見出し画像

維摩経・勝鬘経コラム集01維摩経と勝鬘経の世界

聖徳太子二童子像(部分)
ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

 維摩経ゆいまぎょう勝鬘経しょうまんぎょうは法華経とともに聖徳太子の「三経義疏」で知られています。聖徳太子の真撰かどうかについては論議がありますが、飛鳥時代にあらわされた日本最初の本格的な経典の解釈書です。そこには強い在家主義が主張され、日本仏教の基本的な方向を決定しました。

日本では僧も結婚して寺院で一般と変わらない家庭生活が営まれているほか、多くの在家仏教団体があり、世界に例のない在家仏教の国になっています。その基点が聖徳太子の「三経義疏」にあります。

今回から「全文現代語訳 浄土三部経」コラム集と並行して「維摩経・勝鬘経コラム集」を開始します。まず、「はじめに 維摩経と勝鬘経の世界」から

はじめに 維摩経と勝鬘経の世界

 在家信徒の優位

 維摩経と勝鬘経は、今から二〇〇〇年くらい前の西暦紀元前後に興った大乗仏教の経典である。そのことが経典の内容に色濃く反映している。

 たとえば勝鬘経では、「阿羅漢あらかん辟支仏びゃくしぶつは限られた功徳くどく成就じょうじゅしているにすぎない。それでも涅槃ねはん(さとりの静けさ)を得ると言われるのは如来の方便である」(一乗章第五)等と繰り返し説かれている。

 阿羅漢はアルハットの変化形アルハンの漢字表音で、人々から供物と敬いを受けるにふさわしい尊者として「応供おうぐ」と意訳される。ブッダの呼称のひとつでもある。

 仏教の開祖ゴータマ・シッダールタは紀元前五〇〇年頃にインド亜大陸北部に暮らすシャーキャ人の王家にうまれた。二十九歳のときに国も家族も捨てて出家して修行し、三十五歳のときに煩悩ぼんのうを消し去ってニルヴァーナ(涅槃)とよばれる静かな境地を得てブッダになったという。ブッダは目覚めた人、覚者の意である。初期仏教においては、このゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ)にならって出家し、阿羅漢になることを修行の目標とした。

 辟支仏はプラティエーカ・ブッダ(縁起の教えによって独りで覚った者)の表音で、意訳して独覚どっかくとも縁覚えんがくともいう。また、シュラーヴァカ(教えを聴聞する門弟=声聞しょうもん)とよばれる出家修行者たちもいた。

 声聞 ・縁覚は出家して修行しなければさとりに至ることはできないとすることから、大乗仏教の側ではヒーナヤーナ(小さな劣った乗りもの=小乗)だと批判した。そして大乗仏教では、さとりの門は広く人々に開かれていると主張し、自分たちの仏道はマハーヤーナ(大きな乗りもの)だといった。また、自分たちこそ真のボーディサットヴァ(さとりを求める人=菩薩ぼさつ)だとした。そして、仏道を小乗の声聞・縁覚と大乗の菩薩道の三乗に区分した。

 勝鬘経では、声聞・縁覚は未熟な人々を導くために釈迦如来がとった方便(手段としての仮の教え)であり、今ようやく、かれらがまだ聞いたことのない大乗の法門が開かれた。さらに、声聞・縁覚・菩薩の三乗は究極には一乗の仏道に導かれるのだという(一乗章第五)。それは法華経で説かれる一乗と同様である。

 また、勝鬘経はシュリーマーラー(勝鬘夫人しょうまんぶにん)という女性がブッダに代わって教えを説くところに、仏教史上の大きな逆転がある。

 仏教教団は初期の段階から、ビクシュ(比丘びく=男の出家者)・ビクシュニー(比丘尼びくに=女の出家者)・ウパーサカ(優婆塞うばそく=男の在家信徒)・ウパーシカー(優婆夷うばい=女の在家信徒)の四衆ししゅを成員とした。

 この四衆のうち、さとりに至ることができるのは出家者のみとされた。在家の優婆塞・優婆夷は比丘・比丘尼に食物や衣などの布施をすることで功徳を積み、現世と来世の幸福を願う。
 現世では病気や貧しさに苦しまず、来世には天界に生まれるか、せめて今より少し豊かな家に生まれること、女は男に生まれること、そうなれば、もっとも尊い比丘になって阿羅漢になることさえできるかもしれない。

 このような序列において、在家の女性はさとりからもっとも遠い位置に置かれた。ところが勝鬘経のシュリーマーラーは、ブッダと同等の智慧をもつ者としてあつかわれているのである。

 この逆転は維摩経の基本構造にもなっている。ヴィマラキールティ(維摩詰ゆいまきつ)という在家者がブッダの高弟のシャーリプトラ(舎利弗しゃりほつ)、マハーカーシャパ(摩訶迦葉まかかしょう)などの修行を批判し、「もう維摩詰には会いたくない」といわせるほど完膚無きまでに論破してしまった。ついに文殊菩薩が維摩詰のところへ行って、大乗仏教初期に盛んに語られるようになった「くう」という考え方を軸に問答をおこなう。

 このように在家の優位が説かれることには、大乗仏教の興起とともに生まれた新たな確信があった。勝鬘経にいう「如来蔵にょらいぞう(さとりの種が胎児の状態で人々の心に秘蔵されていること)」、維摩経や法華経にいう「如来の種子(仏種ぶっしゅ)」、大乗の涅槃経に「一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょう(命あるものには皆、仏性がある)」という「仏性ぶっしょう(仏の本性、仏になる因)」である。それはだれの心にもあるのだが、「蓮華は高原の陸地に生じず、卑湿の淤泥に生じる」(維摩経「仏道品第八」)というように、世間の煩悩のなかにこそ、さとりの種子は芽生える。出家の比丘たちは、そのことを認めず、かえってさとりから遠いのであった。

三世十方の仏の国々

 維摩経は壮大な物語でもある。しかし、第十章「香積仏品」の記述などは、あまりに空想的で荒唐無稽だと思われるかもしれない。
 それは文殊菩薩と維摩詰ゆいまきつの論議が進んで正午の食時になるころのことである。維摩詰は一人の金色の菩薩を仮現けげんし、この世界の遥かな上方、ガンジスの砂の四十二倍もの数の諸仏の国々を越えたところにあるサルヴァガンダスガンダ(最上の香りが集まるところ=衆香しゅこう)という国のガンドーッタマクータ(最上の香りの集積=香積こうしゃく)という仏のところへ派遣した。

 その仏の国では、あらゆる香をもって楼閣ろうかくが建てられ、散策の地も苑園も皆、香気に満ち、食堂では天の神々が仏と菩薩らに給仕している。
 維摩詰が派遣した菩薩は、そこへ行って香積仏から鉢に盛った香飯をもらって戻ってきた。その香飯は、維摩詰のところに集まっている者がどんなに食べてもなくならなかった。

 このような仏の国々、すなわち仏国土ぶっこくどの観念も、大乗仏教において非常に発達した。有名なのは阿弥陀如来の極楽国土であるが、維摩経でも第十二章「見阿閦仏品」で阿閦あしゅく如来の妙喜という国土のことが極楽浄土と同じようなイメージで語られている。

 阿閦如来は西方の阿弥陀如来に対して東方に位置する仏である。仏は東西南北・上下その他の十方にガンジスの砂の数より多く、しかも過去・現在・未来の三世にわたって存在し、それぞれの国をもっている。

 では、仏の国とは何なのか。これについても仏教の歴史を見なければならない。
 ゴータマ・ブッダ(釈迦)の滅後、人々は火葬された釈迦の遺骨を塚に納めて礼拝するようになった。それがストゥーパ(仏塔)の起源であるが、インドの風習からすると、きわめて特異なことだった。
 杉本卓洲「仏塔と仏伝と教団」(『新アジア仏教史02 インドⅡ』佼成出版社2010所収)には次のようにいう。

 仏伝によれば、ブッダは涅槃に入る前に、従者のアーナンダ(阿難)の執拗な乞いに応じて、葬儀の方法と仏塔の作り方を教えたという。それは神話的な理想王、転輪聖王てんりんじょうおうの葬法に倣え、というものであった。王墓として造られたことを意味する。(中略)
 葬法は火葬後遺骨を壺に収め、十字路(四辻)に塔(ストゥーパ)を建立し、そこに舎利壺しゃりつぼを埋葬し、祭りを行う、というものであった。当時遺体は野や林などに捨て置かれるのが普通であった。バラモンたちは方形の墓を作ったようであるが、それは維持・保存されることなく、すぐに放棄された。さらに今日見られるように、火葬後の遺骨はガンジス河など水中に投げ入れる方式が一般的である。したがってブッダの遺体に対する葬法や仏塔の建立という方式は、インド文化史上きわめて特殊なものであり、また歌舞音曲を伴う祭りで供養したのも特異である。

「仏伝」は釈迦の伝記のことで、ここではパーリ仏典の涅槃経ねはんぎょう([コラム]ゴータマ・ブッダの病と入滅」をさす。

 釈迦の入滅後の歴史で画期的な出来事は、紀元前三世紀にインドの中北部のマウリヤ朝第三代アショーカ王が初めてインド全体を統一し、仏教を国教としたことだった。
 数々の悲惨な戦争のあとにインド最初の統一王朝の帝王になったアショーカ王は、各地にブッダの栄光をあらわすストゥーパを築いた。また、石造の円柱や岩壁に「アショーカ王法勅」とよばれる言葉をきざんで、仏法によって統治することを宣じた。その石柱の頂上から天下を見下ろすライオンのように、アショーカ王はブッダを諸民族の神々の上におき、ブッダの法を尊重することを条件として、それぞれの神の信仰もゆるされた。

 こうして仏教は帝国の宗教になった。ブッダは、ただ「さとった人」ではなく、世の父であり、人間界のみならず神霊界の神々や鬼神たちをもしたがえて、ダルマ(法)によって世を治めるという伝説の転輪聖王と同じような帝王であると語られるようになった。そして仏教は天下の平安を祈る国家仏教へ展開する。

 それはキリスト教がローマ帝国の国教になることによってヨーロッパ諸民族の王や諸侯に奉じられて教会が建てられたのと同じようなことだった。キリスト教では信徒が集う教会が神の国のモデルとされ、イエス・キリストはロード(王)として主イエスとよばれる。

 天国は神の王国である。そして、キリスト教では唯一の神のもとに神の王国もひとつなのに対して、仏教では諸方に諸仏があり、それぞれに領国をもっている。それが仏国土で、仏土ぶつどとも土ともいう。

 この世界はサハー(娑婆しゃば)とよばれる釈迦如来の国土である。ところが、娑婆世界には多くの苦しみがあり、耐え忍ばねばならないことから忍土にんどともいう。阿弥陀如来の極楽や阿閦如来の妙喜世界は幸福の国なのに、なぜ娑婆世界はそうではないのか。

 この疑問については維摩経の第一章「仏国品」で、バラモンの大神ブラフマー(梵天ぼんてん)がシャーリプトラ比丘に「あなたは尊者でありながら心に高低があって平らではなく、仏の智慧に依らずにいるゆえ、この国土が不浄に見えるにすぎない。菩薩の道においては一切衆生が皆ことごとく平等であり、その深心において清浄である。仏の智慧に依るなら、この仏土は清浄であることがよく見えるであろう」と告げる。
 法華経の第十六章「如来寿量品にょらいじゅりょうほん」で釈迦如来が「世が衰えて、生きる者が皆、大火に焼かれるように見えるときでも、我が此の土(娑婆世界)は安穏であり、神々と善き人々が満ちている」と告げるのと同様である。

 供養と功徳

 インドの仏教は玄奘げんじょうが中国からインドに旅して地誌『大唐西域記』をあらわした七世紀には、釈迦の故地をはじめ各地に寺院が営まれ、何百人もの僧がいる寺院があった。しかし次第に衰退し、十二世紀にはイスラム教徒に寺院を破壊されてインドでは仏教が姿を消すが、今も仏教遺跡が数多く存在する。

 寺院の建立や維持には大きな費用がかかる。それは各地の王や富商をはじめ、多くの人々の寄進によってまかなわれた。寄進者の名が刻まれて残っている遺跡もあり、なかには村人が共同で寄進したという文もある。

 インドの仏教寺院は、野外のストゥーパまたは模擬のストゥーパを安置したチャイトヤ(祠堂)を中心に、僧が暮らすビハーラ(僧坊)を配置する構造になっていた。野外の大ストゥーパの周囲から小型のストゥーパが数多く発掘された遺跡もある。信徒が供養のために奉納した奉献塔である。

 供養くようはプージャーの訳語で、仏教にかぎらずインドの諸宗教で神々に供物をささげたり、聖者に布施したりすることをいう。それによって現世と来世の幸福につながる徳、すなわち功徳を積むことができると考えられた。

 現代のヒンドゥー教でも供養と功徳が信仰の根幹をなすが、古代インドの仏教寺院も、この供養と功徳をうったえて寄進を集め、維持されていただろう。それは現代の仏教でも変わらない。たとえばテーラワーダ仏教(長老派)とよばれる仏教が広まるスリランカや東南アジアの国々では、白く、あるいは金色に輝くストゥーパやブッダ像に多くの人々が花や香をささげて祈る光景が見られる。

 テーラワーダ仏教は聖なるブッダにつながる比丘の霊性を尊重し、比丘の長老を教団の上座に置くことから上座部じょうざぶともいう。信徒は比丘に布施することで功徳を積み、現世の幸福と来世の安らぎを祈る。

 上座部は大乗仏教から見れば小乗になるが、その言葉の印象とは違って大衆的な広がりをもつことは、スリランカやタイの寺院のにぎわいを見れば一目瞭然である。古代インドの仏教寺院でも、同様のにぎわいがあったことだろう。
 じつは古代インドの仏教寺院は「小乗」の部派によって建てられたものばかりである。しかし、そこに多くの信徒が参拝してストゥーパにぬかずき、仏に花や香をささげて供養をおこなった。そこから大乗仏教が生まれたのだろう。

 前掲の杉本卓洲「仏塔と仏伝と教団」には、「仏塔崇拝はブッダに対する敬愛の念を示し、その神格化とともに深められ、広まった。(中略)崇拝するものは心の浄化を得て、天界に生まれること(生天)が約束されたのみならず、さらには悟り(涅槃)を得ること、ひいては現世において仏になること(成仏)さえ保証された。そこには在家・出家の区別がなかった」とある。

 

経典と祭礼

 聖徳太子の「三経義疏」では経典を序・正説(本論)・流通るずうの三部に区分して解釈している。この区分は中国から伝わり、日本でも科文とか科段分けとよばれる詳細な経典の分析が盛んにおこなわれた。今も各宗で受け継がれている。

 序は本論に入る前のプロローグなのだが、一般の読書のように経典を読もうとすると、意味のよくわからない言葉の羅列に戸惑い、入口で挫折してしまうことになりかねない。たとえば維摩経では「そのとき釈迦牟尼世尊はヴァイシャーリーの林園に八千人の大比丘衆と三万二千の菩薩と倶にいた」と始まって菩薩の徳を讃える言葉がつづき、「その名は、等観菩薩、不等観菩薩、等不等観菩薩……」と菩薩の名を連ねたうえ、さらに宝積という信徒が釈迦を讃えて「世尊の目は浄く広々として青蓮華のごとく」等、延々と偈(詩歌)をとなえる。

 勝鬘経でも冒頭部分に「如来の妙色身は世間に与に等しきものなく、無比の不思議なり。ゆえに今、敬礼したてまつる」等、やはり頌歌が連なる。

 このような経典の導入も実際の祭礼のもようを映すものだと考えられる。
 今は沈黙した遺跡でも、そこに僧がいたころには日々に読経の声や楽器の音が響き、香のかおりが漂っていたはずである。釈迦の降誕日などの祭礼には、 大勢の僧が列し、多くの参拝者もあったことだろう。大きな寺院では当然、その規模に見合う大きな法会ほうえがあったはずだ。

 その法会が始まるときには、僧たちがブッダを讃えて招霊と言祝ことほぎのじゅをとなえただろう。そのようすが記されれば、経典の序のようになる。たとえ現実には参列者が少数でも、祭礼のシンボリズムにおいて、「釈迦牟尼世尊のもとに八千人の大比丘衆と三万二千の菩薩がいた」ということになる。

 そして祭礼では、東大寺に伝わる伎楽面ぎがくめんのような仮面をつけた演劇もあり、天界の神々デーヴァ(天)、水界の王ナーガ(龍)、魔王アスラ(阿修羅あしゅら)、歌舞神ガンダルヴァ(乾闥婆けんだつば)などの神々や精霊たちが行進したり、天界の花々になぞらえた花を散らす散華の儀式もおこなわれて、経典で語られているとおりに金・銀・瑠璃などの七宝の楼閣も建ち、きらびやかな幢幡どうばん(旗)も並び立つ。そして経典のむすびの流通部分では、この経典を世に広めるべきことが説かれ、維摩経では次の言葉で終わる。
「仏(世尊)がこの経を説き終えたとき、長者の維摩詰・文殊菩薩・舎利弗・阿難ら、および諸天・人・鬼神と一切の大衆は仏の所説を聞きて皆、大いに歓喜せり」

 勝鬘経も同様で「そのとき、天帝釈、長老阿難および諸もろの大会の天・人・阿修羅・乾闥婆らが仏の所説を聞きて歓喜奉行せり」と終わる。
 釈迦の説法を聞いて神々も人々も非常に喜んだ。法華経では同様の歓喜を述べ、「仏の言葉を受持して礼を作して去りにき(人々は集会しゅうえから帰っていった)」と結ぶ。

 いくらありがたい教えを聞いたとて、この歓喜はなかなか理解しがたいことであるが、これも祭礼の終わりを語るものとすれば納得できなくはない。ハレの日の祭りは、それまでの日常に区切りをつけて新たな日々を再生する働きがある。古代インドの寺院でも、そのような祭礼があったであろう。
 この祭礼を思わせる記述は、とりわけ紀元一世紀頃からの数世紀に発展した大乗仏教の経典に顕著で、インド各地で大寺院が営まれた時期と一致する。

 

最高のさとり

 大乗仏教が興起したころの古代の法会において、ブッダのさとりを讃えて高らかに唱えられた言葉がある。「アヌッタラー・サムヤク・サンボーディ(最高の正しく完全なさとり)」である。漢訳して「無上正等正覚」「無上菩提」等とよばれるが、そのまま音写して「阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだい」と記されていることが多い。ここには「さとり」の内容が大きく変化したことが示されている。

 初期の仏教において、さとりは目覚めであり、ニルヴァーナ(涅槃)もしくはモークシャ(解脱げだつ)等とよばれた。ニルヴァーナは「吹き消す」という意味で、煩悩を滅した境地をいう。ひいては釈迦の肉体的な死も意味し、「入滅」といえば完全な涅槃に入ることである。
 解脱は輪廻転生りんねてんしょうの迷いの生存から脱けだすことをいう。

 ニルヴァーナもモークシャも、古代インドのバラモン・ヒンドゥー教やジャイナ教において修行と信仰の目標とされ、来世は天界に生まれることが願われた。仏教でも涅槃と解脱は強調され、彼岸ひがん(この世の向こうにある静かな岸辺)とか仏界とよばれる世界に入ることが願われる。
 たとえば原始仏典の『ダンマパダ』(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波文庫)には「真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域(輪廻転生の世界)を超えて、彼岸に至るであろう」(第六章「賢い人」八六)という。

 その真理とは「うらみに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」(第一章「ひと組ずつ」五)というように現世の人生訓にも通じる。しかし、『ダンマパダ』には地獄に堕ちる人の記述もあり、来世のことが重大な関心事となっている。過去・現在・未来の因果の時空において語られたことであった。

 そして前掲の杉本卓洲が「崇拝するものは心の浄化を得て、天界に生まれること(生天)が約束されたのみならず、さらには悟り(涅槃)を得ること、ひいては現世において仏になること(成仏)さえ保証された」というように、ブッダへの礼拝を通して「さとり」も神秘の次元に高められていった。

 そのさとりが「アヌッタラー・サムヤク・サンボーディ(阿耨多羅三藐三菩提)」と呼ばれる。それはもはや、みずから修行して得られる次元のさとりではなかった。それはブッダへの祈りの言葉であり、 ブッダを讃えることによって、 その人はサンガ(信仰の共同体)の一員として仏の国に入れられる。
 この「アヌッタラー・サムヤク・サンボーディ」を語義によって「最高の正しく完全なさとり」などと言いかえると、言葉の意味はわかっても、ブッダのさとりがもつという威力がよく伝わらない。それよりも「阿耨多羅三藐三菩提」という異次元的な言葉のままがよい。
 その言葉は平安時代に比叡山で天台宗を開いた最澄が「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち 我が立つそま冥加みょうがあらせたまへ」(『新古今和歌集』「比叡山中堂建立の時」)と詠んだように、略語の「無上菩提」や「正覚」とともに日本の文化に定着した。お寺や家の仏前で読む「お経」にもあり、その響きは読経どきょうの力の源泉ともなっている。

 経典の現代語訳では、そのように定着した経典の言葉を口語に改めすぎないことが肝要である。言葉を失うことは文化を失うことにもつながる。
 とはいえ、馴染みがなく難解な語が多いので、できるだけ仏教語は用いずに口語訳することもやむをえない。本書では原語のサンスクリットによるカタカナ表記を併用して表現した。しかし、肝心なことは言葉の意味がわかっても理解できるものではない。そこで本書ではなるべく伝統的に使われてきた漢訳経典の言葉を用いることにした。

 経典の言葉は、長い歴史をへて和歌や物語、彼岸やお盆などの習俗にも浸透した。なかでも維摩経と勝鬘経は、仏教伝来の初期に伝わって日本の仏教全体の方向性を形成した経典である。
 この二つの経典は、法華経とともに聖徳太子(厩戸皇子うまやどのみこ/五七四〜六二二年)の「三経義疏」によって知られている。「三経義疏」は日本最初の経典の注釈書であり、その後の経典研究の基礎をつくった。

 

聖徳太子の「三経義疏」のころ


「三経義疏」は勝鬘経・維摩経・法華経の品(章)ごとに経文を読み解いていく詳細な注釈書である。『上宮聖徳太子伝補闕記』(平安初期)には『勝鬘経義疏』は推古天皇十九年(六一一)、『維摩経義疏』は同二十一年、『法華義疏』は同二十三年に聖徳太子があらわしたとあるが、おそらく、朝鮮半島からの渡来僧らが聖徳太子の名によって編んだものかもしれない。昔は集団で書いた書物を誰か一人の撰述とすることがよくあった。

「三経義疏」が太子の自著かどうかはともかく、推古天皇の代(五九二〜六二八年)は日本仏教の基礎がつくられた時期であった。その象徴的な出来事は推古天皇二年(五九四)に「三宝興隆の詔」が発せられたことである。『日本書紀』に「皇太子(聖徳太子)と大臣(蘇我馬子そがのうまこ)とに詔して、三宝を興隆せしむ。是の時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競ひて仏舎を造る。即ち是を寺とふ」とある。

 三宝は仏・法・僧のことだが、このばあいは仏教の意である。この詔により初めて天皇によって仏教の宣布が命じられた。それは欽明天皇十三年(五五二)に百済の聖明王から天皇に仏像と経典・仏具が贈られたと『日本書紀』にいう仏教公伝から四十年あまり後のことである。

 仏教公伝のとき、欽明天皇は仏像をどうするかを有力氏族の長らに下問した。
 物部尾輿もののべのおこしらは異国の神である仏を祀れば日本の神々の怒りをまねくといって反対し、蘇我稲目そがのいなめらは「西の国々(朝鮮半島の国々)は皆、仏法に帰依している」と言って賛成した。天皇自身はどちらとも決めず、仏像を蘇我稲目に下げ渡して拝ませることにした。

 以後、仏像を祀るかどうかの争いが起こった。物部氏らの廃仏派と蘇我氏らの崇仏派の争いである。仏像を祀るかどうかで大きな争いになったのは、対立する勢力がそれぞれに味方を集めて同盟関係をむすんだからだ。
 紀元前五〇〇年頃の釈迦の時代からすでに一千年がたち、 先に「三世十方の仏の国々」で述べたように、ブッダは世の父として信仰され、民と国家の鎮護や交易の安全などを祈るものになっていた。この国家仏教がシルクロードの交易都市の王や商人に奉じられて東漸し、朝鮮半島では高句麗こうくり新羅しらぎ百済くだらの三国時代に伝来した。中国では五胡十六国─南北朝の諸王朝分立の時代のことである。

 半島の正史『三国史記』によれば、まず北部の高句麗の王が西暦三七二年に中国北部の前秦の皇帝から仏像を与えられた。その十二年後の三八四年、半島南西部の百済が中国南部の東晋から僧をまねいた。この二国に挟まれた半島南東部の新羅では、日本と同様に廃仏派と崇仏派の争いがあり、王が仏教を公認したのは五二八年である。日本への仏教公伝より少し前のことだった。
 ちなみに「公伝」とは王から王へ公式に伝えられたということである。それ以前にあったであろう私的な伝来とは次元が異なり、国家の大事であった。

 日本での廃仏派と崇仏派の争いは長く続き、用明天皇二年(五八七)、蘇我氏の軍勢が河内にあった物部宗家の本拠地を攻め亡ぼして崇仏派の勝利に終わった。
 この戦いにはまだ少年の聖徳太子も蘇我氏の側で加わり、四天王に祈願した戦勝が成ったことから後に四天王寺を建立する。
 また、蘇我馬子(稲目の子)は飛鳥(奈良県明日香村)に寺院の建立を発願し、推古天皇四年(五九六)に日本最初の本格的な大伽藍をもつ寺院を完成させた。仏法を興隆する寺という意味で法興寺とも元興寺ともいい、現在は飛鳥寺とよばれている。

 推古天皇九年(六〇一)、聖徳太子は斑鳩(奈良県斑鳩町)に斑鳩宮をつくって飛鳥からうつり、同地に法隆寺を建立する。
 推古天皇十二年(六〇四)には元日に官吏の登用制度を刷新する冠位十二階の制を施行。同年四月、官吏の心得を説く「憲法十七条」を定めた。
 そのころは皇族も氏族も血なまぐさい殺戮の戦いを続けた時代だったが、聖徳太子の憲法は戦いを正義とする古代の民族宗教の次元を超えた絶対の正義・道徳を仏教に求めた。第二条に次のようにいう。

「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰(命あるものが最終的に依るべきところ)、万国の極宗(あらゆる国々の根本)なり。(中略)其れ三宝に帰りまつらずは、何を以ちてか枉れるを直さむと」
 推古天皇十四年(六〇六)七月、天皇は聖徳太子に勝鬘経を説くことを請い、太子は三日で説き終えた。この年に太子は法華経を講じ、推古天皇は大いに喜んだと『日本書紀』にいう。

『日本書紀』には、「の年より初めて、寺毎に、四月八日、七月十五日に設斎す」とあり、釈迦降誕会(灌仏会かんぶつえ)と盂蘭盆会うらぼんえが始まったことを伝えている。とはいえ、宮中では中臣氏と忌部氏によって古来の神々の祭祀が引き続きおこなわれ、仏事は寺々でおこなわれたのである。

 その後、中大兄皇子(のち天智天皇)による大化の改新が始まった大化元年(六四五)八月、時の孝徳天皇のもとに僧尼を召し集めて「仏法興隆の詔」が宣じられた。

 この詔は、仏教公伝以来、蘇我氏のほかは仏法をないがしろにしてきたが、これからは天皇みずから皆が寺を建てることを助けるといい、寺司(寺を管理する俗官)と寺主(僧の代表)たちに寺の僧の数や財産を報告させることにした。また、僧尼を教え導き釈教(仏教)を法のごとく修行させるために十人の僧を「十師」に任じ、また、官吏を法頭(僧尼を監督する役職)に任じて官僧の統制をはかった。これが大宝律令(七〇一年)の僧尼令そうにりょうにつながり、古代の鎮護国家の仏法が隆盛に向かう。

 飛鳥・奈良時代の鎮護国家の仏法は疫病退散や五穀豊饒などを祈るもので、今日の家内安全や厄除け祈願などにつながる仏教の基層を形成し、平安時代には神仏習合して社会を動かす大きな力になった。その巨大な文化力=ソフトパワーは、今日、文化財や観光資源の多くが神仏に関わるものであることによって、だれもが実感するところであろう。その初めのころに聖徳太子の「三経義疏」があった。
 ではなぜ、維摩経・勝鬘経・法華経の三経が義疏に選ばれたのだろう。

三経の選択

 花山信勝訳「三経義疏」(「國譯一切經和漢撰述部 經疏部十六」大東出版社一九八一年改訂)の解題には、この三経が選ばれた理由を次のようにいう。

 いわゆる一切経の伝来、その書写ということは、大化改新から後、奈良時代に入ってのことであって、聖徳太子の頃には極めて限定されたわずかの経典しか伝わっていなかったと考えなければならぬ。
 すなわち朝鮮半島の百済、または高麗から渡って来た仏教僧によってもたらされたわずかの経典類であったはずである。(中略)
 その頃の大陸中国と半島朝鮮との交通関係の事情から推定すると、隋以前の梁、 陳に行われた仏教がひろまっていたと考えてよい。(中略)聖徳太子の当時は、勝鬘経維摩経法華経のほかには、華厳経も涅槃経も到来しておらず、またもとより阿含経も般若経も伝来しておらなかったのではなかろうか。(中略)
 したがって三経の選択ということは、中国の南北朝時代に於ける仏教経典研究の結果ということと、当時の交通事情という外的制約とに大いに関係があり、その上で三経の内容が聖徳太子の求めておられるものにまさしく合致したところにあったと解してよかろう。
 
 では、「聖徳太子の求めておられるもの」とは何だったのか。前掲の憲法十七条は朝廷の官吏の心得を説いたもので、僧に求めた心得ではなかった。在家の徳育を仏教に求めたのである。
 そして維摩経と勝鬘経は、徹底して在家信徒の優位を説く。法華経もまた在家主義の強い経典である。そこに「聖徳太子の求めておられるもの」があったのだろうし、日本の仏教の出発点で設置された方向性があった。
 聖徳太子のことは数々の超人的な伝説とともに伝えられ、平安時代には日本の釈迦として崇められるようになる。聖徳太子は実在しなかったという説もあるが、たとえそうだとしても、日本仏教の基に聖徳太子の名がある事実までは否定できない。そして聖徳太子は釈迦が出家して修行したのに対し、生涯、在家のままであった。
 奈良時代には半僧半俗の私度僧が多く現れ、かれらと民衆を率いた行基(六六八〜七四九年)が聖武天皇によって大僧正に任じられ、官僧を含めた仏教界全体のトップに立った。その後、平安時代初頭に最澄と空海が出家と在家の距離を一段と縮め、中世の聖の活動や鎌倉新仏教の開宗などをへて、日本は世界に類のない在家仏教の国になった。
 本書では各章の冒頭に聖徳太子の「三経義疏」を引用したほか、維摩経と勝鬘経がどのように日本の文化に影響したのかをコラムで述べた。

 では、「聖徳太子の求めておられるもの」とは何だったのか。前掲の憲法十七条は朝廷の官吏の心得を説いたもので、僧に求めた心得ではなかった。在家の徳育を仏教に求めたのである。
 そして維摩経と勝鬘経は、徹底して在家信徒の優位を説く。法華経もまた在家主義の強い経典である。そこに「聖徳太子の求めておられるもの」があったのだろうし、日本の仏教の出発点で設置された方向性があった。

 聖徳太子のことは数々の超人的な伝説とともに伝えられ、平安時代には日本の釈迦として崇められるようになる。聖徳太子は実在しなかったという説もあるが、たとえそうだとしても、日本仏教の基に聖徳太子の名がある事実までは否定できない。そして聖徳太子は釈迦が出家して修行したのに対し、生涯、在家のままであった。

 奈良時代には半僧半俗の私度僧しどそうが多く現れ、かれらと民衆を率いた行基ぎょうき(六六八〜七四九年)が聖武天皇によって大僧正に任じられ、官僧を含めた仏教界全体のトップに立った。
 その後、平安時代初頭に最澄と空海が出家と在家の距離を一段と縮め、中世のひじりの活動や鎌倉新仏教の開宗などをへて、日本は世界に類のない在家仏教の国になった。
 本書では各章の冒頭に聖徳太子の「三経義疏」を引用したほか、維摩経と勝鬘経がどのように日本の文化に影響したのかをコラムで述べた。

全文現代語訳 維摩経・勝鬘経

いいなと思ったら応援しよう!