八咫烏を祀る矢宮神社ー由緒の1

矢宮(やのみや)神社は和歌山市関戸(せきど)1丁目5ー27に鎮座します。境内にある由緒の説明書きです。「矢宮神社ご由緒 御祭神賀茂建津之身命(かもたけつみのみこと)は、八咫烏命とも申し上げ、神武天皇が熊野より大和へ進まれる際に山が険しく進退極まった時、大鳥の翔ぶが如く皇軍を導かれ又途中の賊將に帰順を諭すなど、赫々たる勲功をたてられた大神にして、交通安全、情報の神にまします。ご創建は推古天皇の御代と伝えられ、氏子区域は雑賀、高松、砂山、今福、湊、吹上、小雑賀地区で、昔の雑賀庄の主要部に当る。戦国時代、織田信長が紀州攻めの時、和歌川を渡って雑賀衆を攻めんとしたが、大神は数日間潮を引かしめず、雑賀孫市らをして信長軍を敗走せしめ給うたり、教如上人が鷹の巣の洞窟に隠れ給うた時、大神は端麗な女人に化して海上を飛翔して薙刀を振って敵兵を追い払い給うたと伝えられているように、勝運の大神であらせられ、現在は入試、就職、スポーツ等、広くあらたかなる御恵みを垂れ給う勝ち神様であらせられる」。この文章の「大鳥の」の「鳥」は「烏(カラス)」ではありません。地名の雑賀は「さいか」、小雑賀は「こざいか」と読みます。
さらに「矢宮」の社名の由来については、『紀伊名所図会』に「紀伊国海士郡雑賀荘総社矢宮大明神縁起之事 古此の地は雑樹鬱茂たる深林也或時其の林の中より夜々異光を放ち里人大いに怪しみ光について是を探るに白羽の鏑矢有之爰に於いて里人其神なる事を知り恐れ畏みて則ち仮殿を造り巫女をして深湯立せしむ神即ち巫女に憑託せ給ひ吾は是れ軍神也此の森に社を建て永く尊崇斎祭(いつきまつら)ば吾又此の土を護り幸ひすべしと是即矢宮と申奉る縁なり」とあります。この伝承には神の名前が出てきませんが、武具である鏑矢があり、また神が自らを軍神であると言っていることからするとこの神は軍神として『記紀』に書かれている八咫烏(タケツノミ)と考えても差し支えないでしょう。
和歌山県神社庁のサイトから引用します。祭神賀茂建津之身命(別名やたがらすのみこと)、配祀神吉井駒鳥神。由来として、御祭神賀茂建津之身命は、またの御名を八咫烏命と申し上げる大神にましまして、神武天皇御東征の砌、紀伊国熊野邑から大和に向かわれた、山中険絶して進退きわまられた時に天照大神の神勅を奉じ、大鳥の飛翔するが如く皇軍を導かれ、また時には勅命を奉じて賊将の陣営に至り降伏を諭し勧めるなど、我が肇国の大業に勲功赫々たる大神にまします。よって勝運、開運、情報、交通安全、方徐の神として崇められている。吉井駒鳥神は本国神明に正五位下吉井駒鳥神と見える神で、井水の神であらせられる。元境内神社であった。中古は和歌吹上の大神として四囲に知られ、海部、名草二郡にわたる雑賀荘21か村の総社大産神として荘民の崇敬を集めていた。天正5(1577)年、雑賀孫市が率いる雑賀党が織田信長に攻められた時、村民が神助を祈ったところ、「敵兵三月三日干潮を待って攻め来らん、われ村民のために海潮を退かしめず」との神託どおり、当日は潮満々として敵兵難渋するところを攻めて勝利した。その時の欣喜雀躍が雑賀踊りの始まりである。また天正8(1580)年に石山本願寺が落城して顕如教如父子上人が当国に下向し、雑賀党がこれを守護した。寄手に追われた教如上人が雑賀崎の鷹の巣の洞窟に逃れ食事も絶えた折、海上に端麗なる女人が顕れて、ここかしこと飛行して長刀を水車の如く振って防ぎ敵を近づけなかった。しばらくあって本能寺の変があり、寄手は引揚げ無事を得た。彼の女人は「矢宮大明神人の化現」と人皆この霊験を讃えた。然し社殿、古文書は兵火で焼失して荒廃し、假宮を建てて祭祀していたが、慶長6(1601)年浅野幸長の検地の際に5町3反6畝12歩の社地の大部分を失った。徳川初代藩主頼宣公は、寛永14(1637)年に社地(1845坪)を定められ、本殿、末社2宇、鳥居2基を造営して御再興になられた。爾来幕末に至るまで国内の大社として歴代藩主の崇敬は殊のほか篤く、増築修覆、寄進奉納、祈願祈は絶えることなく、八代藩主重倫公より幕末まで当社神官に代々神道方を仰せつけられ職禄を給せられた。これに倣って当国はもちろん、阿波•讃岐•淡路•和泉の崇敬者も多く、明治維持前後は神符の下渡しも年額40,000有余体に及ぶ勢であった。


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