ナポリタン、初めて?
詩織さんは、外資系半導体メーカーの役職者で、実は偉い。僕たち記者に気軽にいろいろ話してくれるのが不思議なくらいで、通常なら広報担当者が慌てふためく内容もある。だけど、酒乱だ。呼び出されては対応に苦労していたけれど、そんな詩織さんが僕は好きになっていた。
その日も銀座のスナックに呼び出された。ワイルドターキーのクセの強さにも慣れた。本当はスコッチが僕は好きなんだけど。詩織さんのためにマルボロライトも買って持っていく。なんだか困った先輩と遊ぶ後輩みたいだった。
「今日も遅い。呼び出したらすぐ来い。3秒で来いー」
もうただの酔っ払いだ。僕はママに目配せして詩織さんのグラスをソーダだけにすり替える。「薄い」とつぶやいたけれど、さして気にしていないようだ。
「おい、今日はまだ行きたいところがある」
もう23時半だよ。帰って明日の準備がしたい。けれど、帰してくれはしなさそうだ。
「お前が普段飲み行ってる店に連れていけ」
あー、そう来るか。何軒かあるけれど、どこも会社の先輩や後輩も知らない店だ。じっくりと飲んで安らぐ大切なセーフハウスみたいなものだ。
「あるだろう。別に荒らそうとは思ってない。ちょっと覗きたいだけ」
しなだれかかれてお願いする目を見るとどうも拒否できなくなっている。幾つ候補があるけれど、無難なダイニングバーを選んだ。湯島だから、銀座からタクシーで3500円くらいか。タクシー代は僕が出す様な暗黙の了解になっていたから少し懐が痛い。
「どんなお店なの」
詩織さんはタクシーの中でおとなしく座っていて、質問を投げかけてきた。なかなか珍しい。酔っていたと見せかけていたのかもしれない。
「普通のバーです。ご飯も食べられます」
「それじゃあ、なんか食べようね」
詩織さんは楽しそうに窓の外を見ている。マスターにどう紹介するのがいいのかもよくわからなかった。取材先と言えばいいだけだけど、もし仮に詩織さんにベタベタされたら、どんな仕事をしてるんだと思われる。まあ、いいか。
「お、なかなか落ち着いていていい店じゃない。贅沢してるぅ」
カウンターに2人で座り、しばらく普通の話をする。珍しい。詩織さんはテレビが好きらしく、最近お気に入りの俳優やドラマのことを喋る。
「忙しくてドラマなんて見てないだろうけど、あの作品はいいわよ」
ワイルドターキーを水に変えたのが良かったのか普通の会話でよかった。けれど、ドラマはほとんど分からず会話は続かない。詩織さんはワイン、僕はジントニックを飲んでいた。
「お腹減った。なんか食べたい」
この人は誰にでも親しげに語りかける。いいところだけれど、ドキドキする。困った顔をされたらどうしようかと。しかし、そこはマスター。フードのメニューを差し出す。
「うーん。わかんない。知らないメニューもあるし。あんた、普段食べてるの選んでよ」
人任せなのは、いつものこと。僕も呼び出されて食べていなかったから、食べたいものを選ぶ。そう、ベーコンたっぷりナポリタンだ。24時近くに食べるには背徳感が満載だ。でもやめられない。どうせ詩織さんはほとんど食べないに違いない。ぼくはマスターに注文した。
「え、ナポリタンってなによ。イタリア?」
「え、ナポリタンですよ。普通の。でもベーコンいっぱいの。美味しいですよ」
「ナポリのパスタなの?」
「いや、日本生まれです。横浜のホテルで考案されたとか」
「そうなの。何が入ってるのさ。何味なの」
「え、知らないんですか?」
「知らない」
「玉ねぎとソーセージ、ピーマンが軸です。ここはベーコンですけど。ケチャップで味付けです。トマトソースを入れることもあります」
「ふーん。そうなんだ」
40歳半ばだろう人が、ナポリタンを知らないわけがない。何をとぼけているのか、酔っているのか。担がれているんだろうなと思っていた。
マスターができたベーコンナポリタンを出してくれた。僕は取り分けて詩織さんに渡す。
「これかけて食べると美味しいですよ」
パルメザンチーズを渡す。ただ詩織さんは、ナポリタンをフォークで突いている。きっと何が入っているのか確認してるのだろう。
「トマト味ね。うん。玉ねぎもピーマンもいい感じ。ベーコンは食べ応えある。さ、もっとよそって」
想定外だ。詩織さんがいっぱい食べている。そもそもご飯を食べるところはほとんど見たことない。バーでも飲むだけが多い。
「ねえ、これ美味しいわね」
「本当に初めてですか?」
「そうよ。知らないわよ。ねえ、マスター、これ美味しいわ。私ね、初めて食べたの」
マスターは商売人だ。笑顔でありがとうございますと、深く追求しない。
「詩織さん、ナポリタンですよ。お子様ランチとかにありませんでしたっけ?」
「お子様ランチ?そんなもんなかったわ。私の住んでたところには」
そうだ。詩織さんは帰国子女だった。小学生になるかならないかで確か南米に行っている。でも待てよ。日本に帰ってきたのは中学くらい。高校も大学も日本だ。バブル真っ只中くらいには、青春だったはず。喫茶店だって言っていたはずだ。知らないのは騙しているんだ。
「ちょっと、詩織さん。ナポリタン知らないなんて嘘でしょ」
「そんなことないって。本当に初めて。美味しい。この歳になると、初めてのことは少ないわ。ありがとうね」
「ナポリタン、初めて?」
「そうだって言ってるでしょ。分からず屋め」
詩織さんは微笑んだ。本当に初めてらしい。紹介して良かったと思う。また詩織さんの中での思い出、僕が関わった思い出が増えたはずだから。
