「生きる意味がわからない」と、君がつぶやいた日のこと
駅のベンチに並んで腰かけたまま、君は缶コーヒーを指で回しながら、ぽつりとこう言った。
「生きてる意味って、何なんだろうね。」
電車が遠くから近づいてくる音が、話の続きを遮った。でも、私にはそれ以上何も言えなかった。きっと、君が知りたいのは正解じゃなくて、ただ、誰かと一緒に悩んでくれることだったのだと思う。
その日は寒かった。吐く息は白く、空は限りなく淡いグレーで、街の景色もどこか色を失って見えた。だけど、その問いだけは、今も記憶の中で鮮やかだ。
昔、私自身にもそんな時期があった。
朝起きて、歯を磨いて、満員電車に乗って、デスクに向かって、また帰って寝る。ただ、それだけの日々を繰り返していると、「このループに意味はあるんだろうか?」と、ふとした瞬間に立ち止まりたくなるのです。
それは決して異常なことではなく、むしろ「真面目に生きてきたからこそ抱えてしまう疑問」だと思うのです。
答えは、はっきりとした言葉にはならないけれど、私はこう思うようになりました。
たとえば、いつも挨拶をしてくれる近所のおばあちゃんが、その日も笑って手を振ってくれたこと。
コンビニのレジで、店員さんが「お気をつけて。」と声をかけてくれたこと。
失敗続きの仕事のあとに、友人が一言「今日はよくがんばったじゃん!」と言ってくれたこと。
そんな小さなやさしさやつながりが、今日の自分を、少しだけ前に進めてくれることがあるんです。
「この人生、計画ミスだったかも…。」と思う夜もあります。
なんであの学校に行ったのか、なぜあの人と別れたのか、もっと違う選択をしていれば――。でも不思議なことに、後から振り返ると、あの選択がなければ出会えなかった誰かや、手にできなかった経験が、そっと人生に深みを与えてくれていたりする。
そう考えると、人生の出来事に意味を与えるのは「結果」ではなく、「どれだけその中で感じ、考え、誰かと分かち合えたか」なのかもしれません。
「死にたい」と思ってしまうほど、きっと真剣に、この世界を見つめたのだと思います。
誰かがこぼした涙、社会の矛盾、自分の未熟さや無力感。それらを見て見ぬふりができず、どうしても心がついていかなくなってしまうときが、あるのだと思います。
でも、そんなふうに「生きる意味」を探して悩むこと自体が、もうすでに「生きている証」であり、「意味を見出そうとする姿勢」なのです。
「なんでもない日常の中に、自分だけの意味を見つけられるようになる」
それって、特別な才能じゃなくて、ただ生き続けた人だけが手にできる静かな宝物だと思うのです。
意味が見えないからこそ、今日の風の匂いや、誰かと交わす笑顔に価値が宿るのかもしれません。
最後に、君へ。
この先また、しんどい夜がやってくるかもしれません。
でも、その夜を通り過ぎた先で、誰かと笑える朝がきっと来ます。
そのとき、君が言ってくれたらいいな。
「なんか、もう少しだけ、生きてみてもいいかも!」って。
私はその瞬間の君に、そっと缶コーヒーを差し出すでしょう。そして笑ってこう言います。
「でしょ?」

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