【掌編小説】あの夏の電話
──むかしむかしの、遠い記憶。
あの夏も、アスファルトから湯気が立ち上るほど暑かった。
夏休みも中盤。課題をやらなくちゃいけないのに、身体は鉛のように重たく、ちっともはかどらない。
「あ゛~づ~い゛~」と、扇風機の首を固定し、風の中心へ向けて想いをぶつける。声がぶれて聞こえるのが面白くて、無駄に「あー」とか「うー」とか言っていた気がする。
西向きのベランダから見える青空には、夏の象徴のような入道雲が浮かんでいる。その下の緑が、光を反射して目に痛いほど鮮やかだった。
このままだと夏に溶けてしまいそうなくらい、熱気に満ちた午後。
家の電話が鳴る。
私しか電話を取る人間はいない。両親は共働きで留守だ。
「もしもし」
「あ、小林さん? 稲垣です」
「稲垣……くん?」
その電話の主は、クラスメイトの稲垣くんだった。
稲垣くんとの関係性は「ちょっとは喋るクラスメイト」ぐらいで、電話なんて今まで一度もしたことはないし、話しかけられたら話すかな、レベルのものだった。
どうしても稲垣くんがわざわざ私の家にまで電話をしてくる理由が、わからなかった。
「毎日暑いね、夏休みどう過ごしてる?」
「今は課題にとりかかろうとしていたとこだけど、全然手につかないよー」
これは、世間話だ。
世間話するためにかけてきたのだろうか。
きっと違うだろう。
首に汗がひとすじ伝っていく。
「どうしたの、急に」
本題を切り込む。
電話の向こう側で、稲垣くんの息をのむ音が聞こえた気がした。
「……あの、さ」
「うん」
「中田、とさ」
「うん」
「付き合ってる、の?」
電話の向こうから聞こえる声は、まるで線香花火の火が消え入りそうな、か細い声だった。
中田くんとは、これまたクラスメイトで、稲垣くんとの距離感よりは私に近い存在の男の子。家の方向が途中まで一緒なので、中間期末試験の帰り道に一緒に帰ったりする仲ではある。
その中田くんと、付き合う──
まるで今すぐ大雨が降ってきそうな、雷が落ちそうな、そして台風でも直撃するくらい「ありえない」出来事すぎて、思わず子機を握り締めて笑ってしまう。
「中田くんと!? ないない。仲はいいとは思うけど、ないよー」
「そうなの?」
稲垣くんの声が、すこし緊張を緩めたかのように聞こえた。
「うん、嘘偽りなく、ない」
「そうか」
その後は当たり障りのない雑談をして、電話を切った。
受話器を充電器に戻し、私は「クラスの男の子がわざわざ電話をかけてくるなんて、珍しいな」と、ただ漠然と不思議に思っただけだった。
*
「と、いうことがありまして」
「それ、僕に言われても複雑な心境にしかならないんだけど……」
夏休み中に交際を開始した彼氏が、困惑した表情を浮かべている。
彼の家の最寄り駅にあるミスドで、私は飲みかけのコーラのストローを噛む。
「同じクラスの女子に、突然電話してくる心理とは?」
私は「なぜ」稲垣くんが突然電話してきた気持ちが知りたかった。そういった意味では一番気になる存在になりつつある。彼氏とはまた別のベクトルで。
「小林さんは、言ったの? 僕と付き合ってるってこと」
「言ってないよ。言うタイミングが」
「あった、それはあったぞ」
「え、なんで拗ねてるの!? 榊くん!」
彼氏──榊くんは、私の隣のクラスの理系男子。
ちょっとしたご縁があって私たちは意気投合。夏休み前の夏祭りで、榊くんから告白されたのがきっかけでお付き合いを始めた。
「小林さんさあ……それはあまりにも鈍感だよ」
「え?」
「稲垣くんのことは僕も知ってる。一年のころ隣のクラスで今回も隣のクラスだし、体育の授業は一緒だし」
「うん」
「それ80パーセントの確率で『小林さんになんらかの気持ちがある』からだよ」
「そうかなあ?」
「残り15パーセントが誰かに頼まれて動いてて、残りの5パーセントは変人の可能性……」
あらいやだ、僕の彼女、男心全然わかってないんだから! と、わざとらしく女子のようなノリで榊くんがアイスコーヒーを飲み干す。
「鈍感、かあ……」
私は、アイスコーヒーを飲み干した榊くんの、眼鏡越しにどこか遠くを見るような横顔を眺めた。
あのときの、稲垣くんの声。
あの日の午後の、熱くて、どうしようもなく平凡だった時間。
それが少しだけ、特別なものに変わったような気がした。
*
「奥さーん、なにをぼうっとしてらっしゃるんですか?」
「え、あ、はっ!?」
「遠くに行ってたよ、意識」
「やだ、恥ずかしい」
私の目の前にいる眼鏡越しの目尻が、いつかの夏の青の少年と同じように優しく下がる。
今日も暑い。テレビでは「10日連続の猛暑日です」と騒いでいる。
稲垣くん、彼はどうしているのだろう。
毎年夏になると、暑くなると思い出す。
インターホンが鳴る。
『榊さーん、お届けものでーす』
「わかりましたー」
彼の姓になって十数年、印鑑を持って玄関まで走った。
<了>2000字
#今2000字で書けって言われたらどこからの発想で書き始めますか
面白そうだったので、毎年夏になると湧き上がる疑問をもとに小説を書きました。おはこんばんちはオガワです。
稲垣モデルも、中田モデルも実際の人物ですが、彼氏の榊くんだけモデルがいません……多分夫こと菩薩にしときましょう。そうしたほうがいい気がします。角が立たなくて(笑)。
学生時代というのは不思議いっぱいで、色んな人の気持ちがわからない、そんな時間でした。
いつか、すべてがわかる日、くるのかなあ……来たら来たで淋しいのかな、なんて思ったり。
でも稲垣モデルの彼には尋ねてみたいですね。
「あの時どういう心境で電話してきたん?」って。
書いていて楽しかったです。ありがとうございました!
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