🏛️世界史講義:唐の動揺と律令体制の変容・新羅と渤海
📜タラス河畔の戦いと安史の乱
約300年続いた唐の歴史において、8世紀半ば(750年前後)は外征の躓きや大規模な内乱の発生により、国家の統治体制や社会構造が大きく変化する重大な節目となりました。
⚔️タラス河畔の戦い(751年):唐の軍勢がイスラーム勢力のアッバース朝と中央アジアのタラス河畔で激突しました。この戦いで勝利したムスリム軍はアム川以北を支配し、唐の中央アジアへの影響力は後退しました。また、この戦いの際に製紙法がイスラーム世界へと伝来し、のちにヨーロッパへと伝播することとなりました。
💥安史の乱の勃発(755年):玄宗の晩年には、寵愛を受けた楊貴妃とその一族が実権を握り、朝廷の政治が著しく停滞・腐敗していました。この政情の乱れに乗じ、ソグド系出身の節度使であった安禄山は強大な軍事力を背景に部下の史思明とともに反乱を起こしました(安史の乱)。
🛡️安史の乱の展開と鎮圧:反乱軍は瞬く間に勢力を拡大し、副都である洛陽や首都長安を攻略・占領しました。玄宗は首都を逃れて四川地方へと避難し、その道中で楊貴妃を処刑することを余儀なくされました。唐は遊牧民族のウイグル(回紇)に対して援軍を要請し、その軍事力を借りて約9年間にわたる大乱をようやく鎮圧しました。しかし乱の過程で、従来は辺境防衛を担っていた節度使が、内地にも配置されるようになりました。
⚖️社会経済制度の変容(律令制の形骸化と両税法)
🏛️律令体制の形骸化:唐は三省六部を中心とする中央官制や、刑事罰を規定した律・行政規定を定めた令などの法体系を維持していました。しかし、社会情勢の激変に伴い節度使をはじめとする臨時的・現実的な職制が多数設けられ、初期の厳密な律令規定に基づく統治機構は次第に形骸化していきました。
🛡️府兵制から募兵制へ:唐の初期を支えた軍事制度は、均田制によって土地を支給された農民に軍役の義務を課す府兵制でした。しかし、農地不足や大土地所有の進展で農民が困窮すると、府兵制の維持は困難となりました。そのため8世紀前半、国家が給料を支払って志願兵を集める募兵制へと移行しました。指揮官である節度使は行政権や財政権も掌握し、独立した軍閥勢力(藩鎮)へと成長していきました。
🌾荘園の拡大と両税法:貴族による土地の兼併と私有地(荘園)の拡大が進んだことで均田制は完全に破綻し、租調庸の税制度の徴収が不可能となりました。そこで780年、宰相楊炎の建議により両税法が施行されました。両税法は各戸の所有する土地や資産の多寡に応じた課税へと転換した制度で、夏と秋の年2回徴税され、銭を中心とした納税へ移行しました。
💥塩の専売と唐の滅亡
🧂塩の専売と密売人の台頭:安史の乱の長期化や各地の藩鎮による税収の横領により、唐は深刻な財政難に直面しました。この窮地を脱するため、唐朝は生活必需品である塩の専売を開始しました。しかし、政府が極めて高い価格を設定して販売したため、リスクを犯して安価な塩を流通させる塩の密売人が各地で暗躍する結果を招きました。
⚔️黄巣の乱と唐の滅亡:9世紀末、塩の専売強化に反発した山東出身の塩の密売人である黄巣や王仙芝らが率いる黄巣の乱が発生しました。この反乱は大農民反乱へと発展して首都長安を占領し、唐の全国的な支配力は壊滅しました。反乱自体は朱全忠や李克用らの軍勢によって鎮圧されましたが、907年に藩鎮出身の朱全忠が唐を完全に滅亡させました。
🏯朝鮮半島の動向と三国時代・新羅の統一
🏹衛氏朝鮮と朝鮮四郡:前2世紀初頭に朝鮮半島北部で衛氏朝鮮が成立しましたが、前108年に前漢の武帝によって滅ぼされ、楽浪郡などの朝鮮四郡が設置されて直接支配を受けました。
⚔️三国時代と高句麗の全盛:4世紀に高句麗が楽浪郡を滅ぼし、南部で成立した百済・新羅とともに三国時代を形成しました。高句麗は5世紀の広開土王の時代に全盛期を迎えました。
👑新羅による統一と文化:新羅は唐と結んで百済と高句麗を滅ぼした後、唐の勢力を排除して676年に統一新羅を樹立しました。厳格な身分制度である骨品制を整備し、首都慶州を中心に仏国寺などの仏教文化を華開かせました。
🌊渤海の成立と東アジアの国際秩序
🐎渤海の建国:7世紀末、大祚栄が高句麗の遺民と靺鞨人を率いて渤海を建国しました。唐へ朝貢して冊封を受け、高度な制度や文化を導入して「海東の盛国」と称され、日本とも盛んに交流しました。
💡以下、無用のことながら
🖋️詩人・白居易と『長恨歌』:白居易が詠んだ『長恨歌』は、玄宗皇帝と楊貴妃の出会いから悲劇的な別れ、そして永遠の愛を歌い上げた傑作長編詩として人々に広く親しまれました。そのわかりやすく情調豊かな詩風は平安時代の日本にも深く浸透し、紫式部の『源氏物語』をはじめとする日本の王朝文学や美意識に計り知れない影響を与えました。
📜菅原道真と遣唐使の廃止:894年、菅原道真の建議によって遣唐使の派遣が停止されました。その背景には、黄巣の乱などによる唐の著しい混乱に加え、危険な航海をおしてまで遣唐使を派遣する必要性が薄れていたことがあります。派遣停止からわずか10数年後の907年に唐が滅亡したことを踏まえると、道真らの外交的・情勢的な洞察がいかに的確であったかがよく分かります。
