わたしがエッセイを書くのは、未来で共感したいから
半年くらい前、noteでエッセイを書くことをはじめた。今まで自分で創作し、文章を書くなんてしたことなかったのに、突然だ。
小学生のときは、なにかをつくることが好きな子どもだった。一番好きな教科は図工。絵も工作も好きだったし、市や県の賞をもらうことだってあった。手芸も好きで、図書館に連れて行ってもらっては関連する本を借り、母に材料をせがんで編み物やビーズのアクセサリーをつくった。
高校生になると、つくることが自分よりずーっと上手なともだちにたくさん出会った。アクセサリーづくりに、ファッションのデザインに、絵に、振り付けに……。つくることに長けた彼女たちと自分とのあいだには、どうにも埋まらない溝というか谷があることに気づいた。それからは、自分自身はつくることから離れて、イベントの運営やチームのマネジメントといった、つくる人を支えることが楽しくなった。
以来わたしは、ずっと「自分はつくる側の人間ではない」と思っていた。妬むような気持ちはなくて、ただつくれる人はすごいなぁ、とうらやましいと思う気持ち。他の人の創作を支えられるなら十分満足で、楽しかった。
ずっとつくる側の人間ではなかったのに、文章を書くことを、30歳を過ぎてはじめた。はじめたきっかけは、夫との日々を書き残すため。夫は私より22歳年上。かなり高い確率で、夫の方が先に亡くなって、わたしは一人になる。いつかその日が来たときにも読み返せるように、と生活について書きはじめた。
書くことをはじめただけでなく、続けられているのは「自分で自分に共感する」ことが楽しいからかも、と思う。
コンテンツを読んで共感するのは、とても楽しい。明るいほっこりする話に嬉しくなったり、心配事にそうだよね……と一緒にしんみりしたり、悲しみにぎゅうっと胸が締めつけられたり。
しかも、それが自分の書いたものなら、もう共感しまくりである。
数ヶ月前に書いた文章を自分で読み返すと、嬉しかった気持ちやほくほくした気持ち、さみしい気持ちを手にとるように思い出せる。自分の書いた文章を読む体験が、案外好きだ。
穂村弘のエッセイに、文章表現を支えるのは驚異(ワンダー)と共感(シンパシー)だという話が出てくる。詩歌やアートの世界にあるまぶしい驚異は、わたしにはなかなか生み出せない。それでも、共感ならわたしにも書けそうだ。
今のわたしから、未来のわたしに向けた共感の文章。わがままかもしれないけど、わたしが書くのは、わたしのため。今の私に、他でもない未来の私が共感してくれたらいいなと思って書いている。
このnoteは、毎日書いている日記の練習の、本番です。2025年1月の日記の本番でした。
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