引き出しのキットカット
井上は10歳離れた後輩だ。もう10年以上前のこと、同じチームで働いていた。こっちはキャップという存在。30代後半だった。普通の企業なら課長さんくらいのイメージか。井上はまだ育成途中といった感じだった。経済ニュースを担当するチームだった。地方都市ならではゆっくりした雰囲気はあったけれど、まだ地元の新聞社とのニュースを抜いた抜かれたの競争はあった。
コロナ前だったけれど、新聞社は基本的に自由な職場だ。取材があれば会社に出てくることもないし、会社に来てもすぐに担当企業の役員の自宅に押しかける夜討ちに出て行った。会社には顔出す程度の記者が多かった。
そんな自由な職場だけれど、キャップは違った。10人ほどのチームの記者に取材方針の指示を出したり、上司であるデスクと紙面の打ち合わせをしたりと、本社にいる時間が長かった。話す相手もずいぶん年上の編集部長か先輩のデスクしかいなかった。むさ苦しい時間だった。
だから、井上や他の女性記者や若手が帰ってくると雰囲気が変わった。ニュースのことで真剣に話し合うこともあったし、日常会話、それこそスポーツやドラマのことで盛り上がることもあった。まだタバコを吸う記者が多かった頃、今では考えられないが、タバコ部屋でニュースの方向性が決まることもあった。
井上が珍しく原稿を印刷した紙を持ってきたのは、金曜の夕方だった。
地元の食品企業の老舗が新工場を建てるという簡単内容だった。
「いろいろ聞いてきたんで、必要なことは揃っていると思います」
強気だった。原稿が下手とされていて、自認しているはずなのに。もう9時近かったので、見ておくといって帰した。
いやー。ひどかった。いつもだけど、投資額、稼働時期、販売目標、そういった数字がなかった。聞いていないのか、書き漏らしたのか、分からないけれど、赤ボールペンで指摘点を書き込んで机の上に置いておいた。
翌日も夜になってやってきた井上が原稿を持ってきた。
「書き直したので見てください」
わかったと受け取った。自分の仕事は傍において、後輩の原稿を見る。これも重要な仕事だ。
でも、前より良くなったが、まとまりがない。文章の構成を考え直すように書き込んだ。
そんなやりとりがあと2、3回続いた。ずいぶん疲れたけれど、デスクからも文句はでず紙面になった。
あー。挨拶もなし。「ありがとうございます」の一言もほぼない。俺頑張ったのになー。井上だから、ちょっと気になってしまっている後輩だから、力も入ったんだけどなー。いいやいいや、お仕事に集中。自分を宥めた。
翌日は珍しく平日の休みを与えられた。休日出勤の代わりを取らされた。街をぶらぶらしてランチに天ぷらを食べて、本を読んだ。充実したけれど、なんとなく会社のことや井上のことを考えてしまう。うまく指導できたのかどうか、お節介なことまで指示してなかったか。考える機会を奪ってなかったか。あー、うまく頭が落ち着かない。当時はぐじぐじしていた。今も仕事じゃそうだけど。
翌日、会社に戻って、9時過ぎまでかかった。自分の原稿を書き直していたのだ。もうお腹が減った。飲み行きたい。けれど、夜討ちにいった後輩の連絡を待たなくてはいけない。
そうなると、決まって引き出しを開ける。いくつかのお菓子を入れているのだ。ひっそりとした自分だけの楽しみ。
引き出しを開けると、見知らぬ赤いお菓子があった。こんなのに買ってないのにな。
取り出してみると、キットカットだった。文字を書き込むスペースに、「ありがとうございます」と書いてあった。名前はない。
イタズラだったらやだな。毒でも盛られていたら。そんなことを考えたけど、直していた原稿を取り出した。そう、筆跡は井上だった。
秘密のお菓子を知られていたのは、記者として取材力があるなというのはいいけれど、直接言葉で伝えられないのかとちょっと憤慨した。原稿は遊びじゃない。仕事でやっている、挨拶は必要だ。
でも、どうでもいい。なんだか嬉しかった。そっと入れてくれたに違いない。みんなで、わいわい言いながら入れていたら、小っ恥ずかしい。前者を期待した。
だから、とっておくことも考えたけれど、食べることにした。キットカットはいつもの味だったけれど、いつもより甘かった気がした。井上に興味以上のものを持っている。ダメな上司だ。でも、甘かった。
