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光の層をたどる

午後の光は、やわらかく、どこか懐かしい。窓辺に座っていると、空気の粒子さえも、何かを語りかけてくるように感じる。私はいつも、こうした穏やかな時間の中で、思考の底をゆっくりと撫でる。

この国には、たしかに影がある。過去という名の、長くて濃い影だ。それはたとえば、教科書の片隅にいる兵士の姿だったり、記念館のガラスケースの中で無言のまま並んでいる遺品たちだったり。あるいは、祖父がときどき見せた、言葉にならない沈黙だったり。

歴史は、ひとつの単語で括るには、あまりに繊細だ。「戦争」と名のつくそれは、白でも黒でもなく、たぶん何層にも重なった灰色のレイヤーでできている。触れようとすればするほど、手のひらからすり抜けていく。私たちは、真実に触れたと思っても、それはほんの表面の1枚目かもしれないのだ。

最近、「正しさ」という言葉に少し疲れている自分がいる。SNSでは誰かが誰かを断罪し、ニュースは失敗の責任を突きつけ、空気さえも「どちらの側に立つか」を静かに強要してくるような気がする。でも、本当のところ、私たちはそんなに潔白でいられるだろうか? そんなに単純に善悪を分けられるのだろうか?

あるとき、祖父の古い日記を見つけた。具体的なことは何も書かれていなかった。ただ、誰かに語りかけるような文体で、「暑い日だった。」「眠れない夜だった。」「遠くで花火のような音がした。」――そんな風景が綴られていただけだった。でも、それがなぜだか胸を打った。過去の重みが、音ではなく、光でもなく、ただの「日常の感触」として迫ってきたからだ。

祖父の戦争は、誰かに語るためのものではなかったのかもしれない。記録に残すためでも、正当化するためでもない。ただ、生き抜いたという事実だけがそこにあり、誰にも貸し借りせず、静かにしまい込まれていた。

私も、弱い自分を持て余すことがある。怒るべき場面で何も言えず、誰かの悲しみに寄り添えたはずの場面で、うまく言葉が出てこない。そんな自分を責めた夜も、数えきれないほどあった。でも、そのたびに思うのだ。「人間らしさ」とは、きっとそういう不完全さにこそ宿るのではないか、と。

世界は、善意で満ちているわけではない。けれど、完全な悪意だけでできているわけでもない。多くの人は、そのあいだをたゆたうように生きている。迷いながら、躊躇いながら、誰かの手を取る瞬間を信じている。私は、その「あわい」にこそ、未来を信じる根拠がある気がするのだ。

祖父の沈黙は、今では私の中で「言葉」に変わっている。それは決して雄弁ではないが、柔らかく、ひとの心に触れる種類の言葉だ。正しさを振りかざすでもなく、誰かを糾弾するでもなく、ただ静かに、「そこにあったもの」をすくい上げるような――そんな言葉を、私は持ち続けたい。

午後の光は、少しずつ傾き、部屋の中に長い影を落としている。けれどその影の中にも、柔らかな粒子が舞っている。

明日もまた、同じ光が差し込むことを願っている。きっとそれだけで、生きていく理由にはなるのだと思う。

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