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〈最暗黒の東京〉の起源は江戸時代             大日本帝国と史論家山路愛山の時代32

徳富蘇峰の誤認をただす山路愛山


 徳川時代の中盤から武士の貧窮化は深刻であった。「借金は徳川氏中葉以後の武士を纏(まと)へる縄なりき」と、大名は家臣の禄を借り、家臣は町人の金を借りるようになっている。さらには旗本も出入りの商人より巨額の借金をする。自らの家計を処理することができない状況になっていった。その有様は「貧は士の常」「武士は食わねど高楊枝」という言によく表れている。

 今となっては何事もないかのような山路愛山のこうした記述だが、盟友蘇峰は絶大な影響力を持った『将来之日本』(明治一九年)において、「武備的世界」から「平民的社会」へ移行するのが歴史の流れだと論じ、「世界史の法則」を日本史に当てはめたがために、重大な誤認を犯していた。

「一地方の富は城下に集り。全地方の富は江戸に集り。社会の富は武士と高等の武士に集れり」[i]

 武士を「貴族」と見なし、明治を「平民社会の到来」と図式的に把握したため誤った解釈が起きたのである。単刀直入に言えば、若き日の蘇峰は日本史を捉えそこなっていた[ii]。明治という時代を動かすには、否定の為の否定の対象が必要だった。武士をよく知る愛山の徳川時代論は、蘇峰の一面的な歴史認識を排し、史実に即した認識に戻す意義を含んでいた。

 愛山の言う通り、武士の現状は苦しくなるばかりであり、平民が世の繁昌を謳歌する間に武士は懐古の歎声を発するようになったという(明治二六「論史漫筆:三省録を読む」)。これは非常に重要な指摘で、幕末期に盛り上がった復古主義の遠因がここにあると愛山は見ていたに違いないからである。抽象的な理想の背後には、必ず具体的現実からくる要求が存在している。物質的進歩とはすなわち武士の貧窮化であった。

「・・・当時における名君賢宰の施政はことごとく節倹と生産の二旨に帰するをもつてこれを察するを得べし」

「・・・諸侯はみな極めて質素淳朴なりしにも関はらず、扶持せし武士の数は極めて多かりき」

大都会が発達した時代


 平民にとって幸福な時代は武士にとって不幸な時代であった。この時代は大都会が発達した時代であった。いうまでもなく、その両横綱は大坂と江戸である。

 「大坂は元本願寺の居城なりしを豊臣秀吉、英雄の資をもつてその形勝を認識し、府をここに遷せしより、俄然として発達し、その海運の便を有するをもつて、日本商業の中心となり、東西の貨物をここに集めてここに散じ、優に天下の利権を握るに至れり。かかりしかば、摂津の船は諸国の海岸を訪ひて商業を営み、両替の如き手形の如き信用組織は早く此の中より胚胎して貨財の流通を便にせり」

愛山は、近代資本主義の先駆的存在として大坂を描いていく。彼が幕臣としての誇りを持っていたことを触れたが、それは単なる江戸礼賛になっては現れない。むしろその欠点について辛辣だった。

「金銭上において江戸児は磊落無頓着に、上方児は慎密精細なるゆえんを推してその原因にさかのぼれば、吾人はこれを上方児が早くより平民的の訓練を受け、江戸児が貴族的の中に養成せられたるに帰せざるを得ず」

江戸の商人は武家を相手に商売をした。このように、経済に疎い武家を相手に江戸児が金銭に対し磊落無頓着になるのは怪しむに足らない。しかし上方はこうはいかない。彼らは地方の実業家の荷主を得意先にしなくてはいけないからである。精細なる計算によって、その利を出さないといけない。「彼らはただ富をなすの道は微を積みて大となるを教へられしのみ」。どこまで行っても、江戸は大坂の後塵を拝する有様であった。こうして両横綱は、全国の物産品が集まる都市として栄えた。

「都会は地方によりて栄え、地方は都会によりて栄ふ。江戸大阪の駸々として富に向へるはすなわち当時における物質的進歩の偉大なりしを示すものなり」

富の進歩の効用は、自治機関と信用機関の発達を助け、大坂に至っては自個の法律を有し、自己の意思を有し、自由の生命を有する自治区となったという(明治二八~九「近松の戯曲に現はれたる元禄時代」)。個人意識の発達、独立した精神は経済的自立なくしてはありえないのである。その展開は大坂の歴史において顕著だった。


最暗黒の世界


 大都会同士もライバルがいることにより、互いに刺激が生まれて発展を遂げる。個性と個性がまじりあってダイナミックに動く歴史が愛山にとって理想なのである。逆に、「物」が場所を得ない状態は不幸そのものといえた。富める者の背後には、貧窮するものがいる。

 彼が生まれたのは浅草の鳥越町である(k)。浅草にはあの有名な弾左衛門がおり、言うまでもなく彼はエタの頭である。そういう空間と身近だった愛山はこの時代の暗部にも精通している。

 「・・・平民の住所について云へば表通りに住む者は上なり、横町に住む者は中なり、裏店新町に住む者は下なり。裏店より横町、横町より表通りに赴くはこれ暗黒より光明に行くなり、貧窮より富裕に行くなり。殺風景より秩序に行くなり、表通りの店を閉ぢて横町に移るは堕落なり。横町より裏店に移るは更に大なる堕落なり」

 愛山の平民観はこのように実に生々しい。観察が細かい上に具体的な描写を行い、眼の前に江戸の町並みが広がってくるかのようである。表通りの富豪の生活ぶりについてはさらに細かく記述しているが、割愛せざるを得ない。ただ注目すべきは、最下層と言われる人々の存在である。

「按摩の如き、洗濯屋の如き、貸本屋の如き、車挽きの如き」

は大商家の出入りの人々であり、「最下等」だという。

 「貧乏の住むところはすなわち無智の住む所なり。無智の棲む所は即罪悪の棲む所なり」

一人暮らしにして商売なく、家産なく、市中を往来し喧嘩を仕掛けて人の銭を貪るようなものがいるという。家業を有するものだとしても仕事は「猿ひき(猿回し)、ほうづき売り、煙管なほし、紙屑ひろひ」の類である。

「日々の生活に窮し厳寒なお布団一枚にして母子包むに足らず、米は五合一合の桝買にして纔(わず)かに口を糊す、人間堕落の最も甚しきものこれを最暗黒の江戸なりとす」

さらに最暗黒の世界があり、それは娼閣の在る処で、彼はこれを述べるのに忍びないという。こうした愛山の記述に影響を与えたのは『国民新聞』誌上で下層社会の報告(明治二五年一一月一一日以降)をしていた松原岩五郎だったのではないか。

これは『最暗黒の東京』として明治二六年(一八九三)一一月に民友社より出版された。松原は最暗部の東京に入り込み、そのすさまじい貧困、不潔、堕落、残飯屋の暗躍などを描いている。


社会問題がいよいよ言論人にとって重要な課題になり始めた。愛山の史論のユニークさは、明治の近代化以前から都市の勃興を強調していたために、「最暗黒の江戸」を発見していたことにあった。そしてこのスラムの歴史はいうまでもなく、明治時代にそのまま引き継がれていったのである。



[i] 植手通有編『明治文学全集三四・徳富蘇峰集』(昭和四九 筑摩書房)九五頁

[ii] 明治二六年の『吉田松陰』で蘇峰は「富の進歩は、武士の窮迫を意味し、窮迫は借金を意味し、借金は武士の社会における勢力の失墜を意味す」(同前所収)と述べて自身の見解を修正したが、これは愛山の影響であろう。

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