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怒りや憎しみはなぜ手放せないのか――握りしめた手を、少しだけ緩めてみる

新年度の慌ただしさの中で、ふと過去の嫌な記憶がよみがえってくることはないでしょうか。今日は「怒りや憎しみはなぜ手放せないのか」というテーマで、仏教の教えからお話しします。

握りしめると、手が開かなくなる

昔あった嫌なこと、許せないという気持ち、込み上げてくる恨みや憎しみ。なかなか手放せなくて困っているという方は多いのではないでしょうか。私もあります。今でも、怒りがふっと込み上げてくることがあります。過去の自分自身が許せないということもあります。

仏教では、人間の苦しみの根本に「無明」と「我執」があると説かれています。無明というのは、物事や自分自身を正しく見られないということです。専門的な知識がないという意味ではなく、根本的な道理がわかっていないということですね。

そしてこの無明から、愛着が生まれます。永遠にあると思い込むから、しがみついてしまう。ペンをずっと握り続けていると、やがて筋肉が凝り固まって手が開かなくなるように、感情もずっと持ち続けると手放せなくなってしまうのです。

手放さなきゃ、という新しい執着

偉そうに言っていますが、「手放しなさい」と言うのは簡単です。でも実際はそう簡単にはいかない。

厄介なのは「手放さなきゃ」と思うこと自体が、また新しい執着になるということです。持つか手放すか、どちらかの極端に振れるのではなく、必要なら置くことができるという柔軟さを保つこと。
仏教ではこれを「中道」と言います。今は持っていてもいい。でもいざとなったら、そこに置くことができる。そういう選択肢を心の中に持っていることが大事なのだと思います。

先日のセミナーで、終末期の患者さんに寄り添ってこられた看護師の方がこんなお話をしてくださいました。激しい苦痛の中でも、痛みを和らげる薬を自分で選べるとわかっていると、今の苦しみに向き合う力が湧いてくる方が多いのだそうです。選択肢があると思えるだけで、踏ん張れる。深い話だなと思いました。

傷ついた相手に仕返しをするよりも

私がずいぶん前に作ったスライドがあるのですが、最近AIに管理を任せていたら、このテーマにぴたりと合うものを出してくれました。
過去の資料なので忘れてしまっていたのですが、とてもいい感じにまとまっています。

不安はあなたをイライラさせ、
苦しみから逃れるために人を責め、
疲れたときは不機嫌に。
寂しいときはわかってくれないと腹が立つ。
悲しみはときに憎しみになり、
悔しさはときに恨みになる。
虚しさがあなたを自暴自棄にさせる。

傷つけた相手に仕返しをするよりも、
傷ついたあなたの心に手当てをしよう


ここで言いたいのは、
イライラ、人を責める気持ち、不機嫌、怒り、憎しみ、恨み、自暴自棄――これらは表面に現れた「二次感情」だということです。

その奥には、不安、苦しさ、疲れ、寂しさ、悲しみ、悔しさ、虚しさといった「一次感情」がある。二次感情を何とかしようとする前に、まずその奥にある傷ついた自分に気づいてあげることが大事なのだと思います。

二つの「ゆるす」

「許す」という言葉には二つの意味があります。

一つは「許容する」――受け入れるということ。自分が不安を感じている、疲れている、寂しい、悔しい。そういう自分の感情をまず受け入れる。「自分はそんな弱い人間じゃない」と否定するのではなく、「ああ、今つらいんだな」と認めてあげること。これがまず、自分を「許す」ということです。

もう一つは「赦す」――手放すということ。過去の過ちや怒りを水に流し、そこにとらわれず再スタートする。これは自分に対しても、他者に対しても当てはまります。


ただし、有害な相手まで受け入れなさいということではありません。お釈迦さまも、本当に自分のことしか考えていない人は拒絶して教団から追い出されました。

このお話は拙著
心が「スーッ」と晴れるほとけさまが伝えたかったこと
のなかの
「こんな人に関わってはいけない」という重い教え

に紹介しています。


お釈迦さまでさえ、何度も葛藤した

法然上人は9歳の頃、父を殺され、幼い心で仇討ちを誓いました。しかし父の遺言は「恨みに恨みで返してはいけない」というものでした。その言葉に打たれて出家し、救済の道を開いていかれた。

お釈迦さまの過去世にも、こんなお話があります。ディーガーブという王子が、隣国の王に両親を殺され、国を奪われました。王子は復讐を誓い、身分を隠して何年も機会を伺います。そしてついに、敵の王が眠っている隙に剣を抜き、押さえつけた。復讐の瞬間が来たのです。

けれども王子の胸に、両親の教えが蘇りました。「恨みを恨みで返してはならない」。王子はしばし悩んだ末、抜いた剣を地に置きました。すると不思議にも、それまでの激しい恨みは消え、心は晴れやかになっていたといいます。

このお話を「だから恨みを捨てましょう」と結ぶのは簡単です。でも私は、そこに至るまでの葛藤にこそ意味があると思うのです。お釈迦さまのような方でさえ、過去世において恨みに苦しみ、復讐の準備をし、いよいよというところでようやく手放すことができた。何世もかけて、恨みや憎しみと向き合い続けてこられた。

だから私たちも、簡単に手放せなくて当たり前です。その旅の途中にいるのだと思えばいい。

このお話は拙著 とらわれを手放すほとけさまの言葉
親の仇を赦せるか 法然の出家の動機
に紹介しています。

握りしめた手を、ほんの少しだけ

リスナーのある方さんは「少し休んだ方がいいとわかっていても、なかなか休めない」とおっしゃっていました。休むことも、手放すことの一つです。ずっと頑張り続けていると、やめることもできなくなる。勇気を持って休むこと。それは怠惰ではなく、知恵です。

怒りや恨みを完全に捨てきることなんて、人間にはなかなかできません。でもストレッチのように、少しだけ力を緩めてみる。ちょっとだけ横に置いてみる。それでいいのだと思います。

この記事が、握りしめたあなたの手を、ほんの少しだけ緩めるきっかけになれば幸いです。今日もまた、穏やかな一日でありますように。

このお話は、4月21日のライブ法話の一部を記事にしたものです。


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