうち、足の指先がジワッと温かくなる瞬間が来る。

その瞬間、あなたは「自分の身体に戻った」ということだ。
前世から、五十万の鑑定室から、見えない物語から、戻ってきたということだ。

魂が傷ついているかどうかより、今は喉が閉じている。
それが事実だ。
事実から、始めればいい。

あんた、もうええやろ。
過去のことばっかり数えるな。
足、ついとるか。床、冷たいか。それだけや。

皿洗いは明日でいい。
足裏だけを感じて、今日はもう寝てください。

一人で息が落ちないなら、DMで「3音」と送ればいい。見ます。
ただし、送る前に、まず水を一杯飲んで、鼻で十回呼吸してみてくれ。
たいていの夜は、それで足りる。

ほな、また。

陰陽師 聖賢

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