「『変身』において翻訳の解釈が分かれている箇所」に関してのお知らせ + 翻訳「ゲヴェールトさん」
岡上容士(おかのうえ・ひろし)と申します。高知市在住の、フリーの校正者です。文学紹介者の頭木(かしらぎ)弘樹さんが連載なさっていた「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」の校正をさせていただいており、その関係で、「『変身』において翻訳の解釈が分かれている箇所」という連載も書かせていただいていました。それで私の方では、前記の連載のまとめ的な記事を書こうと思っているのですが、いろいろと忙しく、まだ書けておりません。ですが、年内に何か1つでもと思いましたので、まとめ的な記事の代わりと申しましてはなんですが、既に版権が切れている短編小説の翻訳を公開することにいたします。
私の拙訳に関しましては、これまでに一度だけ、ハインリヒ・マン (Heinrich Mann; 1871~1950) の「仮面舞踏会 (Der Maskenball)」という短編小説の翻訳を公開したことがあります。
(まだお読みでない方で、ご関心がおありの方はhttps://note.com/okanoue_kafka/n/n9301efbc99e1 をご覧下さい)
今回公開する拙訳も、ハインリヒ・マンの作品の翻訳です。彼はドイツの作家として有名なトーマス・マン (Thomas Mann; 1875~1955) の兄であり、彼もまた作家でした。今回に拙訳を公開する作品は「ゲヴェールトさん (Herr Gewert)」です。彼の短編集『彼らは若い (Sie sind jung)』(1929)に、「子供 (Das Kind)」という題名の短編の連作が収録されており、その中の一編です (この点は前記の「仮面舞踏会」も同じです)。わかりやすくするために、原文にはない事柄をあえて訳文として付け加えている箇所が少しだけありますが、ご了承いただけましたらと思います。大昔の作品ですので、今の時代から見ますと地味という印象を受けるかもしれませんが、それなりに味わいのある作品ではないかとも思われます。ただ、かなり長いですから、ご興味がおありの方は、お時間がおありのさいにお読みいただけましたらと思います。
なお、上記の連作の中の「打ち砕かれたバイオリン (2つの話が収録された »Zwei gute Lehren« という短編の中の1つで、これ自体にはドイツ語のタイトルはありません)」という短編は、頭木さんご編集の『絶望書店 夢をあきらめた9人が出会った物語』(河出書房新社)の中に、私の訳で収録されています。
ゲヴェールトさん
ハインリヒ・マン作 岡上容士訳
ゲヴェールトさんは美男子だった。髪の毛は真っ黒で、肌は色白だった。そろそろ中年太りが始まっていたが、彼の体からはいぜんとして、若々しい力がみなぎっていた。服装もしゃれていた。けれども彼は、社交界の紳士たちとは明らかにちがっていた。ぼくは当時、まだ六歳になるかならないかだったが、そんなぼくの目から見ても、通りでの彼の歩き方は、ひどくだらしがなかった。プレッセン領事やぼくの父なら、そんな歩き方は決してしやしない。彼のあいさつのし方は、父たちと比べると、元気が良くていささか大仰(おおぎょう)だった。また、すれちがった女の人をふり向いて見るようなことをするのは、彼ぐらいしかいなかった。彼のこれら一風変わった特徴は、ぼくの注意を大いに引いた。何しろぼくは、ゲヴェールトさんの姿を、毎日毎日目で追うようにしていたのだから。彼は午前中のある時間――「具体的に何時?」ときかれても、ハッキリとは決まっていなかったのだが――になると、ベッカーグルーベ通りの方に曲がってきた。ついでながら、ぼくのうちの子供部屋の窓は、この通りに面していたのだ。それから彼は、通りに沿って数軒だけ下った先にある、花屋の店に入って行った。時によっては、通りをへだててななめ向かいの、劇場の中へと、消えて行くこともあった。彼は、花屋のおかみさんの息子であり、また、市の劇場で芝居をする、俳優の一人でもあったのだ。どちらのこともぼくの知識欲をひどくかき立て、そのために彼は、ぼくにとっては何やら特別な存在のように思われたのだ。
ゲヴェールトさんが、隠居していたブリキ屋のおやじさんの息子であるということは、ありえなかったのだろうか? このおやじさんは、近所の人たちの中でも、一番よくぼくの目にとまる人だった。たいていは長いパイプをくわえて、通りの向かい側の家の窓から、ブラブラと身を乗り出していた。ぼくも知っていたのだが、この家はおやじさんの持ち家だった。窓ガラスには特製の厚ガラスが使われており、家全体は四角形で、油性ペンキで塗られていた。おやじさん自身は、刺しゅうのついた縁なし帽をかぶり、ガウンをはおっていた。もちろんもう仕事はしておらず、いつもパイプをふかしていればいいという、結構な御身分だった。通りに住んでいた人たちの中では、ゲヴェールトと同じくらい強く、ぼくの関心を引いた。それなのにゲヴェールトさんは、この人の息子ではなかった。やはり花屋のおかみさんの息子だったのだ。なぜだかぼくにはわからなかった。ぼくの世話をしてくれていた、お手伝いのミーネも、このわけを説明することはできなかった。彼女はいかにもいなかの出らしく、真っ赤なほっぺをしていた。ある植木屋さんと、近く結婚することになっていた。世間や人間についてのミーネの知識は、貧弱そのものだった。ぼくはまだこのほかにも、いろいろな質問をしたが、ミーネはどれにも答えることができず、ぼくのどの疑問も二人にとって謎としてそのまま残った。ぼくたちのうちは、大通りとベッカーグルーベ通りの交差点から二軒目にあり、正面が大通りに、裏側がベッカーグルーベ通りに面していた。ところが、交差点の角にある小さな家が、うちに入り込む形になっていた。ぼくたちのうちは太いL字型をしていて、大通りとベッカーグルーベをまたぐように建っており、この二つの通りとうちとで囲まれた四角形の小さな土地に、角の家が建っていたというわけなのだ。ぼくは自分の考えの中で、次のようなことを固く信じていた。「ぼくたちのうちを人の体と考えると、角の小さな家は、目にこそ見えないが、うちのおなかの中に入っているにちがいない」と。けれども、うちのど真ん中にあったこの知らない家の玄関のドアが、一度でもいいから開いてほしかった。そうしたら、その家の中にいた見知らぬ子供たちが、ワッと飛び出してきただろうに。でもこんなことは、実際には起こらなかったし、ミーネはぼくのこういう考えを聞くたびに、ますます頭を混乱させてしまうありさまだった。
しかしそんなミーネでも、劇場のことだけはよく知っていると言い張った。市の劇場は、ベッカーグルーベ通りをへだてた、うちの向かい側に建っていた。向かい側というのは、通りのいわば「正面」にあたっており、うちの側よりも建物が密集していた。そこにあった劇場の姿かたちは、ほかの建物とほとんど変わらなかったが、もっと幅が広い点だけがちがっていた。場所的には、ぼくたちのうちからはかなり離れた、ななめ向かいの位置にあったので、ぼくの部屋の窓ガラスの一番はしの方に、グッと顔を押しつけるようにしてのぞかないと見えなかった。同じ向かいでも、大通りから見て手前側、つまりうちに近い側にあった取引所の建物は、劇場よりも楽に見ることができた。それにまた、この建物がそこにあるわけも、劇場に比べると簡単に理解できた。というのも、ぼくの父がいつも、そこへ出かけて行ったのだから。しばらくすると、ほかの多くの紳士たちといっしょに取引所の前の歩道に立っている父の姿が、よく見かけられた。そのあとでぼくたちは、一家そろって昼食をとった。要するに、取引所の建物は、父がわが家に食事をしに帰るための出発点であったのだ。このことだけは、ぼくにはハッキリわかっていた。でもゲヴェールトさんの方は、劇場でいったい何をしていたのだろうか? 「あの人はあそこで、みんなと遊んでいるんですよ」とミーネは言った。けれども、遊びの道具であるおもちゃというものは、ぼくの知っているかぎりではみな小さく、ぼくら子供たちだけのものだった。ぼくのこの知識から考えると、ミーネの意見はどうもおかしく思われた。ミーネの話だと、劇場の建物全体が遊び道具で満ちあふれ、それで遊んでいるのは全部、大人だそうなのだが、まさかそんなことがあるだろうか!
劇場の俳優たちは、取引所の面々からほど遠からぬ歩道上に、かなり長い時間立っていた。どちらも全く同時に集合することも、珍しくなかった。一日一回、こうした小さな集まりができると、通りの静けさは一時かき乱された。そんな中でぼくは、ゲヴェールトさんだけでなく父の姿も、同じくらい気を入れてさがしたものだ。ミーネにはいつもこう言った。「パパはもうすぐ帰ってくるよ。だけどゲヴェールトさんも、もうすぐ、ごはんを食べにおかあさんの花屋のお店に帰るんだよ」と。それから、ここぞとばかりに強く言った。「それはね、劇場があそこにあるからなんだ。劇場っていうのは、大人たちが、ごはんを食べに自分のうちへと出て行くところなのさ。取引所もおんなじさ」。ミーネはこの意見には反対した。ミーネは晩のおそい時間の劇場のようすを話してくれたが、その時間とやらには、ぼくはふだんもう眠っていた。「そのときになるとね、劇場はガス灯で照らされます。大人ならだれでも、中に入れます。中ではいろんなことがあるんですよ」。でも残念ながら、この「いろんなこと」とはどういうことなのか、ぼくにわかりやすく説明する能力が、彼女にはなかった。ぼくの方はそのせいで、毎晩床につくたびに、その「いろんなこと」をあれこれと想像して、こわくなるはめになってしまった。
ミーネはもう、ぼくの部屋から出て行っていた。油に浮かぶ芯から発する、ランプの炎の光は、テーブルやその前の方には、ほんの少ししか届いていなかった。すると突然、暗闇の中からいくつかの人影があらわれて、テーブルのそばをサッと通り過ぎて行った。そのスピードはとても速い。しかも、まだまだ速さを増してゆく。これらは単なる影にすぎなかった。いやそれどころか、テーブルまで達すると、どれもみな、目に見える本当の影ではなくなって、「何かが走っている」ということをぼくに感じさせるだけのものになってしまった。けれども、「やつらは本当にここにいるんだ」というぼくの確信は、ゆるがなかった。やがてスピードが最高に達すると、全部がたった一つに溶け合ってしまった。なんとそれはゲヴェールトさんだったのだ! 三日目か四日目の夜になると、このことがぼくにはハッキリしてきた。だけど、彼自身の姿を、この目でしかと見たというわけではなかった。彼(らしい空間)はずっと暗い色をしていて、しかも暴れ者であり続けた。ぼくの部屋をグルグル回って行くようすは、人間というよりもむしろ、巨大な怪鳥を思わせた。顔は決して見せなかった。着ていたマントからして、顔を隠していた。これはただのマントではなかった。大きな布きれみたいだった。また、見ようによっては、あたりの暗闇の一部が布状に切り取られて、彼のまわりをすき間なく取り巻いているようにさえも見えたのだ。彼は、そのマントのあわせのところを、片手でしっかりとつかんでいるようだった。体で言うと胸のあたりだったが、そこから青白い光がピカッと発せられた。何をつかんでいたのだろう? 手が真っ暗闇の中で光るなんて? ぼくはベッドから身を起こした。ゲヴェールトさんの姿を、ちゃんと確かめようとして。でもそれは、どうしてもさせてもらえなかった。にもかかわらずぼくは、それまでの考えに自信を持っていた。おまけに、「ぼくはもうこわくない。あれはゲヴェールトさんだってことが、ちょっと前にわかったじゃないか。それからはもう、こわくなくなったんだ」と気を強くしていた。ぼくはしだいに、夜の彼のお出ましを、ワクワクしながら待つようになっていた。ぼく自身の楽しみとして。また、彼への友情を胸にいだいて。ぼくが彼の姿を見るのに飽き、彼も彼で、ぼくのために演じでくれることに飽きてくると、ぼくたち二人は別れた。彼は姿を消し、ぼくは深い眠りについた。しかし、これらの出来事については、両親には決して話さなかったし、ミーネとの間でさえも、話題にしなかった。
中で劇が演じられている向かいの建物に、ぼくの気がとても引きつけられているのを、両親はもちろん知っていた。ぼくが花屋の息子に興味をいだいていることも知っていた。ぼくの空想が、あまりにはたらきすぎているとでも思ったのだろうか? ある日のこと、両親は、いっしょに劇場へ行こうとぼくに言った。より正確に言えば、ぼくがもう夕ごはんを食べていたときに、母がぼくに伝えたのだ。興奮を呼び起こすさまざまな空想の中にひたった生活を、ぼくがこれ以上長く続けるのは、母にとっては好ましくなかった。その母の期待どおり、ぼくは喜んだ。とは言っても、母が期待していたほど大げさには喜ばなかったけれど。今夜、向かいの劇場でゲヴェールトさんに会えるとすれば、ぼくの部屋で彼にお目にかかることは、明らかにできなくなるだろう。どっちを選ぶべきか、しばらく迷っていたが、母がすっかり身じたくを整え、長い手袋までもスルッとはめているのを見て、ようやく決心がついた。とてつもなくすごいものが目の前に迫っているという意識を、持つようになったのだ。ぼくはからだを洗ってもらい、一番いい洋服を出してもらった。ミーネもはでな洋服を着ていた。ぼくの心臓がいよいよドキドキし始めたちょうどそのとき、父がいつものようにあわただしく入ってきて、みんなにたずねた。「もう用意はできたかい?」
ぼくたちは馬車に乗り込んだ。劇場までの道のりはごくわずかしかない。子供の足でさえ、しれているくらいだった。ところがこの夜は雪がひどく積もっており、街灯はところどころにしかなかった。ベッカーグルーベ通りは、かなり急な下り坂だった。そのため、御者のエーマンさんは、たいそうのろのろと進めて行った。ぼくはひっきりなしに、「ぼくたち、まだ間に合うの?」ときき続けた。ぼくの不安は高まってきた。だってぼくには、この通りがいつもの道だとは思えなくなっていたのだから。こんなに遅くなってから外へ出たことは、ただの一度もなかった。エーマンさん、ちがった道を行ってるんじゃないだろうか? けれども、ぼくたちはやがて劇場の入口に着いた。まだほかの人たちもぞくぞくやって来ていたが、ぼくには信じられない光景だった。ぼくの両親は、その人たちのほぼみんなに、あいさつをして回った。ぼくも紳士や婦人たちに、手を差し出さなくてはならなかった。そればかりか、何度も何度も、おじぎをさせられた。ぼくが心の中で期待していたことも、こうしている間はすっかり忘れてしまっていた。みんなで階段を上って行くようになって、また思い出してきた。ぼくたちがすわったのは、聞いて知ったところによると、さじき席という席だった。ぼくの席は、そのさじき席の前のはしの手すり――このときにはもう、その上のカーテンも開いていた――に、できるだけ近い位置に決められた。母は、ぼくがその手すりから身を乗り出さないようにと、ぼくの腕をギュッとつかんでいた。もっとも、ぼくはすぐにむりやり身を乗り出してしまったが。さじき席の赤い布張りの手すりを、ぼくの目はずっとたどって行った。それでわかったのだが、この手すりは、劇場をグルリと取り巻くように続いていたのだ。手すりの後ろには、いくつものさじき席が、ぼくたちのそれと同じく、カーテンを開いた姿で見えていた。これらのさじき席の部屋の壁も、手すりと同じく赤い布張りだったので、ぼくたちの部屋の壁が赤いのも納得できた。「ゲヴェールトさんはどこ?」と、ぼくは一生懸命たずねた。
これにはなかなか答えてくれず、ぼくはこの問いを何回もくり返した。父も母も、隣りにすわっていた人たちと話しこんでいた。ある老紳士は、ぼくが外で会ったらあいさつをしなくてはいけない人の一人だったが、その彼が仕切り囲いの上からかぎ鼻を突き出すようにしてこちらへ顔を近づけると、うすいくちびるを動かしてこうたずねた。
「それじゃあ坊やは、『グラナダの夜営』っていうのを見たいのかい?」
ぼくは、「ゲヴェールトさんを見たいんだよ」と答え、「どこにいるの?」と逆にたずねた。
「ゲヴェールトさんはきっと出てくるよ」。その老紳士とぼくの両親は、順番に同じことを言った。でもぼくは満足できなかった。
ついに、「ゲヴェールトさんはどこにいるんだよお!」と大声でどなってしまった。
みんなはぼくを落ち着かせようとして、まだしまっていた舞台の幕を指さしたが、ぼくの考えでは、ゲヴェールトさんがその後ろにいるなんて、ちょっとありえなかった。この調子では、彼の姿を見つけることは、とてもおぼつかなかっただろう。そこでぼくは、自分一人でみつけてやろうと必死になった。あたりの赤いさじき席には、たくさんの人が入っていた。前の方にはたいてい、襟(えり)が深くあいたドレスを着た婦人が二人すわっており、せんすでパタパタとあおいでいた。おかげでその後ろの紳士たちの姿は、ぼくには見えにくくなってしまっていた。おまけに、手すりの下の方にあるガスランプが、ギラギラとせわしない光を放っていて、その光に照らされたさじき席のお客さんたちは、さながらショーウインドーの中の人形といったところだった。ただ、何人かの人たちは、場所の関係で全く照らされなかったけれど。こうして、人形のようなお客さんたちの姿が、そこここできらめいていた。と突然、ある人の顔の横半分が、ギラッと光った。あっ! でもそれはゲヴェールトさんではなかった。天井から下がったシャンデリアは、球形のランプがたくさんつながり合ってできていた。これも黄色い光をふりまいていたが、その光もさじき席の奥の方までは届かなかった。今さっき半分だけ見えた顔は、まだギラギラ光っていたが、見知らぬ顔だった。一方、少し遠くでは、別の紳士が、連れの婦人の席の後ろに、腰をややかがめて、いかにもだるそうに立っていた。その人の姿は、下はひざ、上は大きなネクタイをつけた折り襟のあたりまでしか見えなかった。顔は少しも見えない。それなのに、「この人はゲヴェールトさんだ!」というカンみたいなものが、ぼくの心をグイととらえてしまった。ためらうことなく、ぼくはみんなにこのことを告げた。
かん高い声で、「ゲヴェールトさんだよお!」と叫んだ。
父も母も、「静かになさい!」ときつく言った。ぼくは自分の発見を両親に確かめてもらいたかったのだが、二人はぼくにだまってほしかった。ミーネ! そうだ、まだミーネがいたじゃないか。今どこにいるんだ! 混乱した頭の中で、ぼくはやっと気がついた。さじき席に入ってから、ミーネのことはもう、眼中になくなり、彼女の存在さえも忘れてしまっていたということに。こんなになったのは、生まれて初めてだった。「ミーネ!」。この叫び声は、ひときわかん高く、しかも不安げにひびいた。母はこれに答える代わりに、「うちに帰らせるわよ!」とぼくをおどかした。けれど、ぼくが途方に暮れてただただ泣くのを見て、さすがにかわいそうに思ったのだろう、こう説明してくれた。「ミーネはね、上の二等席にすわってるのよ」。二等席! ぼくの注意がそんな席に向けられたことは、このときまで一ぺんもなかった。まっすぐ上を見上げると、ミーネの顔を見つけた。ミーネは顔を精一杯、下に突き出し、ぼくも自分の首を一生懸命、上へ伸ばした。ぼくたち二人は、それまでの別れとこの瞬間の再会を思って、胸がときめいた。だから、お互いの名前を何度か、大声で呼び合った。ぼくはこれに続いて、「ゲヴェールトさんが見つかったよ!」とミーネに教えてやった。ミーネだけはぼくの言うことを信じてくれた。口の動きが、明らかに「賛成」を表していたのだ。あいにく急に騒がしい音楽が始まり、ミーネの言葉は聞き取れなくなっていた。ほどなく、母の手がぼくを席に引き戻した。
ぼくはすっかり興奮して、今何が始まるのかたずねようとした。
「もう音楽が聞こえてるでしょ、静かにしなさいってば!」
「でもゲヴェールトさんが!」
「あの人はまだ出ませんよ」と母は言った。
それから、「今、ゲヴェールトさんはね、茶色い顔をこしらえているところなんだよ」と、ぼくの後ろで父がささやいた。
この言葉を聞いて、ぼくはだまってしまった。あまりに謎めいた言葉のように思えたので、質問をすることすらもできなくなってしまった。もう白い顔をしていないゲヴェールトさんなんて? 絵本に登場するムーア人みたいな、茶色い顔をしたゲヴェールトさん? 不思議だ。どういうことなんだ? けれど、まだまだ不思議なものを見せてやるとでもいうように、舞台の幕が開いた。ぼくはこの幕を壁とばかり思っていた。まさか開くなんて思いもよらなかった。でもそれは、スルスルと巻き上がって行き、そのあとにすばらしく美しい世界が出現した。ぼくはしばし声も出なかった。この世にこんな美しいものがありうるなんて、とても信じられなかった。何が何だかわからなかったのだが、この美しさにだけは圧倒された。もしかしたら、こうしてわけがわからなかったからこそ、こんなに美しかったのかもしれない。でも理由はほかにもあった。それは、ぼくみずからその世界へ行ってみたいという気持ちが、それを一目見たとたんに、ぼくの心の中に――いささかおっかなびっくりとは言え――わき起こったほどだったから。そのぐらい美しかったのだ。遠景がようやく目に入った。ずっと見続けているうちに、それはどんどん遠くなってゆくように思えてきた。舞台の幕は幕で、いつなんどきまた閉じても、おかしくはないように思われた。舞台に人がいるのにも、むろん気がついていた。彼らは動き回っていたから。でも、それはぼくたちとはちがう人たちだったし、動きもぼくたちのそれとは全然ちがっていた。ぼくは口をポカンとあけ、まばたき一つしないで、見るもの聞くものすべてを、自分の心に受け入れた。どれもまだ、ハッキリわからぬままではあったが、それだけになおさら強く、ぼくの心をとらえたのだ。
「あの人たちの歌、すてきでしょ?」と母がたずねた。
彼らが歌っているということさえ、ぼくにはまだわからなかった。ひどく心配になってきて、こう質問した。「あの壁、またしまるの?」。母の答えは聞きのがしてしまった。そのとき歌っていた一人が、ゲヴェールトさんだとわかったから! 突然ぼくはまた、まちがいないと信じた。さっきの顔が見えなかった紳士のときと同じくらい強く、確信した。
「ゲヴェールトさあん!」と声をはり上げた。
音楽の音が大きすぎて、ぼくの声は彼の耳に届かなかった。しかし少なくとも、ぼくのまわり全体には、ゲヴェールトさんを見つけたことを知らせたかった。両親には伝えたし、上にいたミーネにも、教えてやらなくてはいけなかった。
「静かになさい」と母は、ささやき声ながらきびしい口調で言った。そして、ぼくの両肩をおさえつけて、「あの人はちがうのよ」と、またささやいた。
「ばかだなあ。泥棒たちの顔を一人ずつ、よく見るんだ!」と今度は父が言った。
父がこう言ったとき、泥棒たちは舞台のどこにいたのだろう? 彼らはこのお芝居のすぐ始めに出たのか? はたまた、第二幕になってから初めて、登場したのだろうか? でもこれらは、いま現在になってからしか出せない疑問なのだ。当時のぼくは、まだ小さな子供だったから、物事の進む正確な順序なんて、まだチンプンカンだった。子供の目から見ると、何もかもが同時に起こっていた。でも子供は子供なりに、すごい熱心さで、泥棒たちの顔を見ていった。彼らは、明らかによからぬたくらみを心にいだいて、眠っている一人の紳士にこっそり近づいていた。ゲヴェールトさんがその中にいるなんて、だれが考えられただろうか? 彼が泥棒だったなんて! その彼は、後ろの暗がりから忍び足で出てきた。マントで顔の下半分を隠すようにしていたが、それでもまちがいなく彼だとわかった。このマントは、何か異様な感じで彼の体をおおっていた。大きな布きれみたいに。あるいは、暗闇そのものの切れはしのように。彼は片手でマントの両はしをつかんでからだの前で閉じていたが、その手には何か別のものもにぎられており、それが青白く光って見えた。次の瞬間、手がサッと突き出され、ナイフの刃がきらめいた。
「あれはナイフなの?」とぼくは、こんどは小声でたずねた。
「短剣っていうのよ」と母が答えた。
このときぼくにはピンときた。「こんなことはみんな、ぼくの部屋の中で、ぼくが眠りにつく前の時間に、もうたびたび起こっていたのだ」と。しかもゲヴェールトさんは、単に泥棒だっただけではない。自分の仕事が何なのか、ぼくに教えてくれようともしていたのだ。夜になると、ぼくのベッドに近づいてきていた。もっぱらベッカーグルーベ通りの側からと思っていた。でも、彼は通りからやって来たのではない。もっと遠くからやって来たのだ。大胆な、それでいてどこか暗い感じの人だった。冒険と童話の雰囲気が、いつもまとわりついていた。ふだん、ぼくの部屋には入らずに、窓の外をただ通り過ぎて行くだけのときでさえも。そんな彼が舞台で本当の姿を見せてくれたこのときになって初めて、彼のことがすっかりわかった。彼の美しさも、元気のいいあいさつも、プレッセン領事やぼくの父とはちがうさまざまな特徴も、ぼくにはよく理解できた。彼をぼくと比べたらどうだろう? ちがう点は何もないようだった。ぼくの目がたえず彼を追い続けているうちに、いつのまにかぼくは彼と結びついてしまい、二人は一心同体みたいになっていた。彼の動きはどれも、ぼく自身の運命にほかならなかった。ただ、彼は歌を歌い、ぼくは何も言葉を発しなかった点だけがちがっていた。彼はほかの泥棒たちといっしょに歌っていた。これでは、彼らが侵入していた寝室で寝ていた紳士は、すぐにも目をさましそうなものだったが。この人が目をさますことを望むべきなのか、恐れるべきなのか、ぼくには見当がつかなかった。ぼくの考えでは理解しがたい出来事が、――いいことなのか悪いことなのか、それさえもわからなかったが――ともかく起ころうとしていた。ぼくは、これが近づいてくるがままにしておいた。息を殺して運命に身をゆだねていた。
それなのになんと、泥棒たちは、何もせずにそのまま引きあげ、逃げ去って行ったのだ。ゲヴェールトさんが一番しんがりだった。ぼくは、「あの人はぼくを見てくれた。逃げる前に見せたお別れのウインクは、ぼくへのものだったのだ」と信じたかった。と、そのとき、ぼくの感情がついに爆発した。ここは劇場なんだとか、人がいっぱいいるんだとかいう考えも、チラと浮かびはしたが、感情の爆発はもうおさえようがなかった。
「ゲヴェールトさあん!」とぼくは、去って行く彼に向かって金切り声で叫んだ。彼にもう一度出てきてもらいたかったから。劇場のお客さんたちにも、助けてほしかった。それで彼らにも呼びかけようとした。父はぼくの腕をつかみ、母は口をおさえにかかった。ぼくはそれでもなお、こうした妨害に必死で抵抗し、ゲヴェールトさんに向かって叫び続けた。その声は、音楽が流れていたにもかかわらず、劇場じゅうにひびきわたった。あちこちのさじき席から、いくつもの顔が突き出され、ぼくの方をのぞき見た。みんな笑ったり、ブツブツ文句を言ったりしていた。ぼくはやはり、度を超してしまっていたようだった。とうとう両親は、たった一言、「来なさい!」と命令した。ぼくはやけくそになって、自分の席の上をころげ回ったが、力ずくで引っぱり出された。ドアがバタンとしまり、ぼくはドアの外にひっくり返っていた。
ミーネはもう、そこにいた。まだ抵抗していたぼくを床から起こそうと、大わらわだった。手足をやみくもにバタつかせるのをいったんやめてしまうと、今度はぼくの目が、あたりのようすをやけ気味に調べ回った。入口の後ろには、父と母が、情け容赦のない鬼のような形相をして立っていた。でもゲヴェールトさんは? ゲヴェールトさんはいなかった! これを知ると、はげしい感情が、またまた火のようにわき出てきた。ミーネがぼくに注意した。
「あんまりわがままをおっしゃるもんじゃありません! こんなになったのもみんな、ぼっちゃんのわがままのせいですよ!」
こんな言い方でぼくをたしなめたのは、ミーネの頭の中では、ごく単純な言葉が、ひどく込み入ったさまざまな出来事の説明になっていたからだ。このときのぼくは、力のない子供としてその場にひっくり返っていた。ぼくのすばらしい体験は、途中でじゃまされた。自分と一体になっていたゲヴェールトさんからも、引き離された。ぼく自身が心の中に築き上げたお城までも、こわされてしまった。だれか見知らぬ人が、ぼくが苦労して作ったトランプの城に、無情の指を突き入れたかのように。ぼくは不幸だった。でも、自分のためだけに苦しんでいたのだろうか? いや、ゲヴェールトさんのためにも苦しんでいたのだ。彼は、世間一般に言う「苦しみ」とは何かをぼくに教えてくれた、最初の人だった。そう思うとまた、手足をバタバタさせだし、ミーネは再び、ぼくの強情さをなげくはめになった。
しかしいきなり、ぼくは自分の意志で立ち上がり、ミーネといっしょに歩き始めた。のみならず、だんだんスピードをつけていった。「ゲヴェールトさんはやっぱり逃げちゃったんだ」という考えに、しっかりととらえられていたから。けれど、彼が逃げていて、おそらく今も走り続けているとしたら、いったいどこへ向かってるんだ? 劇場から遠ざかっているのだけは確かだ。すると、確実に通りを上っている。それは、彼がいつも行き来している道だ。ただ今度だけは、もうこちらへ戻ってきはしない。身をすっぽり包むようにコートをまとい、襟は目の下まで引き上げている。ひと足ひと足と進むごとに、彼の姿は暗闇のかなたへと消えて行き、まもなく見えなくなってしまう。ゲヴェールトさんを追え、追うんだ! ぼくの心は希望であふれてきた。こわれていたトランプのお城も、いつのまにかひとりでに再建されていた。
ぼくの手をにぎっていたミーネは、逆にぼくに引っぱられた。ぼくたちは階段を下りて劇場をあとにし、雪の道を進んで行った。
「速く!」とぼくはうながした。「ゲヴェールトさんが逃げてるんだぞ」
ミーネはそれを否定しようとしたが、ぼくは耳を貸さなかった。ほどなくミーネも、自分の言葉よりぼくの言葉を信じるようになってしまった。それはミーネがこう言ったとき、明らかになった。
「ゲヴェールトさんは、ぼっちゃんより速く走れますわ、きっと」
よし、やつと競走させる気だな。ぼくはいよいよ足を速め、ひた走りに走った。ミーネもあとからついてきた。ぼくの手はもう離していた。このときのミーネの頭の中には、自分がころばないように気をつけることしかなかった。それでもぼくたち二人は何回か、ツルツルの道に足をすべらせて倒れた。起き上がるときは、お互い無言だった。ミーネが口をきかなかったのは、真剣に熱中していたからこそだった。でもぼくの方は自分なりに、「ここで泣いちゃだめだ。泣いたりしたら、ミーネがぼくをうちに連れて帰っちゃう」と頭を働かせていた。交差点にさしかかり、わが家の方向へ進んで行こうとした直前に、ぼくは、うちとは反対の方向をキッパリと指さした。
そして、息をはずませながら、「あそこだ! あそこを走ってるよ!」と声をかぎりに叫んだ。
ぼくは本当に、ゲヴェールトさんのマントを見たのだ。それはヒラヒラと風に舞っていた。と言っても、弱々しいガス灯の光の中に浮かび出て、また暗闇に消えるまでの、ごくわずかな瞬間しか見れなかったが。ミーネもこれを見たにちがいない。ぼくの言葉に少しも反対しなかったから。けれど、ぼくたちがかたく盛り上がった雪につまづいてころぶに及んで、ミーネは初めて疑いだした。
「たぶんあの人だったんでしょう。でも、ぼっちゃんはもう、あの人をつかまえられやしませんよ」
これに答える代わりに、ぼくはまた走った。ところが、ミーネがぼくを追い越した。いっしょに走っているうちに、ミーネのプライドと好奇心が呼びさまされ、今やぼくを追い越して走らせるほど、大きくふくらんでいたのだ。ぼくはただひたすらがんばった。これまでの二倍も。ぼくたちのかけっこの間じゅう、だれにも会わなかった。とうとう二人ともスピードがにぶってきて、ハアハアあえぎながら顔を見合わせた。しかし、引き返そうという考えは、どちらの頭にもなかった。やがてついに、市の門まで行き着いた。ぼくとミーネは、そこで立ち止まったまま、しばらく動かなかった。向こうの暗闇を、ぼくはのぞき込んだ。なんだか恐ろしい感じがした。通りの並木も、見えたと思いきや、突如として深い闇におおわれてしまった。広い草地のはしには家が何軒かあるのをぼくも知っていたが、このときには真っ黒な空が広がっているばかりだった。黄色く点々状に見えた遠くのあかりは、「とてもあそこまでは行かれない」という絶望感を、つのらせるものでしかなかった。ぼくはわれ知らず引き返していた。
「ぼっちゃんは今、こわいんでしょ」とミーネは、いささかいどみかけるように言った。
ぼくは弁解ぎみに、「ミーネだって」と答えた。ミーネはむきになってこう言った。
「前になんども、あたしは野菜用の荷車に乗って、この道を通ったことがあるんです。夜中にですよ。それも、ぼっちゃんぐらいの年でね」
ぼくを完ぺきにはずかしめようと、ミーネは背筋をしゃんと伸ばして、門から数歩進み出た。だが、また引き返した。
「やっぱりもうダメですよ」と、ミーネは言った。このとき、ミーネの心の中に、義務感がまたよみがえった。ぼくはもう、抵抗しようとするでもなく、ただ泣いた。
「もっとお泣きなさいよ!」とミーネは軽べつするように言った。「ぼっちゃんがわがままばかりおっしゃるから、こんなことになるんですよ」
ここでミーネがこのいやな言葉を口にした目的は、ふだんならぼくがとっくに寝ていなければならない時間に、ぼくたち二人がどうして市のはじっこなんかにいたのか、きちんと理解させるためだった。ぼくはこの言葉では実際何一つ説明されていないと感じていたが口には出さず、泣きに泣き続けた。こうしてぼくたちは家路についた。ミーネはぼくの手を引っぱって、先に立って歩いて行った。ぼくはされるがままになっていたが、自分の意志で進もうともしていなかったため、ミーネにはかなり重たく感じられたことだろう。なぜ、ぼくはこうしたのか? 一つは、このときはもう、ゲヴェールトさんには近づいておらず、逆に遠ざかっていたのだから。もう一つは、恐ろしい暗闇の中で、ゲヴェールトさんばかりかぼくたちも危険にさらされていると知るや、彼に追いつくことはあきらめてしまっていたから。彼はこの瞬間にも、闇の中で、正体不明のあらゆる恐ろしいものにおびやかされていたのだろう。しかし、ぼくはその正体をおそるおそる見てみる勇気さえもなかった。ゲヴェールトさんは、「追われる影」として、不安に満ちた暗闇の中をさまよい、奥深くへと迷い込んでしまっていた。ぼくからは完全に離れていた。彼はぼくの想像力の限界を超え、ぼくの前から消えてしまった。これはみんな、ぼく自身のせいだった。しかも、この悲しい事態を元に戻すことは、もうだれにもできなかったのだ!
だけどミーネは、ぼくの苦しみの計り知れない深さを、わかってくれていたのだろうか? ひょっとしたら、自分のことしか心配していなかったのかもしれない。それだからこそ、やさしい言葉をいろいろ言って、ぼくのきげんを直させようとしたのではないか。いずれにしても、ミーネがだんだんやさしくなり、しまいにはほとんど友だちみたいに接してくれたのは事実だった。
「いいですかぼっちゃん、おとうさまとおかあさまがお帰りになる前に、ベッドに入っておしまいなさいね。そうしないと、大変なことになりますから」
ミーネのやさしい忠告がはげみになって、ぼくも自分から歩くようになった。やっとのことで、ぼくたちはうちがある交差点の近くまでたどり着いた。ところが歩いているうちに、ぼくはミーネの忠告をすっかり忘れてしまい、またすすり泣きを始めていた。それでもまだ足らず、ミーネにまた引っぱられまいと力のかぎり抵抗し、さらに大声で叫んだ。ミーネは、ぼくの抵抗よりも叫び声の方に当惑し、ぼくを連れ帰る行動を一時やめてしまった。このことを見抜いたぼくは、よけい声をはり上げて叫んだ。
「ぼっちゃん、そんな大声を聞いて、町の人たち、どう思うでしょう?」とミーネは心配そうにささやき、静まりかえった家々と、通りにしゃがみ込んでいたぼくとを、代わる代わる見つめた。
そして、「まだ何がやりたいっておっしゃるんですか?」とたずねた。
ぼくにもそれはわからなかったので、答えは思いつかなかった。ミーネは胸の前で手を組み合わせた。まるで、おいのりをするようなかっこうで。そうして気持ちを集中させたために、正しい言葉が口から出てきた。決めつけるようにこう言ったのだ。
「全部まちがいだったんですよ。ゲヴェールトさんは、はじめっから逃げてなんかいなかったんです。なぜ逃げなきゃいけないんですか?」
「泥棒だからさ」とぼくは答えようとしたが、ミーネはこれをさえぎった。
「あの人は花屋さんにいる人です。それから、ぼっちゃんは今はベッドにいなくちゃいけない人なんです」と、またきびしく言った。
彼女の強い口調が、再びぼくの心を打つようになってきた。ぼくは立ち上がり、ミーネといっしょに、大通りの、うちの入口がある側へと歩いて行った。けれどもそこにくると、角の小さな家の見なれた壁に体をくっつけて抵抗した。この家がわが家に入り込んでいるさまは、いつ見ても謎だったが、「謎はもっともっとたくさんあるじゃないか」と、ちょうどこのときに思いついたのだ。どんなに印象に残る言葉でも、すべての謎を解き明かすことができるとは限らないのだから。
「そんなのウソだ」と、ぼくはキッパリ答えた。「ゲヴェールトさんは花屋なんかにいない。走ってるんだよ!」
でも本当は、こう言ったこのときになって初めて、ぼくも疑いを抱くようになった。ゲヴェールトさんであれ、だれであれ、こんなに長く走れるものだろうか? ミーネへの言葉がしっかりしていたのも、実は、困惑し始めていた心の内を隠すための方便だったのだ。ミーネの頭は単純だったので、ここまでは見抜けなかった。それにミーネ自身、いろいろ心配していたこともあって、気がせいていた。
「ぼっちゃん、わたしにしてもらいたいことが、ほかにもあるんですか?」ともらすように言うと、なんとベッカーグルーベ通りを駆けおり始めた。これにはぼくもびっくり仰天した。だって、ぼくたちのうちからも、そしてぼく自身からも、ずんずん遠ざかって行ったのだから。わけがわからないまま後ろ姿を見送っていたが、一人でそこにいるのもこわかったので、ぼくも走りだした。ようやくミーネに追いつくと、むこうも立ち止まった。そこはゲヴェールトさんのおかあさんがやっていた、花屋の店の前だった。
ガラスとびらの後ろの、花屋の店の中は、真っ暗だった。ミーネはガラスをトントンとたたいた。ぼくたちはじっと待った。ミーネはさらに強くたたいた。すると、店の奥にあったドアが開き、年とったおばさんが、顔をこちらに向けた。ぼくたちの姿を確かめようと前かがみになってはいたものの、奥の部屋の入口にずっと立ったままでいたため、こちらからその部屋の中は見えなかった。ぼくたちの姿は見つけられなかったので、身をひるがえして、ランプを取りに奥のテーブルの方へ行った。そこには別のだれかが腰かけていた。おばさんはランプに手を伸ばしたが、それをまだ手に取らないうちに、ぼくの目はゲヴェールトさんの姿を認めていた。彼はテーブルのところに腰かけて、食事をしていたのだ。
そんな彼は、もう泥棒ではなかった。毎日毎日通りを歩いていた、いつもの彼に戻っていた。ここでぼくが見ていた彼からは、特別なことは何一つ感じられなかった。むしろ、これまで以上に平凡な感じがした。どんな冒険をも、戦い抜いてきたわけではなし、どんな童話の世界にも、遊んできたわけでもなかった。ぼくはこの点を認めざるをえなかった。いかなる敵も、いかなる迫害者も、ぼくたちがさっき見た遠い暗黒の世界に、彼を追い立ててはいなかったし、彼自身もそんな世界の出身ではまずありえなかった。これはまちがいないことだと、ぼくは自分に言い聞かせた。静かに食事をしているゲヴェールトさんを見ているうちに、ぼくの興味はすっかりさめ、心は悲しみであふれてきた。けれども同時に、前よりも気分が軽くなった。どっちにしても、ぼくの姿を彼に見られたくはなかった。彼のおかあさんが、ランプを手に店の中へ入ってきたときには、ぼくはもう帰途についていた。
走りはしなかった。それでもいくらか急ぎはしたけれど、ある程度の誇りを胸に、その店を離れた。このときの自分の考えを正しいと感じていたから。ゲヴェールトさんは、舞台やぼくの部屋でこそ、奇怪な泥棒を演じていたが、本当はそうではなかったのだ。ぼくはこの夜、いやこの夜ばかりか、それまでに彼がぼくのベッドをひそかにたずねて来てくれたいく晩もの間、ずいぶんいろいろと体験をし、悩んでもきた。でも、こんな役割を果たすことは、本物の彼には荷が重すぎたのだった。そこでぼくは、「あの人は、ぼくが思ってたような人じゃなかったんだ」と思った。でもこれは、今考えてみると正しくなかった。彼のような俳優たちはいつも、人に夢を与えたり、人を悩ませたりしているのだ。
ぼくはやっとわが家に帰り着いたが、すぐには中へ入らず、玄関の前の石だたみのすみに、背中を外へ向けてしばらくかがみ込んでいた。人が見たら、自分の罪を反省しているように見えたかもしれない。ミーネはぼくより少し遅れて着いた。
そして、「ぼっちゃんもあの人を見たでしょ?」と、声をひそめながらも、おこった調子でたずねた。ミーネの方もいい気持ちではなかったからだろう。それから二人して、ぼくの部屋に帰った。その間、父や母には会わなかった。両親がいなかったのをいいことに、ミーネはぼくにさんざん非難をあびせた。ぼくは、服を脱がせてもらっている間じゅう口をきかず、非難には何も答えなかった。ミーネの方はそのうちに、ぼくがわざとひねくれていると思ったらしく、もうそれ以上言う気をなくしてしまった。ミーネは部屋から出て行き、そのさいにろうそくも持って行ってしまった。ぼくはたちまち、ぐっすり眠り込んだ。
次の朝になると、昨夜の劇場のことはすぐには思い出せなかった。ゲヴェールトさんについてゆっくり考えてみる気にもなれなかった。ぼくにまた考えさせるだけの力は、彼にはもうなくなっていた。それからあとも、ぼくの部屋の窓の下をブラブラ通り過ぎて行く彼の姿はよく見かけたが、ほかの人たちの姿と同様、特に関心を引きもしなかった。長いパイプをくわえたブリキ屋のおやじさんの方が、ゲヴェールトさんよりもずっと、ぼくの気を引くようになっていた。そうは言っても、その日の朝だけは、ゲヴェールトさんのせいで、また一つひどい目にあうことになってしまった。ぼくのよそ行きの服がメチャクチャによごれているのが母に見つかり――ミーネの洗たくが間に合わなかったのだ――、「いったいどうしたわけなの」と詰問(きつもん)された。ミーネはなんとかごまかそうとしてくれたが、ぼくは黙りこくっていた。母はぼくに、「あなたたち二人はわたしをだましてるって、あなたの顔に書いてありますよ」と言い、こんなときにはいつもそうなのだが、「パパにお話しますよ」と予告した。
朝食のとき、母は父にそれを実行した。でも父は全然おこらず、むしろ楽しそうに聞いてくれたので、母までもすぐさま笑いだしてしまった。ぼくは二人の話をじっと聞いていたが、自分のお皿からは目を上げず、どんなことを問われても、「わかんないよ」としか答えなかった。
ぼくは本当にわからなかったのだ。昨夜の情熱も、夢も、冒険も、ぼくの心からはすっかり離れていた。そんな出来事がぼくの身に起こったのだと信じるだけでも、苦労するくらいだった。それからぼくは作家になり、それなりにおもしろい話をいくつか作り上げた。ところがしばらくたつと、そんな話が何がもとになって出来上がったのかすっかり忘れてしまい、その出どころをさぐり出すのはきわめてむずかしかった。当時のぼくの体験も、これとよく似ていたのだ。
