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生きる意味について。

この記事では「生きる意味を考えても仕方がないから人生を楽しもう」とか、「生きる意味は人それぞれだから」とかそういうつまらない事は書かきません。この世界に生まれてから20年経過したことで分かった「生きる意味の解答」(おもしろいやつ)を書くことにします。

いきなり余談ですが、僕は「人それぞれ」という言葉が嫌いです。
例えば、数人で会話していて「私はこう思うんだよね」「いや、でも私はこう思うんだよね」「でも〇〇さんはこの前こう言ってたんだよね」ってなった時にこの集団のうちの誰かが「まあ、人それぞれだからねー」と言って会話が終わっちゃうようなことや、僕が誰かに「幸福って何だと思う?」って聞いた時に「人それぞれだからねー」って言われるようなことです。とても嫌いです。どこが嫌いなのかというと、思考をやめているにも関わらずあたかも思考しているような雰囲気を出しているのが癪に障ります。「人それぞれ」という言葉を多用している人ほど脳無しのアホはいません。そういう人に限って何かの偏見やバイアスがかかっているのです。多様性は頭ごなしに承認して、信用(過信)することではありません。それを疑ったり思考したりして解答を出し続けることだと思います。

まず、生きる意味が存在するかしないかについて書きます。
僕は、生きる意味は存在はしないけど作ることはできると思っています。僕たち人間が「生きる意味って何だろう」と考えたり悩んだりしているという時点で、生きるということにすら意味を与えたくなる(それに意味がないと落ち着かない、あるいは苦しくなる)というほど高度で複雑な思考を持っているということだと思います。存在しないものを作らないと苦しくなってしまうというちょっと変な知的生命体が人間なのかもしれないですね。

さて、生きる意味は存在しないけど作ることができるということを書いた上で、次に具体的に何が生きる意味になりそうなのか。何が生きる意味を作りやすいのかについて書きます。
友達に生きる意味について聞いたところ、「推し」「食べて寝ること」「エロいこと」「生きる意味はないから楽しんだもん勝ち」というような意見が出た。まず、最初の三つに関しては刹那的すぎて僕は共感できませんでした。四つ目に関しては生きる意味すら考えようとしていないため論外です。
では、僕が思う生きる意味について書きます。前置きが長くなって鬱陶しくなっているかもしれませんが、生きる意味について書くときには前置きは必須だと思います。


現時点で生きる意味は主に二つあると思います。まず一つ目が「哲学的思考」です。そして二つ目が「コミュニケーション」です。

どうして哲学的思考とコミュニケーションが生きる意味になるのか。

哲学的思考は簡単に言うと、常に疑いながら答えのないものにちゃんと答えを生み出していくものです。常に考え続けないと人間は生きる意味がないのです。
ここで、僕の高校の時の先生の話をしたい。
伊藤先生は三年間ずっと僕のクラスの担任であり国語の先生でもありました。ある時、ホームルームで伊藤先生が「好きな言葉を発表しましょう」という課題があり、みんな自分の好きな言葉を前に出て発表しなければならないことがありました。その時に僕は思いつく好きな言葉がなく、かといって嘘をつくのも嫌だったので、僕は嫌いな言葉を発表しました。嫌いな言葉ならたくさんありました。僕がその時に選んだ嫌いな言葉は「君が死にたいと言った今日は誰かが生きたかった明日だ。」という言葉でした。僕はその時からこの言葉が嫌いでした。
教卓で僕は、「この言葉は「君」に対しての扱いが軽い。「君」の気持ちに対して敬う気持ちが一切感じられず、頭ごなしに生きることを強要し、生きることが正しいと何も疑わずに思い込んでいるが故作れる文章だ。「君」がどういう経験をしたのか、どういう気持ちなのかを全く考慮しないという極めて幼稚な文章だ。この文章を作った人は哲学的な思考が欠如しているため、僕はこのような文章を書く人やこのような文章に対して何も考えず肯定的な反応をする人を心底軽蔑しています。また、いいことを言っている風にしているのも癪にさわるし、謎に詩的にしているのも癪にさわります。だから僕はこの文章が嫌いです。」という内容をみんなの前で発表しました。すると、その日のお昼休みに校内放送で「雪江くん、至急職員室に来てください」と言われ、僕は食事を中断して職員室に行くと、伊藤先生がキレていました。「言っていいことと悪いことがある。想像力がないから何も考えてないのは君の方だ。考え方が幼稚だ。激しい憤りを感じる。」と言われました。僕はずっとヘラヘラしながら謝っていましたが、そこで伊藤先生は哲学的思考ができない人だということがわかりました。
また、伊藤先生に限らず哲学的な思考ができない人は他にもたくさんいました。英語の辻先生は良い例です。辻先生はいつも授業中に寝ている生徒に対してちゃんと授業を聞けと必要以上に怒ります。授業を中断してまで廊下に呼び出し、寝ていた僕のクラスメイトを怒鳴りつけていました。辻先生は自分の授業がつまらないのかもしれないということが考えられない上に、寝ている人が今眠い何か特別な理由があるかもしれないということを考えられないのです。僕は、辻先生が授業を中断してまで怒鳴ることに価値を感じていること、頭ごなしに自分の授業を聞けと強要していることに幼稚さを感じていました。母の看病で疲れている彼氏に「なんで私の話を聞いてくれないの?」とヒステリックになっているメンヘラ彼女と何が違うのでしょうか。そんなメンヘラ教師の授業は聞きたくありません。

このように哲学的思考が欠如している人は生きる意味の土台すら欠如しています。僕は彼らを「生きても死んでもどっちでもいい愚民・下等生物」と認識しています。僕は、仮にこれを読んでいる人が哲学的思考ができる人であれば、その思考を大切にしてほしいですし、さらにそれを生きる意味にもしてほしいのです。


コミュニケーションは、言い換えると社会に属すると言うことです。想像してみてください。もし今から自分以外の人間がいきなり消滅して、一人で生きなければならない状況になったら、人間が何かをしようとすることの原動力は全て他人が関わっているということがはっきりとわかるようになるでしょう。
例えば、試験を受けること、趣味を始めること、新しいサークルに入ること、就活をすること、垢抜けを頑張ること、この文章を書くことも全ての原動力には他人が関わっています。誰もいなくなった世界ではやる気がとんでもないくらい無くなると思います。そんな世界でもやる気(生きる気)満々な人は人間じゃないです。アンドロイドとかだと思います。
僕は、ただ「どんなことにも人間は関わっているから、人との関わりを大切にしよう」と言っているわけではありません。他人がいないと精神的に生きることができないし、何かをするためのやる気や原動力は全て他人ありきであり、人間は他人に依存しないと生きることができないということを言いたいのです。
では、どのように他人が関わっていて、どのように他人がいないと精神的に生きることができないのか。先ほどの例をいくつか使って説明します。
垢抜けはいい例です。「好きな人に振り向いてほしい」という焦点的な目的でも「女の子・男の子にモテたい」という広範囲攻撃のような目的でも他人が関わっています。そして、魅力的な人と魅力的ではない人がそれぞれ存在しないと好きな人はできないし、モテたいという欲も出てきません。つまりモテたいという欲によって垢抜けを頑張るという行為は魅力的な人たちと魅力的ではない人たちに依存しているのです。また、こういうことを言うと「趣味は純度100%の自分のやりたいことだと思う。」ということを言う人が出てきそうだが、本当にそうでしょうか。考えてみてください。内容は重複するので書きません。
このように人間は他人に依存しないと生きることができないという世界で、僕は、「依存が大事だ」でもなく「依存を脱却しよう」でもなく「コミュニケーションをしよう」と言いたいのです。

ではどうやってコミュニケーションをとれば良いのか。僕のようなコミュ障はどうしたらいいのか。
その答えは「コミュニケーションは誰かと盛り上がって話すことでもないし、誰かとずっと一緒にいることがコミュニケーションではないということ」です。僕はコミュニケーションとは「相手に興味を持つこと」だと思います。例えば、僕は自販機でジュースを買って近所の公園に行くことが好きです。毎日のように行っていると「この人よくいるな」とか「この人が連れている犬かわいいな」とか思うようになります。そしてその人が来なくなったら「最近来なくなったな」「どうしたんだろう、寂しいな」とか思うようになると思います。それがコミュニケーションです。
おそらくコミュニケーションをとると生きやすくなるだろうし、人間がこのように依存しあっている理由もわかるようになると思います。そしてそれが生きる意味になると思います。

まとめると、生きる意味はないけど作ることはできる、生きる意味は哲学的思考とコミュニケーションであるということです。
ただ、これは現時点での僕の思想です。生きる意味についても常に疑って哲学的思考を忘れず生きていきたいと思います。
ぜひ、あなたの生きる意味やこの文章を読んだ感想をコメント等で教えてください。この3928文字の文章をここまで読める人は面白くて変わっていて魅力的な人だと思います。



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