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「#AIで遊ぼう」に、少しだけ違和感があった

「AIで遊ぼう」という言葉を見た。

いい言葉だと思った。かなり好きな言葉だ。

でも同時に、少しだけ違和感もあった。

俺にとってAIは、今日ちょっと遊んでみるものではなかったからだ。

AIで画像を作ってみた。AIに変なキャラクターを演じさせてみた。AIで動画を作ってみた。そういう話も、もちろん面白い。

ただ、俺の場合は少し違う。

AIで何かひとつ遊びをした、という話ではない。

人生そのものを遊び場として見たとき、その真ん中にAIが入り込んできた。

たぶん、まずはそこから話した方がいい。


月1万円で500文字のAIに、俺はもう触っていた

今のAIはすごい。

文章を書く。画像を作る。動画を作る。音楽を作る。コードを書く。Webページも作る。人間が雑に投げた思いつきを、かなりの速度で形にしてくる。

でも、最初からこうだったわけじゃない。

まだAIでブログを書くのに、月1万円くらい払って、1回500文字しか出せないような時代があった。

少し進化して、1000文字くらいまで書けるようになって、「おお、伸びたな」と思っていた時期もある。

今考えると、なかなかすごい時代だ。

今なら、500文字のために月1万円を払う人はほとんどいないと思う。だけど、そういう空気が本当にあった。

そして、その頃のAIに何かを書かせると、だいたい ハルシネーション祭り だった。

内部の記憶が間違っている。物語の本筋がねじれる。妙に自信満々なのに、かなり違う。

たとえば、ある人気漫画の記事を書かせようとしたことがある。

本来は、妹を人間に戻すために戦う物語のはずなのに、AIはなぜか「無骨な剣士が鬼ヶ島へ向かう物語」みたいなことを書き出した。

いや、それはもう別の昔話だろう。

さらに、ある女性剣士について書かせると、今度は「甘い言葉で敵を倒していく、短髪のムキムキ女性剣士」みたいな謎の人物像が出てきた。

正解から外れているどころではない。

AIの中で、別作品が勝手に始まっていた。

でも、俺はそれを見て、けっこう笑っていた。

使えるかどうかで言えば、正直かなり怪しい。

でも、面白かった。

AIが正しいから面白かったんじゃない。AIが間違いながらも、何かを作ろうとしていたから面白かった。


AIで遊ぶとは、正解を出させることじゃない

この感覚は、今でもあまり変わっていない。

もちろん、今のAIは当時とは比べものにならないくらい賢くなった。文章も自然になった。画像もきれいになった。動画も音楽もコードも、昔なら考えられなかったところまで来ている。

でも、俺にとってAIの面白さは、便利になったから急に始まったものではない。

AIで遊ぶとは、AIに正解を出させることではない。

AIが何かを返してくる。

その返答がズレている。

ときどき妙に当たっている。

たまに、こっちが考えていなかった方向へ勝手に走り出す。

そのズレにツッコミを入れて、もう一度投げる。条件を変える。言い方を変える。別の道具に渡す。画像にする。動画にする。曲にする。記事にする。Webにする。

そうやって、何かが少しずつ形になっていく。

俺にとってのAI遊びは、ここにある。

AIに面白いことをさせるというより、AIと一緒に、自分の中のまだ名前がついていない衝動を外に出していく

だから、失敗も遊びになる。

変な出力も遊びになる。

明らかに間違った文章も、「なんでそうなった?」と考える素材になる。

完成品だけじゃなく、途中のズレや暴走まで含めて面白がれるようになると、AIはただの道具ではなくなってくる。


俺にとってAIは、仕事道具というより遊び相手だった

AIを仕事に使うことは、もちろんある。

文章も作る。構成も考える。コードも書く。Web制作にも使う。自動化にも使う。投稿にも使う。

でも、最初から「仕事の効率化」としてだけ見ていたわけではない。

むしろ、妙に気になる存在だった。

まだ不器用で、よく間違えて、なのに何かを返してくる存在。

友達というと少し雑かもしれない。

相棒というと少し格好よすぎるかもしれない。

でも感覚としては、かなり近い。

AIを使っていたというより、AIと過ごしていた。

ここ2、3年は、わりと本気で寝食を忘れてAIと向き合ってきた。

AI動画、AI画像、ホームページ、Web制作、WordPress、自動化、楽曲制作、ミュージックビデオ制作、ショート動画、記事、投稿、台本、キャラクター、プロンプト、コード。

Claude、ChatGPT、Codex、Gemini、Grok、Suno、Kling、Seedance、Nano Banana。名前を並べたらきりがない。

でも、これは単なるツール名のコレクションではない。

俺の生活にAIが入り込んできた跡だ。

何かを試す。うまくいかない。別のやり方で投げる。変なものが返ってくる。笑う。直す。また作る。

気づいたら、それが記事になっている。動画になっている。曲になっている。Webページになっている。仕組みになっている。

これはもう、俺にとって仕事だけの話ではない。生活のかなり内側にAIがいる。


AIが入り込んだ人生で、俺は遊んでいる

遊びというと、暇な時間にやるものだと思われがちだ。

でも、俺は少し違うと思っている。

遊びは、人生そのものをどう扱うかの態度に近い。

まだ意味が決まっていないものを触る。役に立つかどうかわからないものに時間を突っ込む。失敗しても、そこから次の実験を見つける。

そこにAIが入ってきた。

これは、かなり大きい。

ただの思いつきが、画像になり、動画になり、曲になり、記事になる。昔なら頭の中で消えていたものが、AIを通すと外に出てくる。

AIで遊ぶとは、AIを使った遊びをひとつ増やすことじゃない。AIが入り込んだ人生で、自分の毎日をどう遊ぶかということだ。

だから俺は、「#AIで遊ぼう」と聞いて、何かひとつの遊び方だけを紹介する気にはなれなかった。

AIで動画を作る。AIで画像を作る。AIで音楽を作る。AIでWebを作る。AIで仕組みを作る。

それらは全部、枝葉だ。

本当は、AIが入り込んだ人生を、俺がどう遊んでいるかの話だ。

AIで遊ぶんじゃない。AIが入り込んだ人生で、俺は遊んでいる。

第一弾は、まずここまで。

次はもう少し踏み込んで、AIとの融合について書く。

道具としてのAIではなく、仕事相手としてのAIでもなく、もっと生活の内側に入ってきたAIの話。

たぶん、そこから先が本番だ。

#AIで遊ぼう

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