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落武者恐怖症 | 第12話

 川上の奇怪な症状を、ひなはすでに知っていた。
「誰から聞いたっ」
 思わず、彼女の肩を掴んでいた。
 ひなは驚いたように目を見張る。それから、肩に置かれた川上の手を見つめた。
 ふっと唇を緩める。
 その表情は、どこか寂しげだった。体温を上げた男に触れられているのに、彼女はその熱を感じられない。そんな諦めがそこに浮かんでいるように感じ、川上はゆっくり手を離す。
「聞こえたの、あなたのマネージャーの声が。どこかに慌てて連絡してた」
「……いつ?」
「撮影二日目だったかな」
 嘘だろ、と愕然とする。
「『川上さんが、本番になると相手役が落武者に見えるとか言ってます。これから病院へ連れていきます』って」
 川上は苦々しく、タレ目の二重あごの男を頭に浮かべた。あの野郎――。
「最初は、何を言ってるんだろうって思った。でも、このバーにはもっとおかしな症状を持つ人もいるから」
 ひなは川上から目線を移した。加能は黙って聞いている。
「撮影を重ねるうちに、本当なんだと思った。だって本番がかかると、あなたはわたしを見て、本気で怯えていたから」目を戻しながら言った。
 川上は口元を曲げ、顔を横へ向ける。「それなら、早く言えよ」
「だから何度も聞いたじゃない。おかしいんじゃないかって」
 たしかに聞かれた。だが、はいそうです、などと答えられるわけがない。
「現場の雰囲気も最悪だったし、なんとかしなきゃって。それでマスターに相談したら、ここへ連れてきなって」
 川上は不快な視線を向ける。
「マスターも知ってたんですか」
 加能は詫びるように小さく顎を引いた。
「まさか……他の客も?」声が尖った。「こんなのフェアじゃない」
 ひなが強く首を振る。
「他の人には言ってない」
「本当かよ。信じられない」
 川上は席を立った。
「じゃあ言えよ。君は、どうして人肌を感じないんだ? 原因は?」
 ひなは目を伏せる。
「どうすれば治るかわかってるのに、なぜ治さない?」
 唇を噛んで、答えようとしない。
 加能が、わざとらしく咳払いをした。
「ちょっと買い出しに行ってきてもいいかな」
 そう断り、カウンターを離れる。こちらの返事も待たず、そそくさと店を出ていった。
 店内に重苦しい沈黙が落ちる。
「話せる範囲でいい」
 川上は少し声を落とした。
「バーのルールには従う」
 ひなは瞼を閉じる。黙考するような表情だった。話し出しそうな気配はあるが、彼女の口はなかなか開かない。
 息の詰まる時間が続いた。
 川上が諦めかけた頃、ひなは目を開けた。それから静かに語り始めた。
 それは、耳を塞ぎたくなる話だった。聞いたことを後悔するほどに。
 テレビ局の廊下で川上が目の当たりにした大角の件など、まだ序章にすぎなかったのだと思い知らされた。
 彼女は魂を殺され、多くを失っていた。
「それから、わたしは人肌を感じなくなった」
 ひなは感情を高ぶらせるわけでもなく淡々と告げた。それでも、話すたびに傷口が開いているのがわかった。
「わたしはまだ未成年だった」
 ひなは裕福な家庭で、愛情深く育てられた。私立のミッション系の学校に通い、信心深く、協調性を重んじて他人との軋轢を避けるように生きてきた少女だった。
 高校生のとき芸能界に入り、少女漫画原作の映画で、意地悪な役を演じることになった。自分とはかけ離れたキャラクターに、彼女は大苦戦した。できない自分を責め、追い込んでいった。
 その苦しむ様子にいち早く気づいた人物がいた。
 監督だった。
 彼は弱った彼女に近づき、お前の奥底に眠る才能を引き出してやる、と言葉巧みに誘い出した。そして未成年の少女に酒を飲ませ、抵抗できない状態にした。
 その後のことを、ひなは詳しく語らなかった。語らなくても、十分だった。
 加害者は、井坂監督。
 映画会社やテレビ局の意向を汲んで撮る、使い勝手のいい職業監督だった。だが近年、国際映画祭で受賞を重ね、日本を代表する映画作家の地位を手に入れた。もっとも、プロデューサーと脚本の力が大きいのだが、彼の名前だけが一人歩きしている。今では業界の重鎮だ。
 相手が井坂だと聞いても、川上はそれほど驚かなかった。以前、俳優同士の飲み会で、ある女優が井坂に演技指導と称してホテルへ連れ込まれたという話を聞いたことがある。ワークショップに集まった新人女優の多くが犠牲になっている、という噂もあった。
 監督と役者。プロデューサーと役者。そこには明確な力の差がある。拒めば、自分の代わりはいくらでもいる。そういう非情な世界だった。
「治す方法」
 川上は重い口を開いた。
「なんとなくわかった気がする。でも……そんな奴のために、自分の手を汚しちゃダメだよ」
 ひなは虚ろな目で床を見ていた。
「あんなヤツ……殺したって――」
 言い終える前に、彼女は激しくかぶりを振った。
「殺さないよ……。殺さない……」
 彼女は唇を強く噛み、顔を背ける。
「あんなヤツを殺しても……仕方ない」
 押し殺した感情が、顔を歪ませていた。そして大きく息を吐くと、震える声で続けた。
「でもあいつは、わたしを毎日不安にさせて、怖がらせるものを持ってる」
 川上は、彼女の赤く充血した目を覗く。不安や怖れの感情以外に、強い闘志を宿した光が目から放たれていた。
「それを取り返せば、わたしは治るはず」
「取り返すって、何を……?」
 ひなは川上を見た。
「協力してくれる?」
 挑発するような目だった。
「それなら話すけど」
 その直後、わずかに生まれた希望を自分で踏みにじるように、ひなは小さく笑った。
「無理よね」
 そう言って、席を立った。

 川上は自宅に戻ると、すぐにシャワーを浴びた。頭が重い。痺れも感じる。シャワーの水圧を強くし、後頭部に当て続けた。
 何のためにバーへ行ったのか。
 救いを求めたはずなのに、さらに重いものを背負って帰ってきた。
 ひなの秘密は、あまりにも衝撃的だった。
 濡れた身体を拭いても、着替える気力が湧かない。タオルを腰に巻いたまま、しばらくソファーに座り込んだ。思考が、ぐるぐると回る。
 ダメだ。明日の撮影をキャンセルしよう。
 そう思い、重田に連絡するためスマホを手に取った。
 だが、寸前でやめた。
 壁の時計を見る。撮影まで、四時間。
 米村の顔が浮かぶ。柔らかい笑顔。余裕のある目。現場を支配する明るさ。本番になれば、彼は落武者になる。どんな恐ろしい姿に変貌するのだろう。想像しただけで、胸が潰れそうだった。
 落ち着け。怖いのは米村ではない。落武者だ。
 米村が落武者に見えなければ、芝居は怖くない。
 どうすれば見えなくなるのか。前澤ひなとの撮影だけは、うまくいった。それはなぜなのか――。
 川上はふと、ある考えに行き着き、スマホを見下ろした。
 電話をかける。
 相手はワンコールで出た。
「なに?」
 不機嫌な声が返ってくる。マリリンだ。
「ちょっと聞きたいことがある」
「だから、なに?」
「あのバーの客から、君に連絡が来るんだよね。こんなふうに」
「それが?」
「あそこに集まる人たちは、みんな問題があって来てる」
「ルールに従え。バーのことは口外しない」
 きつい声で遮られる。
「……わかってる。でも、どうしても知りたい。緊急なんだ。頼む」
 マリリンは黙った。
 電話を切る気配がないのを確認して、川上は続ける。
「あのバーに行って、問題が解消された客がいたか知りたい」
 受話口の向こうで、くちゃくちゃと何かを噛む音がする。ガムだろうか。
 答えはない。
「一時的だけど、俺の問題は解消された。でも理由がわからない。今すぐ知りたいんだ」
「知らない」
 乾いた声だった。通話が切れそうになる。
「待て!」
 川上は思わず声を荒げた。
「どんな情報でもいい。きっかけはあのバー以外に考えられない。でも完全じゃない。前澤ひなといるときだけ、問題が解消された」
 短い沈黙。それから、ため息のような鼻息が聞こえた。
「バー以外の場所で?」
「そう」
「秘密を知ったからじゃない?」
「ん?」
「だから、彼女の秘密。あんた、知ってるんでしょ」
「ああ。聞いた」
 ひなは人肌を感じられない、という問題があると川上は知っていた。
「彼女も、あんたに問題があることを知ってた。秘密を共有した者同士で、あんたは安心したんじゃない?」
 安心? その言葉が胸の中で引っかかった。
 あの本番を思い返す。たしかに、ひなだけには、気を許していた。
「それで問題が解消されたんじゃない?」
「そういうことなのか?」
「だから、知らないって」
 マリリンは面倒くさそうに吐き捨て、電話を切った。
 川上はスマホを耳から離し、しばらく画面を見つめた。
 ありえそうな話だった。けれど自分に起きて、秘密を共有したはずのひなに起きなかった説明がつかない。やはり、要因は他にあるのか。
 川上はバーでの会話を思い出した。
 ひなは、自分の問題を治す方法は一つしかないと言った。協力するなら話す、とも。その時、川上に覚悟はなかった。
 それでも、立ち去ろうとしたひなの手を、とっさに掴んでいた。
「するよ。協力……」
 その大胆な行動に反して、声は小さく、情けないほど弱かった。
 ひなは振り返った。すがるような目だった。
「手帳」
 かすれた声で、彼女は言った。
「井坂は手帳を持ち歩いている」
「手帳……?」川上は眉間に皺を寄せる。
「そこに、あいつが犯した女優の名前が書かれてる。他にも、相手の尊厳を傷つけるようなことが、たくさん」
「本当なのか……?」
「見た人がいる」
 ひなの声は震えていた。体の底から突き上げてくる怒りと悲しみを抑えきれず、彼女の瞳も揺れていた。
「その手帳を取り返さないと、わたしの不安は一生消えない」
 語気を強めて言う。
「治すには、まずそれを奪い返さないと」
 川上はすぐに答えられなかった。手帳の存在には半信半疑だった。それでも、もし本当にそんなものがあるのなら、奪い返す行為が彼女を救う手がかりになることは理解できた。
 もう一度、自分の問題へ意識を戻す。
 ひなには、取り返すべきものがある。恐怖の根が、具体的な形をしている。
 自分はどうか。
 落武者を消すために、何を取り返せばいいのか。そもそも問題とされる不安や恐怖さえ自覚できていない。
 なのに、前澤ひなとの本番では、落武者は現れなかった。
 なぜなのか。わからないと、米村は落武者になる。
 考えはまた、同じ場所へ戻ってくる。
 時計を見た。
 撮影まで、二時間。
 もうスタッフの一部は動き出している。キャンセルはできない。




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