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反動は正しい

この10年ほどで「勉強」という言葉の意味が大きく変わってしまったと思っている。かつては、立身出世の門をくぐるための道具であり、難問に明確な答えを出すための訓練であり、生きる不安から逃れるための手段であり、影響力のある人にとっては仕事そのものであり、なによりも、それは思想の土台となるものであった。

一昔前は、勉強の意味は、もっとシンプルであり、ハッキリとしていた。今はどうか。あたかもそれだけでは真の目標にはけっして到達できないかのように、これまで使われてきた勉強というコトバの効力が減少してしまったのではないか。すでにそのような社会的コンセンサスが、すっかり形成されてしまっているように見える。

現代は情報に瞬時にアクセス可能であり、加速主義的に、意思決定を迅速にしなければならない状況が多くなった。熟考を無視してでも、誰よりもすばやく結論を出さないといけない。「ファスト教養主義」の蔓延、迅速な結果や効率的な手段を追求するのをよしとする気風が、問題を徹底的に把握し、深く突き詰めていく態度を、時代遅れのものとして、忘却の彼方へ吹き飛ばす。そんなことを考えたことはないだろうか?



2010年代以降、岡田斗司夫いわく「評価経済社会」化がとことん進み、既出の誰かがやってる議論を流用して、その土俵でいかに華麗に論点を整理してそのときそのときの最強に有利な立場を選ぶかというゲームに、いかに勝つか?こうした類いの、タコツボのなかでの知的ゲームの様相が濃く感じられるようになった。…また、もしも、それありきの勉強が主流となっているのだとすれば、やはりその意味は完全に変容しているといわねばなるまい。

この評価経済社会の勝者となっているのが、ホリエモンやひろゆきら「インターネット第一世代」だが、彼らが台頭した2000年代は、情報技術の急速な発展・普及とともに、そのスピードと効率を追求する生き方が、若者の共感をあつめた。彼らは、その中でいかに迅速に行動し、成功を収めるかを実践し、やがてはロスジェネのカリスマとして象徴的な存在となった。

またメディアも彼らを時代の寵児として持ち上げ、その軽佻さをよしとしてきた。そのひとつの到達点だったのが2020年の”論破王”ひろゆきブームだった。ひろゆきの功/罪とは、ファスト・ジャーナリズムの完成形をかつてなかったような規模と強度で体現したことだと、わたしはみている。

彼の主眼は、世間に蔓延る「偽善」を暴き、あるいは「露悪」をコケにし、嘲笑することにあった(前者は辺野古ツイート炎上事件、後者はイキり系芸能人やタレント政治家との舌戦など)またその程度で事足りる知識力でよいのであれば、本格的な勉強などは不要であり、あの天来の大衆性と”1%の努力”があれば十分であることも証明してしまった。



このひろゆき的、またはポストひろゆき的なものが、今後も繰り返し現れるだろうことを考えると、それに対抗・抵抗するための方法が求められる。思うにインターネット以降の思想とは、底を割って見ればみんな同じだったし、きっとこれからもそうだろう。似たような思考パターンが意外なほど広がっている。表面的には多様に見えても、実は同じグループ内での違いに過ぎない(言論界隈の内側からこのこと全体を見てとろうということはたいへん骨の折れる仕事である。しかし個別の識者の立場にたって見るならば、そのことが明らかになるだろう)

今日わたしたちが言語ゲームのなかで頻繁に目にする、分をわきまえないアイロニーや残忍さ、反社会性を帯びた出来事は、たんなるカタルシスを超えて、むしろ現代性を理解する手がかりとして、ひろく了解されているではないのか。しらぬまにそのような意識の変更がわたしたちの内部にもたらされたのではないか。



今更、デカい主語を持ち出して逆張り仕草をしたいわけではない。なぜなら、そのことが及ぼしたいささか矛盾した結果のおかげで、以前のわたしたちが信じ込んでいた判断基準や諸観念が、じつはある特定の時代区分が作り出していた、特殊な心理傾向に過ぎなかったということを、完全に理解することができたのだから。

かつて公的な観念(形式的なものや暗黙のもの問わず)は盲目的に守るべきものとされていたはずだが、市民たちはなぜこれらの考え方をあまり深く考えずに、無防備に受け入れていたのだろうか。第一に、こう考えられるだろう。あたりまえに大人たちは正しく考える。その考えの正しさを確かめるためには、一般的に正しいとされる正解にどれだけ近づけるかの一定の幅に依存する。しかし必ずしもそのことを自覚できているわけではない。

またこれは言論や文芸の領域においても同様である。その結論においては、大人たちの「正しさ」に対する認識が、そのまま彼らの見えているものの中心に、知らず知らずのうちに入り込んでいる。



わたしたちは、誰かの発言やコンテンツにふれると、ひとまず「この人には何が見えているのだろう?」と考える。何かに自然と感情を寄せたり、またそこに必然を感じたり、その正体を見極めようとするのは、人間の本能である。そしてこの関心の向き方は必ずしも思想だけに結びつくものではなく、時事や気の利いたプレゼンなど、より現代風に最適化されたメンションとしても、表現されることもあれば、他の思考の形式としても現れる。そこでは人が社会=世界とどう関わるか、そうした問題を考える試みが行われ、その回答は”深み”と表現されたりもする。

ひと昔前ならば、五木寛之や北方謙三、河合隼雄といった作家が、大衆に人生の智慧を授ける啓蒙家として支持されていた。今はひろゆきや堀江貴文は別格として、一部の批評家やコメンテーター、チューバ―、金持ち、ネット論客たちがこの役目を引き受けているように見える。

ひろゆきブームの頃、彼の言動をまねる子供「ひろゆキッズ」(本当のキッズばかりではなく、準構成員として全裸中年男性たちも多数含まれていた)のふるまいが話題になったことがあった。この現象は、いくつかのクエリーのもとに集まっているグループ(界隈では”住民”などと呼ばれているが)でも起きている。

ある特定のグループに属する人たちが、仲間内のやり取りやスタイルを固定化しようとする。それは単なる一つの態度というのを超え、まるで客観的事実であるように見せかけられることがある。しかし、傍からみれば普遍性を欠いており、総体として見た時に、社会を変えるような力は微塵も感じられない。

思想とは人々の認識を根底から変えうる。そこで取り扱われる問題は、絶対的価値観としての「普遍」である。…この看過できない溝、現実に起きている「分断」とは一体何なのかといえば、ひとまず、そのまま人それぞれの現実に対する認識の違いが反映されている、まさにそのことによって、人々が共有すべき知識や教養の基盤を揺るがされている、といえる。



何年か前に、伊藤昌亮氏の「ひろゆき論」が話題になった。個人的には、ひろゆき本人をとりまく、自説に反駁する要素ことごとく無視したうえで「ひろゆきにはこういう思考の傾向がある」という一般化のもと「だからひろゆきを支持してはいけない」といった、一面的な論じ方だったという印象があり、そのため、ひろゆきの実像を正しく捉えられていないのではないか?という疑問が湧き、納得しがたい部分があった(ただネットに蔓延しているニュータイプのネオリベの諸相や弱者男性の分析は優れていたと今でも思う)

これはオーソドックスな評伝(もちろん、賛美の一本調子ではない本格的なものを)などを想定して言うのだが、ある特定の人物を理解し「描く」(活写)する方法とは、具体的には何だろうか?

ひとつには本人と粘り強く対話を重ねるなどし、対象の輪郭が浮かび上がってくる地点まで本人の視線のフォーカスを合わせて調査するやり方があるだろう。次に、その人の生涯で起こった重要な事件やターニングポイントをいくつかピックアップして、その部分に注目することで、全体像を再構成するやり方がある。あるいは本人の(公的なともいってよいが)全体的なイメージを、より大きな全体のなかの部分として措定しなおして、分析してみるやり方もある。

ほかにも有効なアプローチがあるのかもしれないが、ともかく、完全を期するならば、考えつく方法のすべてを駆使しなければならないだろう。いずれにせよ、ある特定の人物の全貌を理解したいと思うのならば、必要とされる努力は、生半ではないはずだ。



なぜ、かような方法論的自覚を伴わなければならないのかといえば、そうでもしない限り、とりとめもなく論争を呼ぶことになり(...わたしこそが一番○○を知っている論争が勃発する)、収集がつかなくなるからだ。だから、かりに思想の面目が試されるとすれば、まさにこの歴史的瞬間に際して、であるはずだ。

ゆえに、伊藤氏の論に見られるような「敵」のその知の欺瞞性を暴くという名分の下に、バッシングの弁証法たる”社会学”を駆使しつつ、ある人物の一側面を解体していくやり方をフェアとはいわないのではないか、というのが個人的な肌感である。その言説のスタンスが、たんに「俺らの党派が最高」(あるいは、原理主義ってアホだよね的な)という党派性の確認に留まることは、上記の原則に照らすまでもなく、明らかだからだ。



実際問題として、これら党派はたくさんあって、じつに多様である。あまり自覚的に書いているつもりはないが、この文章で書こうとしている内容も、なんらかの「党派」に属しているはずで、他にも、わたしがアイデンディティの問題を考察する際によすがとした「党派」があるはずであり、生まれてこないほうがよかったという「党派」があり、いやいや性別なんてものは存在しないから云々という「党派」や、科学的にいえば性別はあるに決まっているという「党派」もあり、全宇宙規模では、そもそも人間なんてものがいない前提の異星人のふるまいが支配する「党派」だってあるに決まっている。それぞれの党派によって現実認識がまるで異なってくる。

これは全体のみならず部分にも言える。ある部分の在り方はきわめて多様で、それぞれが多様なので、何が善で何が悪かはおのおのの部分で違い、なんらかの部分の現実の在り方で対応している。より直截にいえば「自分達の党派を守るために攻撃しあっている」

かつて、マルクス・ガブリエルは「誰かがユニコーンを信じるのなら、その人の世界にはユニコーンが存在する」と発言したが、このような主張は、普通には受け入れがたいものである。というのも、わたしたちが見ている現実は一つしかない。したがって、どのものについてもそれが属している世界はただ一つであると考えているからだ。もし、このことを否定する人間がいるとしたら、何かにつけて概念を深めたり拡張しようとしたがる哲学者くらいだ。



もっとも、たとえこのように思想(ゼロ年代以降のものの言い方では”批評”もそこに含まれる)とは明確に独立に存在しえるにしても、それが人の実存に関するある種の世界観である場合は、その独立した地位を維持することは困難をきわめる。彼らは、あくまで彼らの共有するところの概念=グループ=党派を頼り、表現し、それに正当性を与えようとするだけだ。

結局、このようにして思想は、ある時代に広く行われている人生の解釈に、もっともらしい佇まい(そうすること、そうふるまうことにより賢く見える何ものか)を供給する。とはいえ、その現実認識は、どうしてもその表現形態である、かの洗練された・膨大な概念の体系とは、根本的に異なるものであり、断じて混同してはならない。



昨今「修養の時代が復活した」うんぬん、目につくようになった。いわく、「○○大学」。こうした志向は四半世紀も前から、インターネット・ヒーローたちが背中で示してきたことである。危機感ニキは資本主義の申し子だ。

終身雇用神話が完全崩壊した90年代以降、人々は「自己責任」の名のもとに、職歴、学歴、資格といった評価軸にますます執着するようになった。本来、資格や学歴は能力や知識の証明であるべきだが、企業が実際に評価しているのは、その者本体のバリューというよりかは、それ以上に「忠誠心」や「従順さ」といった資質である。こうした構造的矛盾については、折に触れて語られるものの、依然として多くの人々は耳を傾けようとしない。

また、自己啓発市場も進化を続け、オンラインサロンやサブスクリプション型サービスといった形態で新たな装いを纏いながら中身は「リスク取れポルノ」の類いのクローンのさらにクローンでしかなく、多くの場合、真の意味での「修養」からはかけ離れている。

それが「修養」なのか、あるいはコンプレックスの中で踊らかされるだけの新様式のポルノに過ぎないのか、最終的判断は各人にお任せするしかないが、これらの数々が不安への逃避ではなく、内発性を引き出す本質的な力たり得るのか?



今からちょうど10年前、2010年代半ばは空前の「若さ」売り手市場のバブルだった。ベンチャーキャピタル(ーマフィアというべきか)勢の熱気もすごかったし、”企業”に見切りをつけたがっている高学歴の若者たちを中心に、俺たちはなんにでもなれる・なんでもできる感はビシビシあった。

もう2024年も終わろうとしている現在、あのころ若者だった者の大半が残酷なモデルチェンジを余儀なくされているようだ。ブレずたゆまず順当にステップアップしている者もいるかもしれないが、ごくごく一部の、資本・システムの内側にうまく入り込めた者だけである。



20代は社会に出るための最終関門、あるいは大人になる前の取材期間と見なされている。青二才が大バクチに打って出るとたいていドボンして終わる。若いうちに破産したり、犯罪者になると(失敗した戦略チャレンジャーへのセーフティネットは皆無なので)ほぼ取り返しがつかない。とはいえ最初っからぬるま湯に浸ってイージーモードで生きていくのも緩慢な自殺なのかもしれない。若い頃から甘やかされてきた人たちが大人になった姿は、これまた痛々しいものがある。つまり、若気の至りにもいろいろある。

たいはんの若者たち(厳密にはアラフォーも含まれる)は失敗さえできずに、文字通り半永遠に最低、または半端な、平均的状態にとどまり続け、このことが一生分からなくて苦労する。

もはやブレイクスルーはないのだろうか?との想いもつよい。もしあるのだとして、それはファスト教養主義やファスト政治やら、あるいは自己啓発などの小賢しさとは無縁な、もっと赤裸々な何かであり、「わたしの生は消滅する」という、世間一般にいわれる”生”とは位相の異なる地平にあると思う。



(…こうしたことをクドクドと考え、細部まで掘り下げて書くのは、ナイーブに過ぎるだろうか。しかし、世界が秘めている深い意味に目を背けたまま一生を終えるのは、あまりにも惜しくはないだろうか)




一見すると意外に思われるかもしれないが、わたしは相対主義者になるつもりはなくて、よしんば、今日人生の思想=「自分語りの楽園」の門が開き、最盛期を迎えつつあるのだとして、それらの諸概念に則っては、「普遍」には到達できないことを、試みに考察したいのである。

このことを追究するためには、まず「普遍」とは何であるのかを再定義する必要がある。ただし、ここで指す「普遍」は、西洋哲学が伝統的に掲げてきた価値観や枠組みに収斂するものではない、とわたしは考えている。

仮に、西洋哲学が普遍性の代名詞であるとするならば、その主張自体が特定の文化的、歴史的条件に依存しており、むしろ普遍性を欠く思考とならざるを得ないからだ。その対極の「東洋思想」も、やはり同じ循環の裡にあることになるだろう。現代思想=「反哲学」も然り。普遍とは、特定の時代や地域に固有の思想体系を超え、異なる立場や文脈を内包しうるものであるはずだ。



普遍性を考察する際に科学を避けることはもはや不可能だ。思想哲学がかつて担っていた普遍の学としての役割は、今や科学がその座を占めているのだろうか?

少なくとも、哲学以降における最も重要な知のフォームなのは確かだ。科学知識体系の持つ汎用性は、仮にその究極的な理論の完成に直接寄与しないとしても、哲学のそれを凌駕している。

しかし、その汎用性の高さゆえに、科学は現代思想における複雑な課題をも浮き彫りにしている。科学的知識は、具体的な問題を解決するだけでなく、現代社会の基盤を形成する実践的な力を持つ。一方で、その膨大な応用範囲は、凡庸な思考や無批判な利用によって弊害を生むリスクを孕んでいる。

その理論全体の優劣を判断する作業は、実質的に天才的な自然科学的洞察力を持つ者にしか委ねられない。これは、科学分野でたびたび発生する不祥事を見ても明らかだ。研究不正や倫理的逸脱が示すように、科学の運用には統一されたルールが存在せず、判断基準が依然として曖昧である。この点において、科学は「普遍」を志向する一方で、その普遍性を信じるがゆえの盲点を抱えている。また、科学と哲学の関係性についても疑問が残る。両者を分離すべきなのか、それともシームレスに統合すべきなのかという問題は依然として議論の余地がある。



それでは、科学がその基盤とするところの数学的正確性が、そのまま普遍性をも意味するのか?…分析哲学の泰斗W.V.O. クワインを凌ぐ天才といわれたデイヴィッド・ルイスが提唱した「様相実在論」は、この問いを人文知の側から過激に推し進めた一例である。

わたしは野上志学の著書(デイヴィッド・ルイスの哲学 ―なぜ世界は複数存在するのか―/青土社)を通じておおまかな概念を学んだに過ぎないが、この理論は、永遠に終わらない言語ゲームのような無限の議論を引き起こし、時宜にかなった社会共同体の維持という、もう一方の普遍的・現実的課題(この一点においてのみ、人文は科学に一歩長じることができると言えるのかもしれない)にはほとんど寄与しないように思われる。

他方、今日ポスト・トゥルースの時代における事実の再定義や、生成AIやアルゴリズムによる意思決定が引き起こす社会的影響が議論されている。これらの課題は、形式的な論理性や数学的正確さを追求するだけでは解決できないのは言うまでもない。むしろ、社会的文脈や人々の感情、集合的意思決定がどのように形成され、どのように「正しさ」が規定されるかを深く探る必要がある。



2020年(体感的には”コロナ過”)以降、アルゴリズムを用いた社会や政治の管理を推奨する意見も見られるようになった。たとえば、成田悠輔が提案するようなアルゴリズムによる社会管理は、タイムラインという無数の頭脳と魔融合を果たし、日々ストリートの意味が変容している東京の風景を観察すると、現実の複雑性に対する一つの解として理解できる面もある。しかし、そこには強者と弱者の新たな関係性や、テクノロジーが生み出す階層構造といった課題も内包されている。



現代においても、いわゆる強者は依然として存在感を放っている。どんな人でも、言論空間のゲームから離れて、いざ現実にたち帰れば経済とべったりねっちょり結びついた日常がある。多くの人が、生活を成り立たせるために避けられない労働に従事し、それによって得られる収入の手綱を握る強者たちには勝てやしない。こうした現実は、多くの者が目を背けたい道理である。それゆえに言論ゲームの中毒になっているのかもしれない。そこでは、現実の不条理を漫画やアニメのような形に包み込み、消費しやすい形で提示する仕組みが機能している。

この「カートゥーン民主主義」というべき状況では、イーロン・マスクやトランプ、ひろゆきのような人物が、漫画的キャラクターとして認識される。彼らの存在は一見すると批判や揶揄の対象だが、その可愛らしさによって厭な現実をある程度受け入れられるように機能してもいる。一方、こうしたメディア有名人たちはしばしば嘘吐きやらインチキやらと批判される。しかし、日々吐き出される、匿名の弱者たちの下劣な嘘と比較すれば、彼らの嘘はむしろ整合性を保っているように見える。



弱者であっても、強者と一見対等に振る舞えるかのような錯覚を得ることができる。同じように嘘を吐き、罵倒する権利を行使し、“推し”と親密になったかのような幻想を抱く。しかし、それは単なる虚構であり、実態としては巨大な存在に群がる小バエのようなものに過ぎない。だが、傍目にはその差異は些細に見える。うんことハエの区別など、誰も気に留めないのだ。

このような光景は、アルゴリズムがダーウィンの「自然淘汰」の原理を表面的には無効化しつつも、実質的には加速度的に助長し、新たな秩序を再構築しているように見える。アルゴリズムは承認欲求を増幅させる一方で、人々の行動を予測可能なものへと還元し、ユーザー間の承認格差・力関係をさらに固定化している。その結果、あらゆる伝統的な価値観や社会的概念が浸食され、ある種の単一さと裏返しな「先鋭的な」世界観だけが支配的に残るという状況を招く。



2000年代までは「休むな」「足を使え」「人と話せ」が成功の基本だった。独立を目指す叩き上げの世代は、資本主義的価値観を身体感覚として内面化していた。わざわざ「自分は資本主義でいきます!」と名刺に書いて宣言している、あの香ばしい感じ(当時の村上隆のふるまいを見よ)

しかし、今の若い世代は決定的に異なるスタンスを取るようになった。効率化を求め、表層的には無毒化・透明化された優生思想としての「偽善的ホワイト」が優位となりつつある。

「偽善的ホワイト」は、"バズ"を連発させている若手チューバ―たちの状況に顕著に現れている。それは一見、社会的善意や”カワイイ”などをよそおいながらも、実際はハイスペック勢による「誰が最もエグい自慢ができるか」を競い合うコロシアムの様相を呈している。



これはかつて優勢だった「露悪的ブラック」への反動ともいえるのかもしれない。ここで改めて、この文化的潮流について振り返ってみよう。それは、実質的に昭和の最終形態だった1990年代に端を発し、その後も断続的に、時には波紋を広げ、また時には傍流として、社会に影響を与え続けてきた。

象徴的な事例としては、オウム真理教の事件、「批評空間」のような言論のセクショナリズム、孫正義とタイアップしていた頃の光通信を筆頭とするゾンビ労働文化、そして堀江貴文の登場…

などが挙げられるだろう。挙げだせばきりがないが、この流れを象徴する最も地獄的な90年代的アイコンとして、近年のウクライナ侵攻を主導したウラジーミル・プーチンの名が浮上するだろう。

これらの出来事や人物に共通するのは、その意識構造下部に「タナトス」を蔵しているという点である。この、フロイトが提唱した破壊衝動や自己消滅への欲望という概念は、現代の社会や文化の中でしばしば新しい形態を取って現れる。露悪的な(しばしばマジモンの○○等々と呼ばれるアレな)自己表現のなかに、このタナトス的な要素が色濃く反映されている。



昨今のSNS政治は総じて「権威主義的リアリズム」とでも形容したくなるものであるが、ある精神的指導者=アルファー・アカウントがいて、”先生”がしゃべると、となりにいる側近たちが、コメツキバッタのように連動してうなづく、さらにそのまわりにはステージ高位の素人たちがいてその声をリツイート、またさらに、、というように、このような共同体の臨席・末席に自分を想定して、見ている者たちがいる。先生は、ネット上では「キリッ!」としているが、ほんとうは孤独なおじさんやアブないおばさんであり、モニターの向こうでは、いつも小便ちびりそうな顔をして、キーを叩きこんでいる。

この彼・彼女の祖先とは、麻原でも、重田康光でも、堀の中へと収容される前の、つまり弱体化する前のホリエモンでも、村上隆でもいい、かつてのイベサー界隈のような一部の先鋭化したユース・ストリート・カルチャーのあれこれでもいい、だがその根っこの根っこには常にタナトスが、簡単に”破滅”するのではなく、ぎりぎり”願望”でこらえ、”消耗”しつつ、一種の”エロス”をたたえながら存続している。



90年代表象の諸々と現在とでは「暴力」の質も変わってきてはいる。これは新たな疎外論というべきで、ロシアやガザで見られるような殺戮や差別が露骨化している世界情勢とは対照的に、日本国内では表立った暴力が後退している(闇バイトなど貧困を起因とする新たな社会問題が存在するとはいえ)ものの、かわりに「空虚」が前面にせり出してきている。

必然的に、かつては思いもよらなかったであろう問題系が顕現した。わたしたちは空虚という新たな地獄に対してあまりにも無防備であり、脆弱なのではないか?

これは、コロナ過以降、にわかに激増した「社会的孤立」や「精神的消耗」と密接に結びついている。さらにはプラットフォームを通じて広がる集団心理や虚構の承認欲求、自己実現の欠如が、「空虚」という現象をさらに際立たせている。

(近年の出版市場で仏教や老荘思想が小さなブームを生んでいることは、この動きを如実に物語っている。東洋思想は、空虚に対する修身や内面的探求を真価としており、現代の空虚を克服する手がかりを、”とりあえずは”という留保付きではあるが、提供しているからだ)



評価経済社会は、構造的には、光属性・闇属性いずれかの「無敵の人」駆動である。どうやら、より無敵に、よりエクストリームに、あればあるほどよいらしい。キャラクター先行型のパフォーマンスこそがユニークな価値として尊ばれ、実質的な影響力の源泉となっている。

一見すると革新性に満ちた時代の幕開けに思えるが、それはあくまで「がわ」に過ぎないのであって、新制度や技術の導入が叫ばれても、最終的にはそれを巧みに利用する既得権益者たちが、新たな特権階級として再編される構図が繰り返される。

この構図は、むろんドメスティックにとどまらない。たとえば(米)トランプによる政権奪取の過程や、それに続くテクノ・リバタリアンの政治的介入(にともなう既得権益”保守”勢力の一時的な縮退)などに、如実に現れている。



わたしたちはまだ、このアルゴリズムの支配から逃れる方法を見出せていない。この克服困難に思える課題を前に、希望を抱くことは決して容易ではない。しかしまた一方で、むしろ否定と絶望が、見落とされてきた本質を意識する契機になるのかもしれない。



現代の評価経済社会は、ハルトムート・ローザが指摘する「加速社会」の最前線に位置している。

デジタルプラットフォーム上でのキャラクター先行型パフォーマンスは、他者からの評価を資本へと転化する自己戦略の一形態であり、加速そのものを生存戦略に組み込むことで成立している。

しかし、その結果としてもたらされるのは、自己疎外とアイデンティティの断片化である。評価が自己の存在価値を決定する状況において、人間は「誰であるか」ではなく「どう見えるか」に終始拘束される。

この構造からの脱却には、単なる加速の停止ではなく、あるいは宇野常寛が提唱している”庭”のような脱ライフハック的な新概念でもまだ不足感がある。よりラディカルな本来性への回帰は不可避であると思われる。



カントが見立てたように、歴史は理性の時代と宗教の時代を交互に繰り返す。日本では”明治維新”以降の個人賛歌、個人の覚醒が「理性の時代」の到来を告げたとすれば、現代においては一転して、「宗教の時代」への回帰が始まろうとしている。

評価経済の極限まで加速した末に訪れる否定と絶望は、この回帰への契機となる。アルゴリズムに最適化されたパフォーマンス主体の自己が限界に達したとき、人類は個人という単位ではなく、宗教的帰属や共同体的つながりの中に新たな存在意義を見出すことになるだろう。



ただしそれは紀元前からあったプリミティブな宗教(=共同体=家父長制=エスニシティ)への回帰であるとも考えにくい。むしろ、過去の宗教形態を踏襲・再現せずに、それを乗り越えつつ、これまで想像すらつかなかったような、あらたな自己と共同体の再編が進行するのではないだろうか。

「宗教性」といっても、それを一言でいうことはできない。日本では少数派かもしれないが、崇拝する価値のあるものとして、自分達の人生の慰めと意味を与えてくれる宗教(神)なら、依然として存在している。そこまで原理主義ではなくても、マイルドな宗教身振りとして、思想や文芸や、その他もろもろの知的消費物(サブカル含む)や、家族関係やらの人生の意味の観照などに自分の最高の関心を持つ人達がいる。

このタイプはネット、とりわけチューブを観察している限りではあるが(また特定の世代にもよるが)増えている。このように考える人々にも、神聖さを尊ぶ心はあるようだが、それを神とか宗教とは呼ばずに、おそらく美とか善とか、幸福というふうに呼んでいる。新たな宗教性への回帰とは何か?それは何を示すのか?



かくして今現在、「煽り」や「炎上」によって成立している評価経済、あるいは単純な快楽刺激を無批判的に享受する人たちの熱狂や快楽が限界に達したときに、わたしたちは、いよいよ本格的な回帰を経験することになるだろう。わたしにはそのような予感がある。その際には、ちょうど明治維新における福沢諭吉の「福翁自伝」が個の目覚めの象徴であったように、今度はそれとはまったく異なった、生への態度を語る試みの可能性がひらくに違いない。

鍵となるのは、これを「反動」として「正しい」と心底、信じられるか否かである

というのも、これまで「正しさ」の典型とされてきた理性的態度では、この新しい人間を決して捉えることはできないからだ。なぜならば、そのような醒めた視線では、こうした新しい態度の真の姿を何一つ理解することはできないからだ。この「信念」がなければ。

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