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読まれない新聞と、まだ作っている僕

僕のまわりで新聞を読んでいる友人はほとんどいない。特に地方紙は、身近なはずなのに読者の生活から遠ざかっている。新聞の発行部数は毎年減少し、購読習慣そのものが社会から薄れつつある。
SNSやニュースアプリが主要な情報源となり、紙の新聞を選ぶ理由を語る人はほとんどいない。それでも、新聞社では今日も輪転機が回り、記事を出稿する記者がいる。読まれない現実と、作り続ける日々。その間にある小さな温度差を、自分の実感から書き留めたい。


同世代に新聞読者がほとんどいない

同世代で新聞を購読している人に出会うことはほとんどない。たまに聞くのは「日経は読んでる」という声で、地方紙を挙げる人はまずいない。ニュースはスマートフォンで流れてくるものであり、紙をめくる時間はすでに生活の外にある。
飲み会の席で、自分の仕事を説明すると「まだ新聞社ってあったの?」と返されることがある。もちろん相手は冗談で言っているのだが、言葉の裏にある距離は遠く、現実は厳しい。
新聞が「生活の中のもの」ではなく「どこかで誰かがやっていること」になっており、営業をしようにも「読まない、いらない」という圧倒的な意見の前ではこちらも売りようがないのだ。

変化する価値観

多くの人にとって地方紙に掲載されるニュースは他人事だ。それよりもゲームのアップデートの話や新作ガジェット、コスメなど、自分に関連したニュースが優先される。情報の価値は「公共性」ではなく、「自分ごと化できるかどうか」で測られるようになった。かつて新聞が担っていた「社会の全体像を知る」機能は、いまや個人の興味・嗜好の中に分解されている。誰もがそれぞれのタイムラインを持ち、そこに流れる話題こそが世界のすべてになっている。地方紙が語ってきた「地域社会」という単位は、その文脈からこぼれ落ちているのだろう。

ただし、災害や選挙といったテーマが無視されているわけではない。むしろSNS上では、それらをめぐって多様な議論が日々生まれている。議論の場が紙面からネットへと移っただけだ。
違うのは、かつてのように新聞が「一方的に語り、読者が受け取る」という構図が崩れたことだ。誰もが発言者になり、情報を吟味する立場を持つようになった。その意味で、新聞の“発信する側”という前提はすでに過去のものになりつつある。

それでも作っている

それでも新聞社は毎日、新聞紙を発行している。取材をしてレイアウトを組み、夜になれば輪転機が回る。その過程を見ていると、単なる産業やビジネスではないという実感もある。紙面には、誰かの時間と手間が詰まっている。

記者たちは地域を歩き、人の話を聞き、言葉を拾っている。その積み重ねが紙面になる。読まれなくなっても、誰かの声を残すこと自体には意味がある。内情を知る人間としては少なくともそう信じたい。

ただし、現実として、この形をいつまで維持できるかはわからない。広告収入も減り、定期購読の柱も揺らいでいる。新聞社の収益構造そのものが限界を迎えつつある今、続けるためには、何を切り捨て、何を残すかを選ばざるを得ない段階に来ている。

地方紙の価値「近さ」はまだ残せるか

地方紙が持っている価値は、「近さ」だろう。地元の事件、学校、店、選挙、誰かの訃報。全国紙では拾われない地域の輪郭を写してきた。だが今、その近さが必要とされていない。近くのことを、わざわざ紙で知る理由が薄れている。

それでも、完全に不要になったとは思わない。地域を伝える手段が変わっても、地域を語る言葉は残るべきだ。たとえば、町の商店街の閉店記事や、地元校の吹奏楽部の全国大会出場。そうした小さなニュースを記録し続けることは、確かに誰かに届いている。

問題は、誰がその言葉を紡ぐかということ。新聞という形でなくても、地方紙が担ってきた役割をどう次に渡せるかだと思う。

記録が残すもの

新聞を読まない人の生活も、新聞を作る人の生活も、同じ時間の中にある。その距離が広がるほど、作る側の言葉は届きにくくなる。それでも、誰かが地域の出来事を記録していく。”新聞紙”はなくなるだろうが、記事は残る。数年後に誰かが検索し、当時の空気を読み返す。そのとき、短い記事の一文が、地域の記憶をつなぐ手がかりになることもある。
新聞の価値は、即時性ではなく、過去を照らす記録としての蓄積にもある。どれだけ読まれなくなっても、紙面が残してきた時間の断片は、きっと未来の誰かに届くはずだ。

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